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荒野で「知のレッスン」におもむく

荒野で「知のレッスン」におもむく

おとといから、このブログのカテゴリーに、「知のレッスン」と殊勝にも新たなカテゴリーを設けた。殊勝に、と書く時の私は、「知の冒険」とするほどの見識がないだろうという、謙虚さも、実際「知の荒野」にいるという自覚の軸を揺るがしたくないという意識もあるということから、けっして離れられないからだけれど。

でも、外国語のレッスンも、様々な分野のレッスンも、なにをもって謙虚的かつ自覚的なレッスンとするか、あるいは冒険的な要素をはらむものとするかは、未知数であり、それこそが、レッスンがレッスンであるゆえんではあるだろう。
我田引水めくが日本語教室をついに離れる生徒とのお別れの時、よく私は生徒に言われた。
「先生は日本語だけではなく、もっともっと大切なことをいくつも教えてくれたよ.」

自分がそうあるべくして動き、語りかけ、時に教え、そして、おのずとそうなっていただけだという事の意味を、そろそろ一層明確にしなくてはという動機づけが、今や大きくなったのかもしれない。
それゆえの、「知のレッスン」のうながし。

昔、チェコスロバキア出身で、今はフランスに帰化?して、フランス語で文筆活動を続けているはずのミラン・クンデラの、『存在の耐えられない軽さ』よりももっと前の作品を読んでいた時のことだ。ソビエト連邦の圧政により、全ての街並みの中の通りの名前がソビエト風に変えられ、よってたつリアルな記憶を損なわれた街角にたたずみながら、主人公の男女のカップルが、それこそ魂の底からのうめきのように、心の声をもらす記述に、しばし読むのをやめて、たたずんだことがある。

私はその頃、どうにも名づけられない日常、ここ福井のベロ亭のその時が、どうにもあるがままに誰一人からも見分けられない日常の中にあって、いかにして自分の言葉が成り立ちうるかという、呻吟(しんぎん)のただなかにあった。それは実になまなましい記憶だ。
しかしながら、クンデラは、「いつわり」に包囲された風景も、人々の心模様も、こんなにも、鮮明に描き出しているではないか、という発見は、私の表現欲求の深い部分に、すでに澱のようにふりつもっていた、「表現できないわたくし」という現実に、なにものかを投げかけたのだった。
できるはずだ、きっと。明白な自明性に支えられてなど全くいない、おおいかくされた日常、いつわりに晒された歴史そのものにも、いつか対峙して、つぶさに言葉にすることができる日が来るのではないか。いや、それが私のものとなるべく、私は探さなければならないのだ、という確信が、その時、はっきりと私の中で立ちあがったと言っていい。

すでに、キャラバンで自作詩の朗読も試みていた。女たちと詩の群像劇コラージュの試みも10回は、様々な場所と人と共に組んで繰り返してもいた。輝く時もあれば、響かぬ時間もあった。しんと会場の雰囲気が静まり返り、届いた、と実感できる時も、届いた、ということを拒否する、立ち上がり方をする人に気づくこともあった。

少なくとも、その頃までの私の自作詩の朗読を支えていたのは、私の敬愛する師、と私が一方的に思っているだけにせよ、四回ほどはお会いし、人間としての大切な言葉も幾つかいただいた、当時の女性詩の最高峰ではあるが、知られざる側面も案外持つ永瀬清子さんの、詩や短章集におうことが多かった。
私は荒野で耕している…永瀬さんの葛藤は、詩という表現へのあくことなく歩みの中でも、常に呻吟していたのだと思う。
私は荒野で耕している。それは私の中では、いつの間にか、当然の私自身の基調ともなる韻律、そして警鐘、叱咤、の類と化していった。

それは、言葉の分野だけに限ったことではなかった。
表現というものが、常に個に発するとしたら、その個というものが、常に無化されるこの均質な日本において、なおも成り立っている表現があるとして、なにによって私は立つのか、という問いかけが常に私のさざなみのような問いとなって肉体化したからだった。

それは、どんな「表現」とされるものにも、一線を画して、冷静なまなざしを、時には醒めきったまなざしをおくということを意味した。
それは、私の詩や散文のみならない視野をもたらし、この地で、この日本でどう生き延びるのかという、問いかけと絡まり合い、潜在化した思索となって、余りにも長すぎる冬の後に芽の出るのを待つかのごとくに、気の遠くなるような道筋をへる試みとなったと思う。

私は本を比較的よく読む時期と、
手にも取らないし全く読みもしない時期とを生きてきた。
私のことを何でも読んで知っている読書家だと勝手に思い込んでいる人もいるようだが、全くなににも触れないし読まない時期も、本当に考えられないほど長かった。映画すら、随分長いこと見るのに意欲的にはなれなかった。その期間のことをあれこれ条件づけることはできる。家族のことで大変だったんだとか、ペルーの活動に没頭していたんだとか、様々に言いかえることはできる。
でも、それは私に起きたことの本質を言い当てていることにはけっしてならない。それらは、ただ単に言い訳に過ぎない傾きを持つ。

私ははっきりと奪われていた、と今は言うことができる。
私は自分の表現すべき地平、表現すべき方向、表現したいことそのものを探して、逡巡し、さまよい、途方に暮れていた、と今は言うことができる。

それでも、毎日昼に来る朝日新聞だけは、だいたいは目を通していたと思う。否、それも目を通せないほど何もかもが止まっていた頃もある。ただ、こころして、天声人語だけは読んだり、よりいっそう意識的に、読める時は、日曜版の読書欄だけは、さあっとでも目を通すことにしてきた。

様々な出版社の目録、ニュースの類は、一度ペルーに行きつづけた時にストップをかけてから来なくなったが、なぜか「みすず書房」の充実した何カ月かごとの書評が掲載された印刷物は届きつづけ、大切に保管してきた。時に難解であっても、そこにある「知のひらめき」は、荒野で自分を見失いそうになりながらも生きていた私のひと時の救いとなった。

そうなるまでにも、様々な時期があり、その時期にこの詩人、この作家、このノンフィクション作家という具合に、だいたい同じ書き手に寄り添う時期というのが一定していた。そして、時間がたつと、どうしてこんな作家の本をあんなにもスムーズに読めたのか判らなくなることも、不思議なことに多々あった。
ここでは私の、余りにもつたない読書歴を挙げるのは本意ではないが、ひとつだけ挙げるなら、マルグリット・デュラスばかり読んでいた時の自分というものが、今の私には本当は謎のような自分だったりもするのである。

読者は、私が隣りの市の鯖江市の図書館で、本を借りつづけることにしているようだ、というのはお気づきだろう。なぜ、これを最近になって定着させたかには、切ない経緯がある。私は福井県内の書店に立つのに耐えられなくなるプロセスを経ているのだ。福井市には、今や規模が大幅に縮小された紀伊国屋書店があるが、そこにも、もうほとんど行く気がしない。あんなにいろいろな分野のコーナーがあったのに、なぜここまで縮小されたのか、と思うと悲しい。ましてや、普通の郊外型の書店に立つと、「知の砂漠」に立たされたような茫然とした思いになることが一体何十回とあったことだろう。それは、自分の脳が腐敗していくような、そんな実感としてあった。それでも、新書や文庫のたぐいを探すことはあった。

が、最近は、鯖江図書館一本に限った。
職員の一人の質が良いらしく、県外から比較的質の高い講師を招くことの多いとされている、我が市の女性のためのセンターにも、まず足を運ばなくなった。以前は、あそこにベロ亭にある女性史関連の貴重な本を寄贈しようかとも思ったが、語るべくもない、余りにばかばかしい経緯があり、そういう場所ではなくなった。

最近、大学の教員でもある、あるゲイの男性が、かつて福井県立大学に講演に来ていたことを知った。番組以降出逢いのあった方だが、初めてそれを聞いたときには、複雑きわまりない心境になった。そして、ごく最近、敦賀市のあるフェミニストの女性が、彼と交流のあることを知って、重ねて、なんとも言えない気持ちにもなった。

番組後、お初のアクションとして地元でした、「反ホモフォビアの日」の全国行動の一環としての福井駅前での活動をきっかけに、福井県内でも、それなりにLGBTの若い人たちがささやかであれ、どんなに乏しい意識であれ、存在し、それなりつながりあってもいるらしい、と知った時も、なんとも言えない気持ちだった。

私たちの福井県内での時間は、1992年を境に止まっている。
あるいは、私の日本語ボランティア関連で言うなら、1997年で止まっている。

私達は、福井県内では、その時から、人間でもなく、一人の人でもなく、ましてや、オンナでもなく、…どこまでも何者でもない、福井での自明性から、はるかかけ離れた存在として、追いやられ放置され続けた存在なのだと、今は、私はしっかりと認識している。

強いて言うなら、私は、日本語教室に立っている時だけ、私自身だった。

番組以降、タイムマシーンを巻き戻すように、福井県在住の「にんげん」に会い続けている。私とは何者か、という曖昧性は、いささか引っ込められたかのような、番組がもたらした若干の自明性の中で、生き延びられたり、助けられたり、出逢えたりしつづけるという、実のところ、手放しでは喜べないけれど、少なからず喜んでもいい、現実が招来してきたかのようでもある。

それにしても。

2007年春に持った、久々の東京での個展の折、1980年代からの友人のフェミニストの女性が、こう親愛の情をこめて言ったことがある。
「ケイコちゃんの朗読なんて、その程度だったってことなのよね。続けられなかったということは…。」
歯に衣着せない物言いがたくまずして嬉しい相手だったから、腹は立たなかったが、胸にはしみた。そして、確信だけはあった。
……あなたが、私のなにを知っていると言うのか…と。
それから、私は、ならば私が私を知っているとして、一体私に何が可能なのかをより意識的に考えるようになったと言える。そういう点では、彼女の歯に衣着せぬ物言いは、的を得ているか否かではなく、私の肩を押す効果だけはあったと言える。
ちなみに、彼女は、私達の東京での彼女の現地のキャラバンに、直接間接に触発されて、女性議員として立つ決意に至った時期がある。ご本人が忘れていても、一向に構わないが。

私はなぜ、自作詩を書かなくなったのか、私はなぜ、自作詩朗読をしなくなったのか。
そして、群像劇コラージュの試みも中断させたのか。

のえの亡くなる前の年に知った『アール・ブリュット』を通して、私はその問いの核心に、自分の中で少しだけ迫れた気がした。誰にもその意味を届けることはなかったが、プロではないとされる精神を病んだ人間の試みとして「再評価」著しい『アール・ブリュット』の概念と枠づけと、その限界が知らせたものは、その提唱者のフランス人女性の講演と共に、私になにか大切なものを示唆した。

その時、私は講演の席で質問した。
「突然、彼ら彼女らが、創作を中断している、というふうに、年譜を注意深く見ると判るのですが、その中断の意味をどう考えているのですか」
提唱者である、講演者からの答えはなかったが、終了後、席を立とうとしている時に、聴衆の一人である、ある物静かな佇まいの男性から、思いがけずこう声をかけられた。
「あなたの質問は的確だと思います。答えるべきものだと思いますが…」

私は提唱者が私の質問に応じなかった訳を別に解釈している。
もしかしたら、それは多くの場合、病状の悪化や、それに伴う創作者自身の死を意味していやしないのだろうか、という。

たった今、窓から見える私の家の外の光景は、稲刈りを終えた一本一本の稲の根元が朽ちはて、枯れた冬の田の、紛れもない北陸の田園風景でもある。そこには、一冊の書物も入りこむ余地すらないかもしれない。もしかしたら、ヒデコのやきものの粘土作りとか、窯出しとかは、少しはふさわしい光景だとしてもだ。…これにはヒデコから異議がありそうな気もするが。

荒野、という時、ならば私は何を考えているのだろうか。

やはり2007年の春、私は東京の早稲田のパフスペースという場で持たれた、堀江有里さんの書かれたばかりの著書『レズビアンという生き方』の読書会に参加するべくそこにいた。
堀江さんとはわずかながらも信頼関係を持続していた頃だ。
彼女の著書は、キリスト者としての視点と、その世界でのレズビアンとしてのたたかいも描いていて、判りやすい面と判りにくい面があったが、私は丹念に付箋をつけ、傍線も引き、きちんと読み込んでみることに決めた。それまでにない、このてのテーマの本の中での論考の深まり、鋭さを感じていたからだ。

だが、私にはどうしても言いたいことが最後に残った。そこに集まった、大学の研究者や出版社の編集者や、とにかく知的な探求が仕事としても当然な人達には、けっして持ちえない疑問だったと、少なからず今も思う。
それは、各章立てすらもおおいつくした、カタカナ言葉、すなわち英語の言葉の多さに対しての異議申し立てだった。
「この本はこの本で大きな意義があるとは思いますが、それでもなお、私には疑問があります。どうして、ここまでカタカナ言葉というか、英語を借りてしか、セクシュアリティについて語れないのか、私には判りかねます。」
著者の堀江さんとの当時の信頼関係があってこそ言えた、私の実感だったと思う。

私が発言するや、場はざわざわと揺らいだ覚えがある。
「編集室に入った途端、そこでしか通じない言葉を私達は使う事をよしとしている」
という、ある編集者。次々と、似通った反応が続いたように記憶している。
終了後、話したいと言ってきた女性は、東大の女性教授だったり、その編集者でもあつた。

その編集者は、こうも言った。
「あなたが別の言葉を確かに持っている、という根拠によって言われている気がした。」と。
そして、そこで配った、新宿でクローズで予定していた、私達二人の「レズビアンマザー」としてのアイデンティティを明確に表出するための会を呼び掛けたチラシの文面について、
「ここまで、一字一句に何の妥協もなく、選ばれた言葉で書かれた文面に感心しました。そういうあなたが誰なのかと思いました」といった類のことを続けた。

話は、ひるがえって、つい最近のこと。
息子のカラの親しい友人の一人が、大学の研究者であることは知っていた。彼に何を研究しているのか、と軽く尋ねた。「フーコー」と返ってきた。姉が、私が高校生の時に仏文学を専攻していたせいか、私は途端に、「ミシェル・フーコー?」と返した。カラのパートナーも、当人のパートナーも、「ミシェルなんて知らんかった」とただ言った。彼とのやりとりはそれ以上でも以下でもなかった。

昨夜、あるフェミニストの論客の重要な一人が最近亡くなったらしいと、ある人からヒデコが伝え聞いた。その名前と共に検索していくと、ジュディス・バトラーからミシェル・フーコーに行き着いた。昨夜、私は、日本の『クィア学会』の思想的支柱にもなっているに違いない、ジュディス・バトラーというレズビアンとカミングアウトしているジェンダー理論の重鎮とも言うべき存在の名前に初めて触れた。フーコーについては、息子の友人と話してから、帰宅後検索して、彼が同性愛者であることを知り、不思議な感慨を持った。
息子の友人が、彼の研究項目を語る時の謙虚さは、ある意味、水臭さにも映った。彼は、カラがあの番組であれだけの発言をしていることも重々知っていたし、あの番組に、制作者の私達二人の「愛」を感じた、とも語ってくれた。

私は一方で、息子の病気である統合失調症を語りながら、息子の友人であるその人に、中井久夫先生が翻訳されたサリヴァンの、臨床記録を読む気はないか、ともちかけ、サリヴァンが同性愛者だったようだ、ということは伝えたと思う。

私は、ごくわずかに知り得た「知識」とも言うべきものから、多くの果実を得て、人に語ることが、人から彼らの知識や興味深い本の題名を語られることより、ずっと多いのではないか、ということを、随分前から思ってきていた。知識が生きた知識から、生きるべき知恵となるプロセスを経ることを、どこかで知っているというべきか、知らずして生きられなかった私がいるからと言うべきか。今は判らない。

ただ、ものすごくさびしいと思う時がある。
私は、今も『荒野』で耕している。紛れもなく『荒野』で耕している

ただ、私は私自身を、荒野にしないための、言葉の武装ではなく、言葉の衣を着ることには、少しはたけてきたのかもしれない。
言葉の衣、と言うにはなにかが足りない。
どこかで私という存在を、ゆっくりとやさしく包む、形のない容れもののようなもの…言葉。
それは、私の大切な根を、かげろうのような揺らぎを受け止める、生温かい土のようなものかもしれない。

奪われてきた、と思う。こんなにも、言葉を欲求しながら、奪われてきたと思う。

そして、確かに、奪われることを、どこかでよしとしてきた、とも思う。

なぜか。
それには、私以外の誰にも答えを出すことはできない。
なぜ、私は、奪われることを、どこかでよしとしてきたか。

だから、私はしばらくは、「知のレッスン」におもむく。
だから、私は砂をかむような言葉ではない、確かな存在を語る言葉を探すために、
「知の冒険」におもむく。

はるか、東京からも、
はるか、ニューヨークからも、
はるか、パリからも、ロンドンからも、
どんな大学の研究室からも離れて、
枯れた田の苗のやるせない朽ちた姿を冬景色として左目に流し見ながら、
福井県の、なにもない、この風景の中で、
家父長制、などという名づけもない、
それがいまだ息づく地で、
自らのアイデンティティと格闘することを、
自らが何者かを問う事をやめることなく、
謙虚に、潔く、まちがいだらけもお構いなく、
沈黙と静寂の違いを聞きわけながら、
「知のレッスン」に賭けてみたくなったのだと思う。

今、「わたくし」を包んでいる「切なさ」を、
どう名づけるべきか、
わずかな「わたくし」の自明性を育み始めたこの地で、
その「切なさ」にのみこまれないために。

その切なさの向こうにある、おびただしい生と死を、
今一度、見分け、嗅ぎ分け、抱きしめるために。

2011/12/18 19:00

:ケイコ

追伸 『強迫するアイデンティティ・佇立するアイデンティティ その2』を続ける前に、どうにもならない力に押されるように「知のレッスン」というカテゴリーの成り立ちを語らずにはいられなくなりました。アイデンティティに関する考察もお楽しみに。そして、拍手を競っている?? ヒデコの「結婚」に関するブログも、前後してお読みになることを、懲りない読者には、心よりお薦め申し上げる次第です。はい。
 いかんせん、私は、のえのCDブックの執筆を、時折中断までして、これらの文面をなぜか書かずにはいられない。『サラの鍵』以来の現象…。
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