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2016.08.06 Sat
≪緊急提言≫アウティングで追い詰められた一ツ橋大学の自死を巡って痛切に思うこと
……カミングアウトは、性的少数者のみならず、全ての少数者弱者にもかかわるもの
最初に、オリバー・サックスの自伝より、彼がオックスフォード大学時代にゲイとして愛の告白をした相手が、丁重に「君の思いには応えられないけれど、お互いの友情は何一つ変わらない」という意志を貫き通した例から入ろうと思う。オリバーはあの映画『レナードの朝』で、今は亡きロビン・ウィリアムズが演じた医師その人である。ドクターで偉業もなし、また物も書くという人。彼が初恋で告白した相手は、遠い大陸から来ていたアメリカ人の青年で、才能に溢れた天才的な学生だったと書かれている。
しかしながら、彼はやがて難病になり帰国。オリバーは数年後、片思いながらも初恋の相手が死去したことを知らされる。そして、その時の痛ましい思いを記している。
この自伝は長編で、大学時代の最初のほうと、『レナードの朝』に関わる章立てだけを読んで図書館に返した。オリバーの初恋をこんなふうにしみじみと知ったことが切なかった。
こんなふうに成りたたない愛を、丁寧にデリカシーに満ちた対応で応じられない旨、応えた例は巷に溢れているはずだ。相手が性的少数者である場合はもちろん、在日であったり、障害者であったり…。むろん、異性愛者でも成り立たぬ恋であったり、などなど…。
あるいは、家族に自殺の例があって、足踏みされたり…結局ふりきられたりなど。(これについては、ある分かち合いで深刻な例が打ち明けられていた…。)
むろん、ニュースにもほぼ忘れられた感のある相模原の殺傷事件の際の、被害者の名前が公表されないというのも、クローズにせざるをえない背景があるゆえというのは承知している。その上で、個々の名前があってこその追悼ではないか、とあえて投稿もした。
発達障害や精神障害の場合、就労支援の現場で、ハンディをクローズにするかオープンにするか、といった選択もあり、そういう表現もされる。どちらを選んでもストレスなりプレッシャーはある。しかし、オープンにするという時には、よほど周囲の理解がなければ障害名だけが一人歩きして曲解を招いたりなど、困難な例も多々あることだろう。
さて、一ツ橋大学でのアウティングの経緯などは、シェアした記事から読んでいただきたい。これはきわめて深刻な例だ。自殺に至った男性の側のカミングアウトが、いかに命がけの行為だったか、相手が一切想像力を働かせていない点が恐ろしい。しかも、恋愛対象となった相手に、そのことをもって告白しなければならない、という事が、どれほどのプレッシャーとストレスを伴うか、そしていかにデリケートにして個人的な事柄かが、全くと言っていいほど伝わっていない。
それまではきわめて親しかった関係のなか、最初は「受けられないけれど友情は変わらない」と言っておきつつ、告白された側が徐々に、そして急速に、どんな感情に耐えられなくなったのか明らかにされなければ、このような事件はなくならないような気がする。
そこにあるのは、明らかにホモフォビア…性的少数者を訳もなく忌み嫌う感情…としか思えない。当初はそれまでの友情の蓄積ゆえに持ちこたえていたものが、告白されてしまったという衝撃に耐ええず、アウティングという加害行為とも言えるアクションへと移っていった辺りが厳しく検証されなければならないところだろうが、このような行為はきわめて無意識にして悪意に満ちいてるので、なかなか認識されないところだろうし、認識されたとしても、すでに相手が亡くなっているなか、口が裂けても語らない、という方向づけが「身を守り、事態から目を背ける」多くの日本人の身の処し方である以上、当たり前になされるのだと思う。
今までに一体何回、カミングアウトとアウティングの違いについて、口を酸っぱくするほどに繰り返し話し書いてきたことだろうか。
これがなかなか判らないのである。
この二つの対象的とも言える違いを見事クリアーできる日本人は、ごくわずかだというのが、繰り返し伝えてきた結果、私がかみしめている実感である。日本人の多くには、この違いは、きわめてレベルの高い社会性が問われているのである。
それは、日本という国が異質なものやら、あらゆる違いやらを受け入れがたい、という点に象徴される現象だ。つまり、どんな人であれ、その人がその人自身であることを疎外し許さない「二次障害を生みだす社会」が放置されているからである。
もう何度したか判らない説明を、今日も繰り返す。
カミングアウトとは、自己の尊厳と誇りをもって、社会的にいまだ認知されにくい、あるいは全くされていないアイデンティティやマイノリティ性を、自ら明らかにする行為をさす。自ら…という点をけっして忘れてはならないし、尊厳と誇りが、きわめて繊細で、時に危うくもある思いとともにあるということも忘れてはいけないと思う。
つまり、命がけの行為なのである。
かたやアウティング。こちらは、善意悪意を問わず、当人に断りなく、他者にそういった、社会的に認知されていないアイデンティティを漏らしてしまう行為をさす。善意悪意を問わず、ということを忘れないでほしい。善意をもって知らせたつもりが、広がるうちにすさまじい悪意に行きあたる例だっていくらもある。
一ツ橋大学の案件を見ると、そもそも打ち明けられた側がいつしか、その事実に耐えられなくなったとしか思えない。耐えられなくなった時、それではどういうふうにそんな自分に向き合うかが、今や日本人の誰もが問われているようにも思える。
しかも、彼らは法律家となるべく道を歩んでいる学生たちである。そこはきわめて厳しい人権意識をもって自身を問わずにはすまないはずのところだったと明瞭に思う。
あるいは、もはや他者に言わずにはすまないところまで、何らかのもやもや感、差別観やら嫌悪感に基づき追い詰められたとしても、第三者機関とも言うべき然るべき相談機関があるべきではないのか。むろん、相談する相手は、性的少数者の実情に明るい人間であるべきだし、真摯に告白した側の必死であったろう姿勢を、むやみと傷つけない対応がどうなされるべきか、そして、告白された側にやむなくあったろう「やりきれない思い」がいかなる変化をへて、まともな思いとなりうるか、共に悩める相手でなければならないだろう。むろん、守秘義務は徹底されなければならない。
痛ましい限りなのは、自死に至るまでのゲイの彼の心身の変化である。これについては私も身に覚えがあり、容易に想像できるところである。ただし、私の場合は性的少数者であることをもってなされた言動を背景にしている訳ではない。それだけは明らかにしたい。
ともあれ、これはイジメ自殺と全く同じ構造をもってしまっている。アウティングは精神的暴力、ハラスメント、アイデンティティクライシスを招く行為と言っていい。
私は義務教育のなされている校内で起きたイジメ自殺で、提訴した両親が嗚咽しながら、「私たちばかりが丸裸で、周囲は鉛のように押し黙って何一つ言わず語らず、学校もどんな説明もなく…」と語るのを目の当たりにしたことがある。
さて、私たち二人の現実に戻ろう。
私たちは、5年前、性的少数者として公共放送のドキュメントをもって、カミングアウトをしたと言える。
だが、どんな時も、どんな人にも、そのことが周知されていてほしいなどとは、露ほども思わない。そんなふうに人権意識が確立した日本社会ではないことは、都会であろうと地方であろうと、何も変わらないことを熟知しているからである。
そうして、明らかであること明らかにすること、と、曖昧のままであること曖昧のままでいいこと、と、伏せていること伏せていいこと、とを往復しながら生きていると言える。
そして、多くの場合は、レズビアンという表現も、…ましてや、レズビアンマザーとして、子どもと共に破天荒に生き抜いたおもみなど、性的少数者にはむしろ、とても理解されないことをも知りぬいている。
それよりも、「英子ちゃんと恵子ちゃんはどんな関係よりも、大切にしあっているし、この上なく信頼しあっているよね」と言われることに甘んじているというより、そういう表現のほうが信じられると確信している。
性的少数者の課題には、最近はほとんど近づきたくない思いがつよい。これほどまでに、人を押しのけ、上にのし上がることのみに邁進している少数派のアクティピストたちを垣間見るのは、私には心身の毒となることのほうが多い。彼らの多くは、LGBTという記号と、6色の虹の旗をのみ、正義の御旗として大切に思っているように映るのである。
人間にはやむにやまれぬ様々な生活や、人生の切迫した要請がある。処さなければならない理不尽な出来事も多々ある。それらを切り捨て、ステレオタイプに物事をあてはめることに私は耐ええない。けっして耐えたくはない。
私のもっぱらの望みは、世界中からレズビアンマザーで、「かくれ発達障害」の子どもを自死で亡くした人を探しだして、その人と思う存分語り合うことである。
私自身の痛み、喜び、嬉しさ、悲しみ、それらはすべては私自身のものでしかない。
しかしながら、「うたうたい のえ」の生き切った、唄いきった人生のすべてへの頷きとともに、断腸の思いで娘の自死の事実をも差し出した番組で受けた、性的少数者からのバッシング、沈黙、忌避、いやがらせ、誤解曲解の類いは、今だに左の脇腹の痛みをぶりかえし、フラシュバックで眠れない夜をも呼びさます。
かなり免疫ができてきたとはいえ、やはりそれらの無神経な対応にはいまだに慣れないし、慣れなくていいと思っている。
それは彼らが、私たちのドキュメント番組に、レズビアンとしてのカミングアウトしか見なかったからである。自死でノコサレタ家族としてのカミングアウトの、繊細にして限りない意志と悼みをこめた思いを、けっしてくみ取らなかったからである。
が、なかにはそのことに慎重に言及した年長のレズビアンマザーの女性…などなどがいることはつけ加えておく。
あの番組に二つの稀有なカミングアウトが含まれていると自ら気づいて、直接私に語ったのは、ある自死遺族の分かち合いの会の二次会でご一緒した、ある年配の女性だけだった。
彼女は言ったものだった。
「よくぞ、ふたつものことを外に出されて…。本当に誰もできないことです…」。
閑話休題。
一ツ橋大学での家族の側の提訴に戻る。
被害をこうむった側がすでに亡きあと、大切な事実を語れる口を持たない中での提訴の、いかに困難なことかを、私は察するばかりである。
瑣末なことに映るかもしれないが、提訴した額が、アウティングした学生の側に百万円、大学側に二百万円というのも、けっして損害賠償が目的ではなく、いかに真実が明らかにされることだけを望んでいるか、という現れと思えてならないのだ。
いつでもどこでも、いかに真実が明らかにされないか、というのが日本社会である。
そして、ますますそういう社会になってきてもいる。
2016年8月6日 ヒロシマの日の夕刻に記す Sotto虹主宰・米谷恵子
| 悲しみにSOTTO虹
| 22:41
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2016.06.05 Sun
その日々、空は果てしなく広かった
剛くんのメッセージを読んでから、庭仕事のみならずその延長というより、明確な目的をもって、私の部屋から一番遠いところにあって、朝の散歩というほどではないにしても、朝の小さくて大きな旅みたいに、田んぼの畦を歩いて、カラが描いた壁画が斜め遠くから見渡せるところまで歩いた。壁画はわが書斎の窓外に広がっているというのに、これぞ灯台もと暗しというのかなあ、遠いのだ。見渡すためには…。
ただし、窓から見下ろすと絶壁のようにそのモチーフが語りかける。絶壁だ。否、絶景だ。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとしだから、外に出る。庭をまわる。花々をやりすごす。ぐるりと野原となった敷地内を歩いて、猪よけの柵をまたいで畦に出る。
今朝、畦をひとりで歩いていて気づいた。この地域でぼちぼちこの壁画を見に来てくれる人たちは、何食わぬ顔をして畦道を歩く。平均台というほどではないにしても、ちょっとしたでこぼこもある草のある細い、水の張られた田んぼに挟まれた道は、それほど歩きやすいとは言えない。みんな、実に堂々と歩くなあ、と思っていた。
いや、違う。私も歩いていたんだ。小学生のころの記憶が歩く足元の先から不意にたちのぼってきた。
千葉県習志野市の房総平野の野原のなかに、忽然と現れた25軒の、今から考えればきわめて素朴な木造りの建売住宅の1軒で、3歳から12歳まで、私は両親と姉と、そしていつも黙って私を受け入れていた祖母とともに育った。
すぐ近くには田んぼが広がっていた。それは巨大なくぼ地といっていい広さで、向こう側はかすんで見えないほどで、その向こう側は屋敷町という町名で、子ども心に縁のない地名のような、何かとらえどころのない名称として今も刻まれている。
その田んぼで私はよく遊んだ。ガマガエルが何匹も、これ以上汚いためはないってくらいのところで、棲息している姿を、脅威的な驚きとともに、いつまでもいつまでも観察していたこともあった。
田んぼとともに広がる畦道はいつの間にか、私や近所の子どもたちの遊び場となっていた。
おばあちゃんが花を活けるといっては、松の枝を切りに行くのについていくのも、この田んぼを見下ろす野原のなかのちょっとした小山だった。
そうだ、私は歩いていた。すたすたと、どたどたと歩いていた。あの房総の広大な野原のなかにあいた大きな穴ぼこみたいな、まるでどでかい隕石でも落ちてできた窪地みたいな田んぼ道を歩いていた。歩いていた、歩いていたのだ。
そして、時には走っていたのだ。
東京オリンピックが終わった翌年、一家は世田谷に引っ越した。父が国家公務員をなぜか早期退職し、ある商店経営に着手したのである。
世田谷の商店街は狭々と幾つもの店がたてこんでいた。その一軒の二階が我が家の住まいとなった。おばあちゃんは始まっていた認知症を、住まいが変わって一気に悪化させた。
あの日々、私は東京の空の狭さにうなった。もっと空が見たかった。もっと海が見たかった。もっと赤い夕陽に染まりたかった。
雪が降ると、中学までの道の途中にある空き地がうっすらと白くなった。足跡をつけて遊んだ。ぽこぽことはまるほどの北陸の雪なんかではなく、淡いはかない、今にも消えそうなうっすら白い空き地を、そうっと踏みしめた。
中学への通学路には今度こそ、本当のお屋敷があって、そこはうっそうとした森に囲まれていて、大邸宅などとても見えない。なんとか背伸びをすると、少しは見えたような記憶がよみがえる。
習志野から世田谷へ。
それは田んぼと田んぼに張る水とそこが波立つ風の仕業を知る格好の場所から、狭い空の、ちょっとした空き地だけが救いみたいな場所への、家族揃っての移住でもあった。
私は千葉県のまだ田舎だった野原が、刻々と住宅街になっていく様子を目の当たりにしながら育った。
家の前には畑が広がり、母は野菜が足りなくなると、そこからひと房くらいは失敬して、料理にいろを添えた。この人、すごいなあ、やるなあって子ども心に思っていた。
そんな母は都心に早朝のバスに乗って通勤していた。
父は国家公務員として東京に通っていた頃もあったし、東北に単身赴任していた時期もあった。そういう時は母は、えらく開放されたようで生き生きとした。台風なんてなんのそのっというように、雨戸をとんとんと打ちつけて、なんでもできるのよーってうそぶいていた。
そうなんだ。私は田んぼを、畦道を駆け抜け、走り、歩き、いつくしみ、遊んで暮らしていたのだ。
あの小学校時代。あの習志野市花咲町の、今や昔の建売にすぎない木造の一戸建てに、母の夢をこめて住み…父は母に押し切られてここを購入したとあとで聞いた…未舗装の通学路を歩いて登校した。
その日々、空は果てしなく広かった。
入道雲は、むくむくと夏の空にせりあがった。
夕焼けは目にしみるほど赤く、時に紫にそまり、時に藍色に目に焼きついた。
私は畦道を歩いて、歩いて、広い空をぼんやりといつまでも仰ぎみながら、気づけば中学生になっていた。そこには「偏差値」という名の、人間評価が待っていた。
空の広さなど忘れなさいと脅かす、東京の街が待っていた。
2016年6月5日 昼前 恵子
| 人生の深遠から煌めく
| 09:04
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2016.06.03 Fri
『Sotto虹』の「終わりと始まり」のためのリサーチに どなたもご協力、よろしく!
えっ、熱心な読者なんかじゃなかったから、そんなのできませんよ、ですって。いえね、その熱心な、とか、時間見つけてそれなり淡々と読んだり読まなかったりの、このコミュニティページ、いかがなものだったのでしょうか。あなたの人生に多少なりとも関わっていましたか。いやはや、FBのそんな投稿に期待なんかしていやしませんよ。と、いうお声も聞こえそうですが、それはそれなりの背景や実態や理由があって、お察しの方々も多いか…そうでもないか?…と思いますが、この段階にいたりました。
そこでですね。最近、FBのリアクション記号の選択肢が増えたのをリサイクル?利用させていただいてのリサーチとあいなります。最後に挙げる、長田弘さんの詩作品3つには、もしかしたら、あなたのこれまでのSotto虹とのふれあいを想起させるものがあるかもしれません。なにしろ、3作品のタイトルは、「言葉の死」「嘘のバラッド」「われわれの無残なバラッド」というわけですから。
それでは、5つのリアクション記号を、この投稿に限って、以下のようにご理解してご利用いただきたいということで、例示いたします。
「自分がいつも読んでいる感覚は、これに近いなあ」って程度でいいですから、できるだけ多くの方に、リアクションしていただけるものなら、主宰と事務局の米谷恵子と岩国英子にとっても、この上ない歓びです。はーい、それでは……♪♬
そうそう、以下のリアクション記号の「順番」は、この投稿では独自に並べてあります。あしからず。
超いいね⇒投稿されるごとに、時間をできるだけ作って大切に読んでいます。読後しばらく内省するように自身を顧みたりすることもあり、大変刺激的でありながら、実に穏やかで心地よい言葉との出逢いとなっています。自分の日常の一部となり、いずれご一緒できることなどあればと楽しみです。
すごいね⇒これだけ、日本中にはびこる偏見、それ以前のタブーとも言える事柄に、淡々と、時には大胆に「杭を打ち込む」みたいに言葉にする勇気にエールを送られるような気持ちです。
特に「生きづらさ」の極限にある、「自死」と「自死でノコサレル」という事実に集約する日本の闇に光をあてようとするチャレンジには、どきりとさせられながら気づくことが多々あり。大切な集いやワークショップの告知も注目しています。
いいね⇒忙しい時もあり、読めたり読めなかったりですが、できる範囲で読めるよう心がけています。
判らない言葉は検索したり調べることもあります。はっとしたり、霧が晴れるように腑に落ちたり、逆にもやもやした気持ちに余計なったりといろいろですが、自身に必要な営みとして読むという行為を続けていきたいと思います。
うけるね⇒いつもって訳ではないんですが…だって長いのとか読み切れないこともあるしね…それでもたまに、これって自分のあの課題とがっちりフィット、よくぞ言ってくれたって感じになります。誰も言わないことだったり。でも、いつもって訳ではありません。
悲しいね⇒つくづく「傍観者」に過ぎない自分を痛感します。できるものなら、逃げたいような課題が多いからだと判っていますが、身につまされるばかりでどうにもなりません。そんな自分がふがいなく悲しくなります。見つめなければ始まらないと判ってはいるのですが。
ひどいね⇒こんなに、人間の弱さや愚かさについてリアルに肉薄して書かれるのに抵抗を感じます。まるで責められているみたいな気がするし、ひどいFBコミュニティーページだと思います。すぐにでも閉鎖して、見えないものには蓋を閉めて生きていく人生に返らせてほしいものです。それでも、怖いもの見たさでしょうか。つい、開いてしまいます。だから、余計混乱します。自分が、ただの野次馬なのか、強迫的な思いをなんとか持ち直したいと思っているのかは判りませんが、ひどい投稿ばかりで本当は読みたくない気持ちも大きいんだと、どこかで判っています。
以上の選択肢にしたがって、「終わりと始まりのためのリサーチ」にご協力いただきたいと思います。
できるだけ多くの方々の反応をお待ちしています。各選択肢におさまらない思いが、「これに近いと思いつつもある場合」は、リアクション記号を選んでから、遠慮なくコメント欄にビミョーなあたりなど書き込んでください。その際、このコミュニティページの主旨を逸脱しない範囲でお願いします。
主宰者も事務局の担当も、血も涙もある人間ですので。
なお、このアンケートのアイデア、なんとも、おもしろーい、という「いいね」は今回はご遠慮願います。(笑)あくまでも、上記の選択肢にそった「リアクション記号」の使いかたでお願いいたします。それでもという方は、コメント欄に。
なお、「悲しいね」「ひどいね」はなかなか選べないかもしれませんが、今回に限ってせっかく選択肢としてあるのですから、思いきってご自分の気持ちを表明してみてください。
それでは長田弘の詩作品三作を次に挙げます。これまでのSotto虹のこのページとのふれあいを思い起こす「呼び水」のような働きとなる気がします。いや、なんで、どうして、これを挙げるのって方もいらっしゃるのかな。いやいや、ここまでおつきあいいただいた方はそんなことはないのかな、など思いつつ、えいやっと、三作品。みすず書房の全詩集より。94ページ、99ぺージ、101ページ。
言葉の死
言葉が死んでいた。
ひっそりと死んでいた。
気づいたときはもう死んでいた。
言葉が死んでいた。
死の際を誰も知らなかった。
いつでも言葉とは一緒だったが。
言葉が死んでいた。
想ったことすらなかったのだ。
いったい言葉が死ぬなんて。
言葉が死んでいた。
偶然ひとりでに死んだのか、
そうじゃないと誰もが知っていた。
言葉が死んでいた。
死体は事実しか語らない。
言葉は殺されていた。
言葉が死んでいた。
ふいに誰もが顔をそむけた。
身の危うさを知ったのだ。
言葉が死んでいた。
誰にもアリバイはなかった。
いつでも言葉とは一緒だったのだ。
言葉が死んでいた。
誰が言葉を殺したか?
「わたしだ」と名乗る誰もいなかった。
嘘のバラッド
本当のことをいうよ、
そういって嘘をついた。
嘘じゃない、
本当みたいな嘘だった。
ほんとの嘘だ。
口にだしたら、
ただの嘘さ、
どんな本当も。
ほんとは嘘だ。
まことは嘘からでて
嘘にかえる。
ほんとだってば。
その嘘、ほんと?
ほんとは嘘だ。
嘘は嘘、
嘘じゃない。
ほんとは嘘だ。
嘘なんかいわない。
ほんとさ。
本当でも嘘でもないことを
ぼくはいうのだ。
われわれの無残なバラッド
そうなんだ、
そういうことだ。
そういうわけで
そうなんだ。
そういうふうだし
そういうことだし
そうじゃなければ
そうじゃないが、
そうなんだし
そうだったし
そうであるだろうし
そうなんだ。
なあ、そうだろう?
そうだろうが。
そうじゃないと
そうはいえまい。
そうしたさ
そうするさ
そうなるさ。
きれいに片をつけてきた。
歴史を
二行で。
「いろいろなことがある
いろいろなことがあった」
そういうことだ。
そうなのか?
2016年6月3日 昼下がりのベロ亭で、
庭仕事とやきもの制作の手を休めながら
Sotto虹主宰 米谷恵子
事務局 岩国英子
リーチ214人
| 心底飛びきりのケイコ節
| 08:44
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2016.05.18 Wed
「声」というものを、あらためて思わせるメッセージが、ラジオの印象として届く。かおるさんのメッセージから感じた、のえのこと、そして私のこと…。
眼前には、竹内敏晴氏の「ことばがひらかれるとき」、「声が生まれる」、「『からだ』と『ことば』のレッスン」など、発語とからだのつながりを微細に語る、その道をきわめた著者の文庫や新書が並んでいる。今夜9時半にかおるさんから届いたメールにふれて、「声」について、また言葉との響きあいやつらなりについて、ひしひしと思った。
私は時に失声に入り込むことがある。娘を喪う以前は、抑圧的な人…特にウーマンパワーを打ち出す女性政治家!…を前にすると、ややどもったり、言葉が引き気味になったりもする。子どもの頃からそうだった。
最近はそういうシーンにはほぼ遭遇しないし、そういう場面でも、鍛練の甲斐あって、びしばし言うべきことを言う人と思われているかもしれない。
失声症状というものは、なかなか伝わらないものでもある。
「えっ、風邪で喉をやられたんですか」とある自死遺族の分かち合いですら、言われたことがある。
「いいえ、発声器官になにか問題がある訳ではないんです。もうこれ以上、何を言っても伝わらない、伝えようがない、そういったストレスというか、奥深い慟哭のようなものが限界をこえて、言葉を発する意味をなくしたとき、声が出なくなるんです…。」
多くの人には、実際そういう人に触れたり、みずから経験したことがなければ判らないことらしい。が、実は見えないところで、かなり多くの人に発症していると思われる。
なにも、あのお堀に囲まれて、人間的な暮らしを奪われたうえに、姓名を持たない一家の「姑」にあたる人物だけに起こる訳ではない。となれば、彼女は家制度の最高峰を生かされた犠牲者でもある。
PTSDに匹敵する体験、自分で解決のしようのないジレンマを伴うストレス、などなど、引き金は様々だろうが、自死でノコサレタ人にも、むろんそういう症状が出ることはある。あきらめて、何も伝えたいと思わなければ、別の症状なのかもしれない。リューマチの悪化とか、一年半寝たきりとか、様ざまな依存症とか、自死でノコサレルという体験のあとに起きる状態は、そういう人の数だけ千差万別にあるのだ。
グリーフケアとしての「ねぎらい」やら、「なにげない寄り添い」やらが適切にあったら、また本人が悲しみを否定せずに生きられる環境があり、体験そのものがグリーフワークとして滞らなければ、そういう余計かもしれない、寄り道的かつ壊滅的な症状は回避できるはずだと私は思っている。
私が十日間、声が出なくなったときは、娘の本の執筆の山場と、そこに向き合う作業への無理解の最たるものがふたつも重なったうえに、別件で身内のように親しいけれど、実は理解し合っている訳ではない地元の同世代とぶつかった直後のことだった。
実はそれよりずっと以前には別の症状もあったが、それについては今日は触れない。
ただ、それがあの番組後の、なにやらマイノリティの旗手との間で起きたことだけは、おさえておこう。とはいえ、相手は私に何が起きたかは何も知らない。
私は大人だから、大人としてふるまう。ふるまうときには、なんともなく生きていると思われがちだ。みんな「こども」だから仕方あるまい。求めても求めても、やむないことの連続でもある。
求めることは、とおにやめた。絶望はしかとある。
が、むろんあきらめてはいない。
声。
のえは声の人だった。それは、のえに惚れ込んだ音楽仲間なら口をそろえる。
声。
私は自作の言葉を、詩を、朗読する者だ。最近では、唄と朗読の透き間のような、「声の演奏」とも「フリージャズ」とも言われる、不思議な表現に行きついている。そうしかできないというか、そうとしかありえない、そんな声とともに。
さて、今晩、かおるさんから届いたメールを紹介しよう。
体調も思わしくないうえに、仕事も立て込んでいるなかで、一旦、仮眠をとってから書いてきてくれた、そんな内容である。
「本放送をインターネットを通じて拝聴しました。
仕事場で聴いていたので、途中電話などの邪魔が入ってしまい、完全な状態で聴けてはいません。
英子さんのお話は後半のみしか聴けませんでした。
想像以上に低いいいお声だなあと思いました。
告知にありました、のえさんの歌が聴きたいというのが、一番の楽しみでした。
どんな歌を聴くときでも、私は耳で聴く言葉が頭に入ってきません。唱だけではなく話も同じと言えます。言葉は文字で読まないと理解ができないのです。
その歌は、声と音は、耳に心地よく力強くもあり、心の中にずしりとくるものでした。文字であらためて歌詞を読んでみたいと思っています。かなうものならば。
恵子さんのお声を聞いたとき、ああ、お電話と同じ声だとバカみたいですけど思いました。
Sotto虹に書かれる文章とお話しする声の印象は、かなり違うなと思います。
こんなに柔らかい声、優しい口調で話しかけてくださっているのだ、文字の鋭い考察は、この柔らかい人から発せられているのだなと、ラジオを聴いていて思ったわけです。
途中、嗚咽されましたね。(恵子注⇒やっぱりここでも伝わっていたんだなあ‼) 思いを全身全霊で絞り出すように、語られていらっしゃいました。
あの後は、かなりお疲れになったであろうと想像しています。ご自分の奥深くにあるものをすくいだし、眼の前に人がいない状況でマイクに向かって語る。その場で聴衆の反応は見て取れない。大変なお仕事であったことでしょう。」
つけ加える。ミキサーの女性はかなり物も判り、人の痛みも感じ取る人物である。彼女がいてくれるから、どんなことでも語れる、というのが英子がここまで継続できた背景にあると言える。私のあの内容であれば、それについては言うまでもない。ミキサーの担い手は機械をあやつるだけではないはずだ。
「うたうたい のえ」の草創期。
彼女は新宿の東口のガード下を、夜通しの拠りどころとしてスタートした。
その場所で切磋琢磨した音楽仲間が私に伝えた。
「のえの唄は、声、声の波動そのもの…」。
それからこう伝える人もいた。
「実際この眼でよく見たものです。言葉が判らない外国人が、のえに真っ先に近づいていく…。それよりも何よりも驚いたのは、眼が見えないかたが近づいていったとき。そういう大変なかたをも引きつける声の力が、のえにはあった…。
僕らは真似しようったって、どう転んでもできない。」
Sotto虹の投稿で、私の書く文面の意味あい、抒情、論理などを読みこんでいる、ここ数カ月の読者のひとりが、こうしてラジオから「声」を聴き取っていたことは、今日という日、大きなことである。
声はむろん、意味を伴う。
しかしながら、声そのものは感覚そのものの発露である。
それが届いた人の存在を、心から祝う。
のえのあの「声」とともに。
カゲさんが言ったように、あの特別な声が届いた人がいた。
そのことを祝したい。
かおるさん、ありがとう。こころの底から、ね。
2016年5月17日午後11時50分 米谷恵子
リーチ63人
| 言葉と声の可能性を音楽と共に探って
| 08:40
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2016.05.17 Tue
♪階段を昇りーつめたら、今夜、飛び込んでみようかあー♬
のえの唄声のオンエアと共に。
毎週、手伝いに来る剛くんが、日曜のその時間には、作業の手をぴたりと止めて、ラジオ放送に聞き入った。私は種をまきながら、英子の話をはじめて感心しながら聞き(生放送の時は、自分のタイムテーブル作りに集中していた…)、やがて自ら語ったラジオの声に集中するほかなかった。春の陽射しの中、ベロ亭の花も樹も耳傾けただろう「Sotto虹の時間」。剛くんは、庭の椅子に座って、空を仰ぐような姿勢で集中する。
英子が凸凹陶芸教室に注ぐ思いを語ったあとは、私の声が続く。リアルタイムに耳傾ける人の表情が、はじめて眼前にある。庭に急きょ持ち出した古いラジカセを少し高い所に置き周波数を合わせると、ガアガアいう雑音を少しでもなくすべく、剛くんと英子が、当然のようにアンテナを伸ばした先から線をつなぎ木の枝にひっかけ受信状態を改善する。
あたかも、少しでも自分たちが発信したものが、空中に拡散し、二度とキャッチできなくならないように。親しい眼前の視聴者が、ごく自然になにものかをキャッチするように。
2時半から3時45分の午後としては大切な時間の、放送による中断で、その日の作業が遅まり、そうやって彼が聴き取ったものを、ようやく夜遅く帰宅しようとする彼をしばし引きとめて訊いてみた。パソコンには北の友から、「ききました」とメール。どうやら、聴いたあとだろう時間に一人、「いいね」が加わった。そんなひとつひとつを、胸のつかえをほどくように、かみしめる私がいた。生放送の直後も半日ほど、そしてこの日も、作業にすぐ戻った二人からは、「おやつの時間」まで素朴な感想すら聞けず、自分の発信したもろもろが自分にずしんと返ってきて、胸がつかえどうにもならない状態に陥っていた。
2時間たたないうちの「おやつの時間」。コーヒーを飲みながら、3人で話した。
「早口で聞きとれないところがあったかもだけど、ちゃんとに話していた」と私。続けて、「でも、うっとなって泣きそうになったところとかは判らないよね」と自信ありげに私。
即座に、剛くんも英子も「それは判りましたよ」「判った判ったよ、音声聴いていたら判るよ」と返ってくる。「えっ、そうなんだ」。きっと私の中の内圧の高さと、声という表象となって顕われるものとのギャップが、私にとっては「なんだこの程度なんだ」と感じたものが、彼らの耳にはそう届いた、そんな落差なのかもしれない。内圧は誰にも届かないが、そのわずかな顕われは、音声となっていたと了解するべきなのか。
「なんだか、こんなローカルFМではなくて、深夜の全国的なラジオ放送かなにかを聴いているみたいだったなあ」と剛くん。
「これだけを聴いた人たちは、恵子ちゃんのこと、どんなふうに思うんだろうね」とまた心配するような仕方なさそうな、それでも嬉しげな英子。
「明るい、しっかりとした、そんな人に映るのかな」と続く。
「ああ、それだけ聞けて、少しすっきりした」と私。
来週のカラのライブペインティングに向ける現場の整地作業や、草刈りがまたふたりの手で続けられる。私は花の植え替え、しおれかけた花の丁寧な水やりと走り回る。
工場に就職して、フルタイムで働くだけではなく、残業もきわめて多い最近の剛くんは、かなり疲れ気味である。夕飯の頃は、3人ともへとへと。前日の土曜は、英子がチェーンソーで切った木を、マキ割りしてもらったりもした。ふと見ると、今まで見たこともない真剣そのものの顔で、マキ割りに向かう彼の顔を土曜のあるタイミングで見て、はっとする。
夕飯後、続けてもらっている、各地の過去のキャラパン先のリスト作りを剛くんは、それでも続ける。英子がフォロー。ほとんどタッチしていない私も、たまたま聞こえてきた事柄が、私の部屋のキャラバンのノートを見ればすぐ判ると察して、2階に上がったり。
1981年から30年ほど続けた、全国600カ所余りを巡った各地の開催場所や世話してくれた人たちのリスト化では、「うん、そこはね。あんなに有名になる前の『べてるの家』の支援者が北海道の浦河で支えてくれたキャラバンの次の開催なんだよ」などと伝えると、「なんか、すごい歴史をたどっているんだなあ」と彼は感慨深げにのめり込んでいく。
以下、剛くんからの、放送の印象の聞き取り、『断片的なるものの社会学』風に!?
「恵子さんの語りは、スケールがすごいなあ。NHKの全国放送の深夜のラジオでやっているような、著名な人物がしゃべっている、知っている現場のリアリティを知らせるような新鮮さがありましたね。
日本社会がこういうふうに見えるんだ、という面白さが伝わってきた。
「視点・論点」というのかな。なんというのかな。いつもやっているような…。
まさに、日本が今、必要としている、そんな感じでした。」
私の話は、「喪失体験」と「それをどう伝えるのか、伝えないのか」というテーマが中心と言えた。むろん、究極の喪失としての「自死」に集約するところははずせない。
彼の語りは途切れ途切れながら、続いていく。
「聞きながら、戦争の話のような…それも大きな喪失体験なんだな!って。そういうことも語られないままで来てしまったことが浮き彫りになるような、そんな話…。」
たしかに、私は身近な喪失体験としての個人史の語り継ぎも、日本史や世界史のありかたも同じおもみをもって語っていた。
やがて、「リメンバーのえの時間」へと、剛くんとの対話は入っていく。彼の主だった関心は、やはり、のえの唄と唄う姿勢の周辺だった。
「あの最後の『木曜日』の「こわくなって、戻ったー♬」って、どういう感覚なのかな。厳しい現実を見て、自分の力で認識できないことに直面して、戻ってみる…そう常に体感していたのかな。悔しくもあり、仕方なくもあり、なんかどうしようもない、今はそうするしかない、自分の気づきの唄としてある。そういう唄として聴いていた…。
「うらやましい」って思った。路上でも、取っ組み合いのケンカをするくらいの、濃密な人間関係を生きているんだな、って。「すべてさらけだそうかー♬」って歌詞のサラケダスってどんなこと?
路上は想像できたよ。でも、福井駅で見た時は、驚きもあったけど、うるさいなって。雑誌の範囲で、現実には僕のなかには存在しないからな。
のえさんが唄う現場を一度でも見ていたら、リアリティをイメージできたろうに…。」
私は、のえがあるインタビューに答えて、
路上で聴き手に求めることは何、に対して、「対話すること」と答えたこと、言われて一番うれしいことは?と訊かれて、「あんたの唄は嫌いだけど、気になる、と言われるとき」と答えたことを剛くんに大盤振る舞いで伝える。
(つまり、このSotto虹の読者にも相当のサービス)。
「対話ってどういうことだろう。ちゃんと結びついていないかも。不思議なコト言っているけど、それが、のえさんにとって対話なんだろうな。気になる、が気になるよ、僕は。路上でいろんな人に唄を聴かれる。こわいような、それでも素晴らしいような。
のえさん、普段から内側にある決心というか、気持ちがあって、「路上で世界と向き合った」んだろうな。僕には、内面を想像できないけど、姿がぱっと浮かんでくる。
見えている世界。同時にある危うさ。僕は経験できないことだし、誰もむろん共有できない。自分が想像できない人間だからかなあ。そう思うとステキだな。なぜかは判らないけど。ただ、信じるのが大事、そんな気もした…。」
剛くんが帰ると、メールチェックをした英子が北の友からの便りを私に伝えた。
私のしゃべりっぷりが大胆になった、とか。
あの、「なにやらマイノリティ」のところ、ちゃんとに伝わったかな、とか。
(あんな無償ボランティアの放送で簡単に伝えられないよー、って思わず心の声。かといって、本当にNHKの放送だったら、どんなふうに今現在伝えられるのか、ふっと思う。)
北海道のカゲさんの思いが結ぶのは、やはり最後の、のえの唄声だった。
「ラジオを通すとまた格別」、「こんな声、こんな唄ってないよね」、そしてこう続く。
「この特別感、誰に届いたかな」。
長年、信頼関係がある相手だから、ラジオパーソナリティーとしての変化もさりげなく。
「英子ちゃん、板についていた。」「二人のかけあいもスムーズだった。」
前半の英子の、みずから主宰する凸凹陶芸教室の真価を伝える語りには、おうっ、こんなふうに伝えたんだ、と私はいたく感心していた。ゆったりとさりげない。うまい。
大好きだった英子の陶芸教室の、月にたった4時間の時間も取れないほど余裕をなくした、現代の中学生の、学校の勉強優先の実情を、ニュートラルな視点で嘆く語りも絶妙だ。説得力がある。
英子の誠実な持久力で5年あまり月一回、続けてきた地元のFМ放送のパーソナリティー。
途中で、英子が念を押したように、1か月おきくらいに「Sotto虹の時間」を設けようかな、という気持ちが消えた訳ではむろんない。
ただし、終わったあとの言い知れぬ疲労感、あるいは徒労感。それは単なる疲労ではなく、もう一度何かを喪失してしまうような、ねぎらいも反応も報酬もないとしても、これほどまでのことを語る、という、私にとってやるせなくも繰り返されてきた課題だ。
剛くんと英子と語り合って、入り込みそうな穴ぼこに入る手前で、私は救われたけれど、ねえねえ、私の肉声で聞くSotto虹はどうだったんだろう。
遠くの人にも、知らない人にも、もしも聴いていたなら、訊ねてみたいものだと思った。と同時に、それはもういい、とも思った。
矛盾する思いがせめぎあう。それでも、翌日には浄化された心持ちをすっかり取り戻す。
今日の夜、放送を聴いた、あるかたから、メールがいただけることになっている。この文面を17日火曜の明るいうちに読まれたかたは、また夜遅くか、明日18日にでも、再び確認してほしい。この末尾への加筆となるだろうから。
ああ、放送。ああ、Sotto虹!!
2016年5月17日夕方4時半 Sotto虹主宰・米谷恵子
追記⇒本日、夜9時半に届いていた、かおるさんからの放送の印象を伝えてくださったメールについては、次のの投稿とし、すぐにアップします。
リーチ80人
| のえと共に
| 08:36
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2016.05.14 Sat
明日の日曜日、5月15日の午後2時半から、丹南FМ夢レディオの英子のDJのパーソナリティーの時間に、【Sotto虹】の時間を、恵子が3時少し前から繰り広げます。
生放送の月曜日午後には聞けない場合がほとんどでしょう。
ぜひ聞いてください。
「記憶すること」「伝えること・伝えないこと」…。
ありとあらゆる喪失体験、それをどんなに苦悩に満ちていても、伝える意味合いと共に、一切伝えない場合に起こりうる、もうひとつの著しい喪失ないしは、すさまじい喪失の連鎖…について、ある映画との出逢いも含めて、また、「うたうたい のえ」の記憶をもつなぎながら、語りました。まあ、いつもながら私らしく語りぬきましたし、このコミュニティページの読者には、他愛なくも真剣、愛らしくも?けなげな!!、英子の出番を脅かしそうと言われた、私の肉声によるおしゃべりを聞いていただけたら嬉しいです。
連休も明け、連休そのものが意外な展開だったり、それ以前にSotto虹の営みについて、心温まるメッセージや、率直なご意見をいただいたりしていることも記しておきます。早いうちに、それらを含めて今後の方針を発表したいと思っています。
ラジオ放送の感想と共に、この時期、伝えたいことがあれば、ぜひ、コメント欄でも、下記の4月終わり頃の投稿にある、私の携帯メールアドレスにでも。
どちらかというと、私としては、コメント欄を推奨したいところです。
一言。「恵子さんが傷つくのが怖い」という表現について。
それは誰が主体で、まあ文法的にあえて言うなら、誰が主語になるか、向き合ってみてください。
「怖い」は感情形容詞。「ちいさい・おおきい」などの形容詞とは性質が違います。
また、この種の感情形容詞は、所有を意味する「したい」「ほしい」と同じように、助詞「が」が多用されます。それは主語ではありません。主体ではなく、客体です。
つまりこういうことになります。
「●●は、○○が怖い。」
むろん、主語が例えばあなた、つまり「私は」になるということです。日本語は主語を入れず問わず語りにすることで、主体性をぼかす、ないしは喪失させる言語特性を持っているとも言えるかもしれません。まあ、主体的な使いてはそこは気づくはずですが…。文法なんか知っていなくとも、もちろんね、ということです。
つまり、あなたの側の課題なのです。それを誰か面倒な対象に押しつける、という日本人の国民性。そういった特性そのものに侵されていない日本人はきわめて少ないようです。
それは個人史においても、日本史や世界史を把握するうえでも、欠かせない視点です。
今日はこのくらいにして、明日の放送のお知らせを忘れないでね、で終えることにします。
ユーストリーム放送なので、全国で聞くことができます。のえに届いた花々やらの写真の投稿の、もうひとつ下の生放送のお知らせ欄から、ラジオ放送にゆくことができます。
2016年5月14日 Sotto虹主宰 米谷恵子
リーチ80人
Keiko Yonetani やっぱり、FBのコミュニティーページは厳しいな。無音、沈黙…。だからといって、私はわずかにストレスのない友達しか友達にできない。そんな人間だからな。今日は午前中、この投稿と原稿書きに復帰。午後は剛君が来て、ずっと外仕事。夜は、浜に通っている知人から購入した魚でお刺身三昧。人と会えるっていいなあ、とただただ思う。全面公開のコミュニティページのさびしさが今日はしんしんと迫る。ここは日本地図にはのっていなかったような!原発銀座にされてしまうような、たとえ百パーセント本物ではなかったとしても、「戦後民主主義」のうねりの余波ひとつなかった県。戦前のままの県だから、戦前に返ろうとしているなんて、何も誰も認識したり、たたかったりはないんだな。白地図にされた地域に住んで、FBのページで人とつながる限界をひしひしと感じる。トーキョーゴーマニズムはご免こうむりたい。
| 生死観の喪失の現場から
| 08:28
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2016.05.09 Mon
[告知] 丹南FМ夢レディオに、今日5月9日午後1時15分から恵子も英子とともに出演。【Sotto虹の時間】では原点に立ち返り これまでを含めて、喪失体験の奥行、人生の喜怒哀楽の温度差のリアリティなど のえの音楽コレクションとともに、、しみじみ話せれば。恵子の出番は後半の1時50分頃の予定。再放送は、6日後の日曜15日の午後2時半からで、日曜日の恵子の出番は午後3時10分頃。
【Sotto虹の時間】とかさねて【リメンバーのえコーナー】として、原点に立ち返って、のえの路上の音楽仲間…のちにメジャーデビュー…の一曲とそのエピソード、ジャンルにこだわらず世界中の周縁の音楽表現に多大な関心を寄せた、「うたうたい のえ」が、一方で生涯、敬意を持ち続けたニーナ・シモンの一曲、そして、最後には私の気が変わらなければ! のえの一曲も、と思っています。おそらく24歳、95年の音源より。
路上で世界と向き合い、懸命に巷を行き交う人々と音楽とともに対話し、みずからの世界を広げた「うたうたい のえ」。
しかしながら、そんな彼女に、どこにも「究極の居場所」がなかった日本という社会。
その事実とかさなるように、どんな人々も、悲しみと怒りに向き合う土壌がないこと、身を引き裂くような悲嘆…グリーフにゆっくり静かに、時には大胆に向き合う機会も空間も人間関係もほぼありえない、そんな辺りを1年と数カ月のSotto虹の歩みとともに語ります。
音楽が計10分程なので、私の語りはわずか30分ほど。それでも全国のSotto虹の読者に、私の肉声でこの営みの今という節目に、大切な思いを、かいつまんででも凝縮して心静かに、熱く伝えてみるいいチャンスかもしれない、とそろそろと準備中。
二人で前半と後半に半々に語るというのも、面白いかもしれません。ぜひ、月曜の午後は無理でも、日曜の午後にもチャンスはあります。お忘れなく。
なお、前半の英子は、陶芸家岩国英子主宰の【凸凹陶芸教室】のモノ作りを伝える、英子ならではの妙、他ではありえない面白みなどお伝えするようです。こちらもお楽しみに。そして、音楽はキューバのオマール・ボルトゥウンドのあの唄声です。
79.1MHlz .USTREAM(tannanfm)でも聞けます。
http://www.ustream.tv/channel/tannanfm
| 悲しみにSOTTO虹
| 01:30
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2016.05.04 Wed
【緊急提言】「LGBTの子ども」と表記するとき、「LGBTに育てられた子ども」の存在を意識できていますか。
5月7日に、国際人権団体ヒューマンライツウォッチが【LGBTの子どものいじめと差別禁止法整備の必要性】という講演イベントを催すという告知がありました。国際人権団体ともあろう存在が、無意識かつ無自覚に「LGBTの子ども」と表記していることに、疑義を提したいと投稿しています。
されている活動そのものに、なんら異議はありません。貴重な活動をされていると敬意を表します。日本国内の100件のインタビューをもとに、LGBT議員連盟も出席するという催し。広く普遍的な社会性、人権意識を模索する姿勢に基づいているものと思われます。
しかしながら、催しのタイトルにおいて、全く同じ表現において、除外されてしまう存在として、それもLGBT当事者にとって、きわめて大切な存在である、LGBT当事者が「育てた子どもたち」のことがあるのを、忘れてはならないと思います。
そこで、しかるべき言葉の訂正を要求します。
たとえば「LGBTである子ども」、ないしは「子どものLGBT」になおしてください。
あるいは、その含みに「そうであるかもしれない」というノリシロのような余地を残した「LGBTだろう子ども」といった含蓄があってもいいように思います。「そうなんだ!」と断定できるような、自己との出逢いというものが、アイデンティティ…すなわち自分がどういう存在であるか…の確立において、必ずしも良い効果を及ぼすとは限らないと思うからです。まあ、これについては、今回のところはこの程度にします。
あるいは、今からでもフライヤーのなかで、議論のなかで、その旨、きちんと「誠意ある説明」をなさるべきものと考えます。
さて、5人の子どもを40年前から、レズビアンマザーとして、そんなボキャブラリーすらない時代に育ててきた人間として、せっかくの機会なので、きちんと異議申し立てを判断した背景や、これまでの経験のなかから感じたことなどをお伝えします。
つけ加えれば、私たち二人が育てた…おおいに自ら育った、という側面がつよいとしても…5人は、すでに3人は40代、一人は30代後半、一人は7年前に亡くなっています。
繰り返しますが、「LGBTの子ども」を「そうである子どもたち」という意味に限定してしまうとき、そのボキャブラリーによって抹殺されてしまう存在がたしかにあることを、この際ですから、きちんと意識していただきたいと思います。意識しにくいことかもしれませんが、厳然たる「人権侵害」だからです。
レズビアンマザーが、ゲイファザーが、トランスマザーないしは、トランスファザーが育てた「こども」は見えるところにも、現在それなりいるし、見えないところにもたくさん生きている現実があります。
それを、切り捨てる結果となる「の」という「属性」をも「所有性」をも意味する、助詞の使い方にたいして、謙虚であるべきだと、真剣に思います。一応、米谷恵子は日本語の文法を専門とする仕事をしていることもつけ加えます。
すでに、大人になっている、そういう性的少数者に育てられた側の人たちをも味方にして、ともにできることを考えていったほうがいいのではないでしょうか。それとも、このマイノリティーという存在は、「みずからのカテゴリーしか考えられないという特性」をも兼ね備えている、とでもいうのでしょうか。
私の痛切な経験としては、2011年と12年にEテレで放送された、私たちベロ亭ファミリーのドキュメントへの反応があります。
これには大きな反響があり、「一筋縄ではいかない二人の営みを深く、重厚かつ軽やかに描いた映像表現」として、日本の性的少数者の無意識の底から揺るがした番組として、良心的な当事者には、4年ほどたつ現在もつよく意識されています。
しかしながら、この番組で描いた、2番目の娘の急逝と、その悼みかたにおいて、性的少数者当事者たちが、あまりに忌避感にとらわれ、冷酷かつ残酷でもあった事実は忘れがたい傷を残しています。それは、娘が「性的少数者に育てられた娘にすぎなかった」という「性的少数者の深層意識」を反映したあらわれだと紛れもなく考えています。
むろん、この点にきちんとした理解を示した性的少数者のかたもわずかではあるものの、存在することも、つけ加えておきます。
最近、この周辺をめぐってある人に話をし、
「あなたがたの孤立感は、日本中の誰にも到底共有できないものなのですね。私はできる限り、耳を澄ましていきたいと思っていますが…」
ときわめて自然に、それでいて丁寧に言われたときのことが、印象深く残っています。これを理解し、こう表現したのが、同じ少数者ではなかった、しかしながら、日本のタブーや差別偏見が凝縮する別の事柄に向き合ってきた人からだった、という事実も大変興味深く考察を深めています。
性的少数者の育てた子どもの「死」を他人事(ひとごと)にしてしまう、性的少数者の心理というものは一体どういうものなのか、数限りなく向き合ってきました。
現在進行形で続いてもいます。
そして、そこにはきわめてエゴイスティックにステレオタイプなアイデンティティーを追及する生きかたを「強いられてきた」この少数者たちのきわめてリアルで、精神的に貧しい人生の多くが、若く青いままに、横たわっているという現実に突き当たりました。
それについては、私のなかではかたがついています。つけなければ、私自身、生きていかれない、そこまで酷薄な現実が眼まえで展開するのに、どれだけ耐え、寛容に見守り、どれだけ丁寧に異議申し立てをしてきたことでしょうか。
あまりにこういうことが無自覚、無意識に続けられると、このての少数派の人々とは、つながれないのではないか、という疑念が募ります。
そうして、そこには、あたかもこういった事実とは無関係に、「性的少数者の子ども」という表記が行き渡っていきます。
あまりに身勝手な表記だとそろそろ自覚的に取り組まれる気はないのでしょうか。
驚くことにはもうあきあきしましたが、いい加減、「すでに厳然と存在する、性的少数者にとって大切な人々」を「存在しないとしてしまう!」表現の曖昧さに向き合ってください。
それこそが、多様性ではないのですか。
たかが言葉、されど言葉。憲法ですら、解釈いかんで変えられる時代。
敏感であるべきことには、きちんと対応しなければならないはずです。それよにって、「属性」の側の、いまも「こども」の人たちにも、よりいっそう光があてられる、というものではないのでしょうか。
それとともに、「性的少数者が育てた子ども」たちの、いまだ明るみに出ていないこころの痛み、不都合、生きづらさにも、焦点があてられていくことを望むものです。
私が直面した「性的少数者が育てた子どもの死を悼むグリーフワークを理解する困難さ」は、おそらく30年後か40年後かに、巷に当たり前に「性的少数者が育てた子ども」が溢れたときにこそ、初めてその先駆性とともに焦点があてられるものなのではないか、という思索を深めている昨今です。
そこまでは、まだまだ先を行き過ぎた私たちにこたえるなど及びもつかないのは承知しています。
ですから、せめて、「性的少数者が育てた、ないしは育てている子ども」にも、リアルで明確な光があてられ、しかるべき名称ないしは呼称が、意識的に呼び分けられていくことをつよく望むものです。
つけ加えれば、「育てた子ども」の課題だと思って読みこんでいるうちに、そうではないんだ、と気づく、という「罠にはめられた」ような思いを何度してきたことでしょうか。
もう、そんな思いをしたくはありません。
グリーフワークの必要性、先駆性などは、いまだ手の届かない課題だと悟っています。
せめて 助詞「の」の使いかたの誤り、曖昧さに向き合う、どうかそこから始めてみる気はありませんか。
2016年5月2日夜
Sotto虹主宰 米谷恵子・事務局 岩国英子
| 虹色カミングアウト
| 22:44
| comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑
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