PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

ケイコのマルチマイノリティ宣言……そうだ今年は「嫌われ上手」になろうっと その1

ケイコのマルチマイノリティ宣言……そうだ今年は「嫌われ上手」になろうっと

今日、こんなメールをいただいた。『日本マンナカ新聞』の記者だったTさんから、都市にある本社勤務になったことは2日前にすでに電話で聞いていた。私達と会ってお別れしようとして果たせなかったこともその時、話した。栄転ではなく、記者稼業からほされて? 内勤にされて、定時になるぶん、都会で学べる限りのことを学ぼうというちょっとした決意も語ってくれた。なんでも彼は、都会暮らしは初めてということだった。少し驚いた。

最初はキャラバンの取材だったなあ。記者という仕事の範囲をこえる、やきものへの関心、やきものにとどまらない人間と社会、作品と人を結び付ける関心、私達一人一人へのポジティブな興味が、さりげなく覗いて少しくすぐったかった覚えがある。少しずつ、記者としての彼よりも、彼という人間が私達に直接伝わってくる取材が続くようになった。

そうして、去年は、性的少数者のための国際反同性愛嫌悪の日のためのアクションに、福井駅前の街頭で、フレンドリーの一人として参加してくれた。この参加は、かつて性的マイノリティの友人をもしかしたら無理解で追いやったかもしれない、という彼自身の反省もこめられていた。記者自らが街頭に立ってフライヤーを手渡すという、性的少数者の一人と見られるかもしれない経験を通して、事実や実感に確かに近づきたいという、人間として、取材者としての、彼の意思がこめられていたのだ。そのために彼は上司ともやりあったと、街頭行動の最初にやや勢いづいて語っていた。

記事は二次会に参加しながら書くということだった。実際、そうして書かれた記事を、彼はベロ亭に来て「確認してほしい」と依頼した。私達は願ってもないその依頼に当然ながら丁寧に応じた。

実は、私としてはこういう経験は初めてのことではない。良質な記者のほとんどが、この日本では大幅に立ち遅れた人権に関わる問題、プライバシーが関わるベロ亭の暮らしの記事、などにおいて、向こうから確認をしてほしいと願い出ることは多々あった。
それは私が「書ける」人間だということや、言葉に適切に反応できる人間だということが、取材を通して伝わっていった結果のようにも思えた。そうしてほしいとさりげなく促すこともあったが、むしろ自然とそうなることのほうが多かった。

前述のTさんの書いた国際反同性愛嫌悪の日のアクションの記事は、そういう訳で、身もあり骨もある記事となった。ただし、私達も彼も、性的少数者の地元での出会いに、私達のテレビの番組が大きく働いていたことはどこかで忘れていた。私達はいつもそのくらい地元で引くのに慣れていたから、そのときは気づかなかった。あとから、あれは重要な事実にもかかわらず、忘れていたというか、忘れることを自らよしとした類のことと自覚し、彼も私達も誰もそのことに気づかなかったことが、とりわけさびしく感じられた。
でも、それはそれ。彼は私達から多くのことを学んでくれていたらしい。彼には、ガルシア・マルケスの記者時代の記事を集めた『幸福な無名時代』を貸したこともあった。なにしろ、この本は、マルケスがマルケスになる以前の作家の真髄がこめられていたからだ。
ちなみに、彼は『こよせへの森』というか、『辺境の森』構想にも、二つ返事で賛同してくれている。

さて、今日来た『移転完了と新年のご挨拶』には、こんな文面が添えられていた。日本にはそんなに多いとは言えない、良質な記者たちが、本当は私に言いたくてもわざわざ言わないできたことを、代弁してくれているようで、私は素直に嬉しかった。そのまま、その一部を引用する。

「お二人、とくにケイコさんには言葉の持つ力、わきまえ方や選び方など、その基礎を示唆していただいたように思います。とはいえ、日本語は奥深い世界であり、まだまだ自分の語彙の未熟さや言葉にふさわしい思想の薄さを感じる日々です。」

うーむ、「言葉にふさわしい思想の薄さ」、言ってくれるじゃないの!!
今日という日に、この言葉をいただくのは、とりわけ私には嬉しかったのですぐに次のように返信した。

「おまけに、私のことで、こんなふうに書くことを仕事にされている方から、指摘されるのは、ありがたいなあ、というところです。
その中に、「わきまえ方」とあるのが、私としては光っています。これって、知られていない、私の『秘密』ですからね。
最近は、福井でも、日本中でも、「嫌われ上手」になりつつありますから、言葉のテロリスト、と言われているような、そんな気もしてくるくらいです。
ブログの日記の読み違い、読解力不足を棚に上げて、皆さん、私が「ちょっとこわい」人間だと勘違いされているようです。実際にお会いすることもないままに。
他愛ない、「このパンおいしい」で場を取る、かわいらしい恥知らずにすぎないんですがね。
まあ、言葉のアナーキストくらいならいいですけどねえ。
そして、Tさんがご指摘のように、ますます「言葉へのわきまえ方」を忘れないように、することにしますね。忘れる訳はないでしょうけれど。
これは、30年間に200件くらい受けてきた記事取材において、まあそれっきりの去る鳥は何も知らなくていい取材は別として、自分たちのプライバシーにかかわる内容、世間が認知していない人権に関わる問題、などでは、デリカシーと共に、あの大切な「わきまえ」を鋭意、指導させていただいた身ですから、案外、そのことに気づいた記者の方々が、私のそういうところを一番よくご存知なのかもしれない、と、Tさんからのありがたいご指摘に感じ入っている次第です。(涙)」

この返信を書いた後に、私は中島みゆきの『一人上手』という唄のタイトルを不意に思い出したりしながら、そうだ、今年はこれで行こう、とすっきりした。
そう、『嫌われ上手』になろうっていう目標だ。

のえは、路上ミュージシャンとして活躍していた頃、あるインタビューに答えて、こんなふうに言っている。唄っていてどんなことを言われると嬉しいか?という質問に答えてだ。
「あんたの唄は嫌いだけど、なんか気になる…」
もしかしたら、かなり近いかも。そんなこと言うと、天国ののえ、怒るかな。でも、私はこれで行くで。『嫌われ上手にうまくなれるようにする』。

朝、遅めの年賀状がまた来ていた。その一枚は、私の八歳年上の畏友、それこそ一年に一回か、もっと間をあけてもいきなり本題、突っ込み、相手への罵倒が、愛?の表現ともなる、そんな、いとしくも憎たらしい友人からの、見事な詩が書かれたハガキに私は吸い込まれていた。
彼女の絶望、ああ、こんな言葉では言い足りない、底なしの拒絶という形を時に持つ、とてつもないやさしい透視、そんなものが詩にはちぎれるように記されていて、私は泣いた。そしてすぐ電話した。

「詩、良かったよ」「そっ」
「だから電話した」「ケイコちゃんの声いい」
「ヒデコちゃんと出会ったときもそれ言われた。電話線通すとそうらしいね。なによ。いきなり。本気かよ。ははは。」
「いいよ。それにあんたの笑い、いい」彼女はそれからも続ける。
「私ね。最近、もう人が近づいてくると蹴飛ばしたくなるの。一人の世界はいいよ。だいたい、子どもが正月だからって来て居座って、三日もいると怒鳴ってるわ。」
「私は子どもには怒鳴れないなあ。ヒデコちゃんには相当怒鳴っていて、まあ、彼女こわがり続けていて悪いんだけどさあ。でも、息子にも、のえにも怒鳴れない。ヒデコちゃんとはますます壮絶に罵倒したり、壮絶に語りあったり、ははは」
「それって、よく判る。ははは。あんたたちは、あんたたちっていう二人があるなあ」
あちこち行く話の中でついにはこんな言いっぷりにもなった。
「あんたねえ。失礼な奴に失礼に答えて何が悪いのよ」「ははは、そうだよネエ」

実は、彼女の詩、『遠い唄を探して』には、多くのインスピレーションを受けた。

生きていく余りのストレスのために、心臓が悪くなり、ペースメーカーやら何やら入れる手術を控えていることを、まるで日常のなんということもない、やや面倒な出来事のように語る彼女がいた。私達の息子の入院のことに、さして反応しなくとも私は苛立たなかった。他の人には、こうはいかないけれど。

知る人ぞ知るコモンケンのシンコさん。障害児の運動の草創期から現代までのプロセスを、人間の存在の根源だけを見て駆け抜け続けた人、のえの東京時代の四番目の母のようにもなって奔走してくれたこともあった人。のえの訃報にたまらず泣き続けた人。こっちが「実の母親」だなんて、お構いなく、「泣けて泣けてたまらないのよ」と知らせた翌日泣きじゃくりながら電話してきて、私が戸惑う暇も与えず、彼女のそのまんまの悲嘆をまるごと聞かせた人。6人の子どもを次々と、奇跡のセンセー稼業をやりながらも産み続け育てた人。私には多分そんなふうなこんなふうな人。

でも、お互い、ある程度以上話すと、さわりがあるから、けっしてそれ以上は語り合わないことで最近はよしとしている。
持ってる金も違うしなあ。当たり前か、彼女としては「考えられないくらい、まっとうな生き方をしてきた」んだからな。教師稼業をやるだけやったら、年金もあるだろうし、彼女のでっかすぎる愛を受けて育った子どもたちの全員が、当然ながら彼女を経済的にも応援しているしな。

電話を切ってから、まだまだ生きていくことに興味だけはある、という彼女の、命がいつまであるのだろうか、とふとよぎるものがあった。
彼女は、私の言葉も沈黙も粉々にして、ばらばらにして、これでもかこれでもか、と語り、壊し、そして、私をどーんと立ち止まらせて、我に返らせて、私が私であることを、踏みとどまらせてくれる、そんな人であることをあらためて思った。

年末年始は苦しかった。回復期の息子を受け入れたこと。
受け入れることにやぶさかではなかったが、選択の余地のない形でベロ亭に「里帰り」する格好になるのは、親子関係に何か引っ掛かりが残りそうな感じがあった。
他の可能性も探して、友人に電話したりもした。
そうやって、他の選択肢を探す、私の携帯電話の指先が探す本当の方向性を知っていたのは、息子のパートナーのタンポちゃんだけだったと思う。
私の指先が何を探していたか、知るべし、知るべし。息子のことをかいかぶっている人の全てが。かいかぶっている訳じゃあなくとも、ちゃんとに大切にしたいと思っている人は知るべし。これ、言い続けるからね。
「べてるの家」にも、精神科病院をなくしたイタリアにも負けないで、一人から、いや二人からでも始めるからね。

よりによって、前回のブログでも書いたけれど、隣のいわくつきの…札付きじゃあない…おばちゃんが年末に82歳で亡くなった。このおばちゃんについては限りない、ベロ亭の私達との歴史がある。本一冊書けるなあ。いや、小説一冊書けるなあ。

でも、現実は小説とは違う。私達は骨身を削って、彼女と関わった年月をきちんと終わらせ、彼女とちゃあんとにお別れすべく、私達なりの礼節と筋を通す事にそれなりの力を尽くした。これがこれだけだったなら、充分に余裕をもって向かえた類の事だったろう。でも、いろいろなそれまでの日々の、そうこの一年のなんとも言いがたい、あの番組以来の蓄積が極限まできていて、回復期の息子も受け入れていた私達には、これはまた、もう一つ課題が加わったという感覚をもたらして、やや難儀ではあった。

年明けの二日、通夜の席で、私はお坊さんの詠むお経の、無常を唄う漢文の一節でついに号泣してしまった。ただ、礼儀正しく近所や親戚が集う席で、私は完全に浮いていた。奮発して用意した、私達だけが例外のスタイルで献花した、それなり大きな花束と共に、それはセレモニーの変奏曲となった。
そんなことを息子に帰って話していたら、のえのお別れの席での事に話がいった。
「思ったよ。ケイコチャン、アジア系の表現だよネエ」なんて言っていたっけ。
つまり日本的じゃあないってわけ。そんなこと、今さらだけどねえ。
そんなこんなで、ひと時、息子と馬鹿笑いできたのは嬉しかったなあ。

とはいえ、年末年始は妙につらかった。自分をうんと出したり、引っ込めたりを、様々なバージョンでしていた。まだまだ回復期の息子とも、近所の葬儀の席でも。
その上、一年間の総決算みたいな気分が私を支配していた。12月末に会った、のえの診断をした先生との3時間の対話のおもみも尾を引いていたし、ある人との徹夜での対話の中で、私の血と涙を巡ったらせんのような語りの、本にしたら二冊くらいのおもみにも、どこかで押しつぶされそうな感があった。どれも選んで、望んで、向き合おうとし、つながろうとし、問おうとし、伝えようとし、訊こうとして、臨んだそんな人との時間だった。

ここ半年くらい岩のような意思で臨んだ様々な事どもも、私を押しとどめていた。ピンで標本にされるみたいに、これでもかあ、これでもかあ、と私が私であることを、奪おうとするものとたたかい続けていた、という抜きがたい実感が続いていた。
耐えられたのは、もちこたえたのは、なにゆえだったのだろう。

しかし、私は年末年始をはさんで、自分の意識がどこかで希薄になり、危うくなっていくのを感じ始めていた。だから、携帯メールをある方にし、ある家族の一人にも、また何人かまとめても、また別の友人の一人にもし、とうとう10数人の人達にもまとめて、自分の実情を伝える内容を送信した。SOSをしたつもりだった。SOSだったんだよー。

もしかしたら、天に吼えているだけかもしれない、そんなことなんてとおに判っていたのに、携帯メールという手段で、やっぱり誰かとつながりたかった私がいたのだろう。

この一年間、自死へのタブーにさらされた。
のえの死を、踏みにじられた。のえとの思い出をもてあそばれた。
そして、LGBTの表に出ている動きの、氷山の一角のような底にある、それはそれはそこはかとない、とてつもない危うさを思い知った。これについては、いつかきちんと記したい。
良いことがなかった訳ではないよ。ただ、それらが余りにも重く大きくのしかかっていたのである。私も、そしてヒデコも、そんな訳で、とどめを刺されたような思いを抱きながらも、年末を迎え、ひしと踏みとどまって息子を受け入れ、おばちゃんの死を抱いた。

私は自分の意識が明らかにどこも揺るがないことを感じつつも、それでも遠のいていくような、そんな不思議な体験をした。徐々に自分が誰であるかが、判らないようなそんな体験がたった今進行している、そんな実感が私をおおった。
目が覚める時、自分が誰か判らないひととき、それは愉悦だった。

そんな思いのほんの一端を携帯メールで送信した。

送ったメールの数の二割くらいの人から、エールやら、さとしやら、心配やら、決めつけないでという怒りやら、暗闇の前での唸る思いやら、すさまじい反省やら、まあ、あれこれ届いた。ずれていたり、はまっていたり、いろいろだったけれど、届いたことそのものがありがたかったことはここに伏して記しておきたい。(その2 に続く)

ケイコ
スポンサーサイト

| 辺境の森から | 13:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://puentenokai.blog26.fc2.com/tb.php/941-8f8d5809

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。