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ベッテルハイムは自閉界のレインだった

ベッテルハイムは、自閉界のレインだった

実はね。この下の文章は、二日前だか三日前に書きました。
ベッテルハイム先生について検索してからね。

そして、今はその二日後かな、
ベッテルハイムの「自伝あらざる自伝」とも言われている
『フロイトのウィーン』という著作集が届いて、
ぱらぱらと見たり読んだりしてから書いています。

彼にとっては、やっぱりユダヤ人であったこと、
ホロコーストの目撃者であり、強制収容自経験者であったことが、
きわめて大きかったのだ、ということが伝わってくる著作集です。

彼が強制収容所を経験したのは、30代の時です。
で、子どもだったユダヤ人たちの収容所生還者たちのことを、
彼はものすごく気にして、アンテナを高く上げています。
彼らがなぜ、その苛酷な経験を生涯語らないような人生になってしまったか、
そのことを深く省察しているように見受けられます。

これは、私にとっては、
『黄色い星の子どもたち』や『サラの鍵』にも連なる課題です。

こういった経験の苛酷さゆえに、人の魂の奥の奥の奥に起きた、
致命的で取り返しがつなかいように思えた事柄への思索が、
彼のある種、ひらめきや哲学的思考と結びついた結果、
自閉症児の「原因」を「冷蔵庫のような心を持ったマザーたち」とした、
そんな辺りがつながってくるようにも思われます。

そこのところは、明らかに誤謬でありました。
そこのところについては、私もまた、声を大にして、
ブルーの先生、まちがえちゃったね、と言うしかありません。

でも、彼は彼の人生の必然を生きたようにも、どうしても私には思われます。

今朝、手元に届いた本は、1992年に発刊された時、
4000円近い値段でした。それを500円でアマゾンで購入したのです。
なにがどう違って、ベッテルハイムは、自閉界から放り出されさえしたのか。

そのことを考えないと、ちょっとまずいかも、
そんな、私のひらめきもまた、私には重要でしたから。

著作は、ヘレン・ケラーのこと、コルチャック先生のことなど、
幅広いようでいて、ある種、典型的です。
何か、人の底にいやしがたくある「闇」のようなものに対して、
何ができるのか、ということが、
彼の終生の課題だったようにも思われます。

あるエッセイの冒頭にはこんな書き出しがありました。
「深い闇なくして、まばゆい光というものがあるだろうか。」

そんな思索にゆれながら、自閉症児の臨床に「貢献」し、
間違った説で、親たちを苦しめもしたけれど、
彼には彼の必然があったように思われます。

それにしても、1992年には、アメリカではすでに、
ベッテルハイムがテレビ放送に出ることを、
自閉症児の親たちが阻止するような動きがあったと聞きます。
その年に、この日本語版の彼の一風変わった「伝記」が、
日本で出版されたという事実は、何を意味するのでしょうか。

下記にあらあら、という感じで、書いたわずか二日後には、
こんなふうに、大真面目に思う私がいることを、
ここに報告させていただいて、とりあえず、
ブルーノ・ベッテルハイムについては、
ここしばらくの課題として、
しばらく棚に上げさせていただくことにします。
  2月7日夕方



やっぱりね。のえちゃんのCDブックの原稿書きもここまで来て、
常識的に知らなければならないことってあるよねって、
本能的なものが働いて、検索してみたんだな。

だって、当事者会員の『自閉症スペクトラム学会』の事務局でも、
私が20代前半にベッテルハイムを読んで、
自分が自閉症スペクトラムのどこかに位置するって確信したって言うと、
「ベッテルハイム!!」って叫ばれていましたからね。

今日は、明るい間は、雪かきはできないけれど、
屋根から雪を長い棒をつついて通して下ろすという、
やけに腕の力やら何やらいる作業のみを英子を少し手伝ってやって、
あとはまたまたなんだか伸びちゃって、
でも夜になって、例の『虚ろな砦』なんて読んでましてね。

私が自分のジヘイをその著書のタイトルや、
そのタイトルにまつわる序文や本文のそこここから、
直感的に確信した相手が、本当に現代も正しい評価があるかどうか、
それとこれとは別問題って自覚はずうっとありましたからね。

なんたって、事務局の人が、その名前を叫ぶときの叫び方ったら。
それに、みすず書房から増刷されていないという事が何を意味するかだし、
などと、無意識のうちに、それも段々意識的に思うようにはなっていたのよね。

それから、うすうす気づいていたのは、
ベッテルハイムは、まだ自閉症が親、特に母親の育て方のせいである、
そんな説も持っていたかもね、なんてことは思ってはいました。
時代が時代だからね。まあ、そんな誤りも、親たちをさぞや苦しめたかも。

そして、検索してみました。
やっぱりそうでした。
そいでもって、レオ・カナーもやっぱり、
自閉症の原因は器質説に傾きながらも、どこかで親の育て方ってところを、
はずせなかったみたいなそんな感じは受けました。

言っておきますけれど、これ読んでいる人で、
自閉症が親の育て方のせいだ、なんて思っている人は一人だって、
いないでしょうねえ。

これだけ、発達障害の啓蒙が広まり、
その中の自閉症スペクトラムについても知られてきて、
まだそんなことを信じている人、いませんよねえ。

でも、だんだん心配になってきたな。
だって、90年代前半に、あの上野千鶴子先生が、
河合塾がらみでやった講演だか座談会で、
自閉症、すなわち親の育て方説を、簡単に肯定しているって事実も、
検索の結果、知ってしまったからです。

で、あの先生、
あれだけ女性の自立のことを言いながら、
母親のせいだよ、的なことについては、
まあ、あのさらさらと立つ弁舌で当たり前のようにしゃべっているとか。
そんなことを、ある自閉症の子を持つ親の立場の方が、
きちんと批判していらっしゃいます。

で、上野先生の弁解がこれまた「愉快」です。
子どもを育てたことがないからとか、
自閉症の子を育てたことがないから、とか、の経験説だそうで…。

まあ、こんなこと余談です。

私はこれからも、20代前半に自分が自閉圏であることを察した契機になったのが、
ベッテルハイムの著書や、その著書のタイトルであったことを、
全く否定する気はありません。

自分のなかに、紛れもなくある『虚ろな砦』を示唆してくれたのは確かだし、
より良く生きていくなんらかの手がかりを自分が手に入れていくためには、
『愛がすべてではない』と、確かに思っていたこととしっかりとかみ合ったからです。

でもね。プルーノ・ベッテルハイム先生は、
あたかも、統合失調症は、至れり尽くせりの愛と受容で治癒すると信じた、
そう、あのR・D・レインのように、
愛がすべてのようにふるまったってことになっているのですよね。
  (それにしても、レインがまだ売られているのはなぜだろう。
   まるで、自由と変革の旗手みたいに、
      今も思われているのはどうしてだろうね。)


嘘、嘘。
ベッテルハイムは、強制収容所体験を通して、
「愛」を経験したことがない者は、いくらそれを経験させてもだめって、
知っているふうに書いたことを読んだことがあるんだけれどな。
これって、大局的にってことなんだろうな。
その子がなにを欲していて、なにを望んでいてってことを、
徹底的に受容するってことで…。
で、それは失敗に終わりましたとさ。ということでね。

ベッテルハイムはウィーン生まれのドイツ人でユダヤ系。
で、強制収容所を一年ほど経験しているんだけど、
戦争が終わる前に運よく、アメリカに渡って、
実は、心理学なんてちっとも系統的に学んでいなかったのに、
その専門で大学の教授におさまってしまって、
しかも、「情緒障害児」の臨床研究なんて位置を得てしまうんだよね。

つまり、経歴詐称なんです。
すごい詐欺師。

私は彼の示した学説なんかより、
なんだか彼の生きた歴史そのものが気になりだしました。
もしかしたら、ものすごく自分の直感とか、
収容所体験とかを誇大視したりとか、
そういうことがあったのかも、と思いは巡ります。

レオ・カナーだって、
ブルーノ君と一緒に、冷蔵庫マザー説に傾きかけたりもしています。
本当はこれって、自閉症スペクトラムの子の親もまた、その傾向ありって、
そういうことだったに違いないんだけれど。

先日、のえの診断をした先生にお会いしました。
最近では、親子共にそうである場合の臨床研究もなされていて…
なんて言いかけられて、うーむ、いやーな感じだったなあ。
やっぱり匂うんです。
冷蔵庫マザー説。

私、そりゃあ、自分の心の底まで冷えていれば、
冷蔵庫だったこともあるかも。
でも、心の底まであったかければ、ぽかぽかストーブマザーだったこともあるかも。

ここまで、のえのCDブックの原稿を書き進めてくると、
いろんな事があらためて視えてくるのが不思議です。

自閉症が自閉症であった時代から、
きちんとスペクトラムとして、あるがままにとらえなくちゃなー、ってな、
そんな時代に変わっていることが、
ちゃんとに伝わるようになっているか、
自分が書き進んできた文をとらえかえしながら、
つくづく考えています。

おお、起源は、カナーだのベッテルハイムだのだけれど、
今や、ローナ・ウィングだったり、トニー・アトウッドだったり、
まあ、ドナ・ウィリアムスや、ニキリンコさんだったり。

でもねえ、そんなことを越えて、
人間存在としてのスペクトラムとしての姿を、
あるがままに、とらわれずに記せているか、
私にはそれだけが問題であるようにも思います。

そこがきちんと書けているかどうかで、
これからかかりきりになる、
精神医療における問題提議も初めて意味をもつと思うからです。

いつだって、どこでだって、
ジヘイもトーシツも、世界中にありました。
いろんな不思議や謎や、逆説や、詐欺や、
経歴詐称がありました。

それもまた、あるがままのその人の姿である事。

ベッテルハイムの間違いは間違いとしても、
その間違いの中に潜む、真実を、やっぱり見逃したくはない、
そんな私がいるのも、私が私であるという、
あるがままの事実であるのでしょう。

ケイコ


ジヘイ門外漢の方への注釈
また、親切な心が働いてしまいまして。
レオ・カナーは、最初に自閉症について臨床的に記述したとされています。
カナー症候群のカナーです。知的障害を伴う自閉症スペクトラム。
1940年代に論文を英語で発表して世界中にその概念が広まりました。
ちなみに、その1年後にアスペルガーがドイツ語で論文を発表しました。
知的障害のない、言葉に遅れのない子どもたちにも関わらず、
独特の偏りが見られた子たちのことで。
この論文がドイツ語だったことから、その広まりはずうっとあとのこととなりました、とさ。

ああ、考えてみれば、ベッテルハイムは自閉界のあだ花か。
レオ・カナーは、ベッテルハイムの著書『虚ろな砦』のことを、
虚ろな本、と称したそうです。
ぞくっとしたあと、笑っちゃいました。
うむ、今日読んでいて、そんな感じが判る気がしたけれど、
でも、これ笑えるのです。
ただし、ジヘイの人のみ、笑ってヨーシです。

ところで、R・D・レインは、いまだ反精神医学の精神的担い手なんでしょうか。
でも、今も映画『カッコウの巣の上で』が意味を持つような、
精神科病院の実情が隠されてあるとしたら、それはそれで意味はあるのでしょうか。
それはそれで、ある種の限界はやむなく感じてしまうのですけれどね。
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| 自閉圏のつらさと豊かさと | 02:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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