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強迫されたアイデンティティ・佇立するアイデンティティ その1

強迫するアイデンティティ・佇立するアイデンティティ  その1
  身体化された、言葉にならない記憶とともに


いきなり引用する。

記憶がなければ、昨日の自分と今日の自分が、同一人物であると言い切れるだろうか。
記憶がなければ、20年前の自分と今の自分が、同一人物だと認識できるだろうか。
記憶がなければ、祖先たちの経験、つまり、私が生まれる以前の他者の記憶を、ルーツとして私自身のアイデンティティと深く関連されてとらえることが可能だったろうか。


出典は、上野千鶴子編『脱アイデンティティ』の第六章のチョン・ヨンヘの記した『言語化されずに身体化された記憶と、複合的アイデンティティ』の冒頭。
続けて、この著者のこの章の結びを記す。

………最後に、質問。
それぞれの日本人にとって、国家語としての日本語とはいったい何なのだろうか?
日本において最も同化され切っているのは、他ならぬ「日本人」と呼ばれる人々である。
彼・彼女らはいつからどのように「日本人」になっていったのだろうか?
国家語によって感性を支配されている「日本人」たちは、いかにして自己の言葉で自分自
身を語ることが可能になるだろうか。
いかにして、近代社会と国家が作り出すアイデンティティから、自己を解放させることができるだろうか? どこまで掘り下げれば、複合的アイデンティティに出会えるのだろうか?


こう書きうつしていても、指先に震えがくるような言葉の連なり。
沢山の、日本語を教えてきた南米の外国人たち、同じ日本の市内の外国籍住民たちの顔が浮かび、長い間、彼らがけっして外には出せないできたが、私の前では、ついに出すに及んだ葛藤が思い浮かぶ。
そして、彼らの心中など察したこともない、我らが日本人たちの、のほほんとした顔が連なる。勘弁してくれ。私とて、日本人としての、同化され切ったアイデンティティにとっくに絶望している。

チョン・ヨンヘは、在日韓国朝鮮人としての自己をつぶさに語ろうとして、在日の一言でけっして語り切れない複合的な自己の背景、記憶、ルーツを丹念にこの一文で記している。一字一句が、考え抜かれた語句のもたらす、知を打つ響きとなって、私の脳裏に焼きつく。それはおのずと、知を打つのみならず、血と肉を打つ響きにもなる。
結びの二頁には、こんな言辞も佇立する。

私自身の身体には、どのような記憶が刻まれているのか。
身体化された記憶はいかにして表現することができるのか。
そして、残された記憶の断片どうしの間にも、差異や断層があり、統合することが容易ではないということに、どう向き合うのか。


引用を続ける。

私とは、「私」にとって最初の観客であり、主役でもある。
言葉とは、「私」の親友であると同時に、最大の敵でもある。



最初にいつもの鯖江図書館で借りたのは、アマルティア・センの『アイデンティティと暴力』であった。その次に図書館に行ったとき、閉館まで間もない中で、見つけたのが上述の引用が載った『脱アイデンティティ』。どちらも、勁草書房の本で、似通った固さ、白い装丁、活字の大きさ、とあって、逆に、その違いがくっきりと浮き彫りになりやすかった。

『脱アイデンティティ』の編者が上野千鶴子であることに、若干以上の抵抗を覚えたこと白状する。良い悪いはともかく、彼女の著書に手を出すことには、私はおのずと注意深くなるところがある。ただ、学術的専門的な彼女の本を意外と手にとっていないということもあり、この、最近どうしようもなく気になっている「アイデンティティ」に関わる本に、編者だけであることもあるしと、思い切って手を出すことにした。
上野氏は、序章と終章だけを書いていて、そのあいだには、第一章から第八章に渡る、一人一人の筆者による、それぞれの専門領域、それぞれのアプローチによる「アイデンティティ」に関する記述が繰り広げられている。

その中でも、第六章のチョン・ヨンヘの、身体化されることはあっても、言語化されることのなかった記憶を巡る、痛切な一文は、論文という域をこえて私の胸に落ちた。これって、学説的な論文というより、私の今構築しつつある言葉の領域に近いものがあるかもしれない、と、ややおこがましくも思うところがあった。
序章は、上野氏による、「アイデンティティ」という言葉が確立していく社会学的哲学的歴史的アプローチとも言うべきもので、「ほぼ判らない」。多分、私が判る必要もない。ただ、そういうことが記されていることは「判る」。ただ、終章は、あいだにある八人の書き手の各論文を上野流の手さばきで、もう一度総括、論じ直すといった類のことをしていて、入りやすい。

第六章に関しては、なんということはない。上野氏の終章を読む前から、私の心に響き、脳に定着した、上に書きだした幾つかの節が、終章に全く同じように書き出されていて、少し笑ってしまった。
終章から引用する。

社会学者たちが苦闘しながらさまざまな専門的ジャーゴンで語ってきたことがらを、これほど簡明でうつくしい表現に置き換えた日本語の散文を、わたしは知らない。

おいおい、「ジャーゴン」って何だよ、ってくらいなもので、私は社会学も学会もやっぱり間違いなく門外漢なのだなあ、と判らない言葉に出逢うと思わされる。でもいいではないか。80パーセント以上は意味が通じているなら、判っていると思っていい。学会や大学に関わりない者が、少しは奮起して、アイデンティティの正体を見極めたいと思ったときに、こういった著作に出逢えたことを、むしろ喜ぶべきだろう。

そこで、今日のブログから、あらたなカテゴリーをつくった。
題して、「知のレッスン」。
なんだか、この頃、ものすごく知的に飢えている。周囲で起き続けている事柄のもろさ、みにくさ、切なさ、度し難さ、ひどさ、をかみしめるにつけ、それらを整理しなければ、生きていけないというほどの切迫した、知的欲求を感じる。

ケイコさん、そこまでやるわけ。
ついていけないよ、という方は、飛ばしてくだされ。

でも、私はそんなに簡単に、難解な迷宮みたいな世界に入っていく気はないよ。
ただ、自分の周りに起きてきた事ごとを見きわめるために、
もう少し、生きた知識を得る必要性を感じているというだけのことだ。

自分の小さな世界、ささやかな暮らしの中で起きた、様々な事象を、もう一度、世界的な視野で見つめなおしてみたいだけのことだ。世界的な視野というと、ややおおげさかもしれないけれど、世界の中の、周縁、辺境と位置付けられるここで、私は何をどう経験し、どう整理すべきかを検討したいだけだ、と言ったらいいのだろうか。
あるいは、整理しきれるはずもない、様々な事象を、どう名づけ、どう言葉にし、どう沈黙のままにとどめるべきか、そのことを模索してみたいだけのことだ。


さて、話は変わるが、つい先日の日本語の授業で、「外人」に始まって、いつも、様々な葛藤にさらされながら日本で暮らしてきた在日外国人との授業のある程度の時機が満ちた時、持ち出す典型的な語彙を、ついに持ち出した。ついにというほどのことはない。さっさと私は持ちだした訳だから。

「ところで、外人って言葉どう感じている??」
これに、別に慣れているし何か問題あるの、という外国人に会ったら、あなたはしかと自分に訊くがいい。自分が彼・彼女にいかに虚勢を張らせているか、鈍感さに追いやっているかを、たとえあなたの罪ではないとしても、少なくともその時、その瞬間、その一員であることをかみしめたほうがいい。

もちろん、ほとんど全ての外国人は、違和感を唱える。日本人の無意識に居座った、ウチとソトの強烈な仕分け化が、排外的なこの言葉にはいやがおうにも植えつけられているからだ。

強烈なノーをいう外国人。いやだけど、仕方ないなあ、と思っている程度の外国人。
まあ、いろいろだけれど、「ゼンゼーン気にならない」って外国人がいたら、これはかなり要注意だ。
日本人に精一杯同化しようとしているか、日本人に完璧媚びた人生をよしとしているか、まあ、私の立場で言うのは憚れる面もあるけれど、それはやはり否定できまい。

ところで、私とほとんど年の変わらない生徒である、その日系ブラジル人女性は、さらりと違和感をもらした。
そして、外人と外国人と、どちらがニュートラルな日本語だと思うか、という質問に対して、即座に「外国人のほうがもちろん二―トラル」と答えた。
これはギアだと思ってくれればいい。前進の一速二速三速と入る方向を、様々にたとえて私は語る。「福井は前進ギアが封建的だからね」とか、前向きなふりして後ろ向きのギアだったりね、とか。
勿論、ニュートラルは、無色透明な色のつかない意味合いの言葉のことを指す。つまり、元素的な意味合いで使える言語性を帯びている言葉を指す。

さて、それから、母国語と母語の違いに入った。
さてさてえ。おい、これ読んでるの、ほとんど日本人だろうがあ。
母語って言葉を知ってるのかい。
マザーランゲージ、生まれながらに自然と使っている言葉。
お母ちゃんが使って自然と覚えることが多いから母語だけれど、
必ずしもお母ちゃんとは限らないだろうなあ。

さて、母国語。国がついたとたん、胡散臭い意味合いがいやます。とことんね。
国って誰が決めたものなんだよ。母国ってなんなんだよ。
どうして、日本の日本人のための教科書は、日本語でなくて国語なんだよ。

さて、あなたの母国は。さて、あなたの母語は。
その二つが、世界のほとんどの人々は違うんでございます。
国境が絶えず変わる紛争地域に住む人々。多民族が入り乱れる国々。
そんなのアッタリマエなのに、日本人は、のほほーんと、
「外人」という言葉を今でも当たり前に使い、「母国語」を今でも何の恥じらいもなく使う。

母国と母国語が一致しているという、奇妙奇天烈な奇跡のような現実を生きていられるのは、
日本人として日本に生れて、なんの違和感もなく、なにも考えることなく生きている人々、
そう、紛れもなく、無意識の奥深くまで同化された日本人のこと、
あなたのこと、私たちのことなんだよーん。

授業の最初にこの言葉を導入し、最後にこの言葉の整理をした。
授業の結びで、その事実は、日本という国を知る上で、
ものすごい気づきを彼女にもたらしたようだった。

「わたし、先生、日本人と思ってるの。なにも気にしないようにして…」
「でも、気にしないって思っても気になるんでしょう…」

それまで、徹底的に日系ブラジル人としてのアイデンティティを誇らしく語った彼女の一変した物言いに、私は「気にする」「気になる」という日本語の語彙を二つ対置させることで、彼女の揺らぎをあいまいにさせないように試みた。
みるみるうちに、彼女の眼がうるんだ。
「先生は判っているけれど…」。
「ごめんなさい、あなたの傷に、葛藤…コンフリクトメンタル…に、
 ふれてしまったかもしれないけれど、あなたは日系ブラジル人でいいのよ。」

私は、そおっと、彼女の肩をさする。
こんなことを一体何回してきたことだろう。
自己を奪われ、無意識深く同化された「日本人」とのあいだで、
自らをも同化させなければと、
自身を「無」に帰してきた外国籍住民の葛藤を、一体どれだけ見てきたことか。

殊勝で謙虚であるべき「知のレッスン」最初のブログが、
やや挑発的な「知の冒険」めいてきたぞ。
いや、やぶれかぶれの日本語教室の怒りに満ちてきたぞ。

彼女は、訊けば正確には、日系としては二世半くらいの日系ブラジル人と言えた。
そして、すでに18年の歳月を日本で過ごしてもいる。
外国籍住民であることを時に隠せるほどの、よく聞き及ばなければ流暢にも響く、
地の言葉で、隣人とやりとりし、町内会にも顔を出す。
だが、彼女の尊厳と誇りは、けっして満たされることはなかった。

今日から、3回ほどのシリーズで、
「強迫されたアイデンティティ・佇立するアイデンティティ」と称して、
アイデンティティにまつわる周辺を思索する。

上野氏によれば、否、この本の帯によれば、
「一貫性のある自己とは誰にとって必要なのか? 賞味期限切れの概念に問題提起。」
あるいは、
「たとえそれが意図に反した利用をされることがあったとしても、どのような理論も、それを必要とする切実な動機づけを持った人々の努力によって、つくられ、変容してきたのだ、と。」

うーむ、うむうむ。

ペルーで最初の頃、質問をよくされた。
「日本人はどう思うのか」。
私はそれにこう答えた。
「私は日本人の代表にはなれない。」
そのうち、私の親しい生徒たちには次の言葉が定着していった。
「先生は日本人ではないから…」。
ついでに言えば、私の性格をよく知るほどに、ペルー人は、
「あなたは日系人か」とも、よく訊いた。

それから、最近、やっぱりこれはたまらんなという類の質問。
「ところで、レズビアンの人達は、この件においてはどうなんですか」。
後ろを向いて、誰のこと? と言いたいところだけれど、そうもいかないから、まっすぐに向いて言うしかないなあと、最近は腹をくくった。
「そういう訊き方そのものが、私にはなじまない。
私という人間がどう思うのかを訊くなら判るけれど」
ついでに、続けられるなら本当は続けたい。
そういうふうに訊くあなたは、いかなるアイデンティティの強迫をもって、それを訊くのか。

特にLGBTの人達のアイデンティティのたてかたは、余りに単純すぎる。
そして、ある種、強迫的ですらある。
日本社会一般がそれを許していないから、
あえてそれに拠って立とうとする時に起きる、きわめて危うい問いかけと見なすべきなのだろうか。

あなたは、それなら私を何者として知っているのか。
あなたは、それなら私をどういう者として理解しているのか。

あなたは、私の最も基底にあるアイデンティティが、
最もアイデンティティが揺らぎやすい「自閉症スペクトラム」であることを、
どう逆説的に肯定できるのか。

しかもなお、私は、現実的実質的に、
「レズビアンマザー」というアイデンティティを離れることはできないし、
全肯定もしているし、拠りどころにもしている。
ただ、私はそれだけで自身をけっして語りたくはない。

私は、婚姻制度をけっして甘く見ることはできない。
成人式も結婚式も、鳥肌が立つ類の人間だ。

家父長制社会を批判的に見るまなざしに揺るぎのない、フェミニストであることはやめられない。
しかもなお、フェミニストのパワーのみがエゴイスティックに突進していくさまを、
黙って見てはいられない、というパラドックスをも抱えている。

弱さに豊かさを見る、
あらゆる精神疾患に人の精神や魂や心と言われるものの底なしの明暗を見る、
悩む力に希望を見る者でもある。

『強迫するアイデンティティ・佇立するアイデンティティ』

それらは、私の中に戸惑いと共に、
居心地悪そうに居場所を探せないでいるアイデンティティであるかもしれない。
それらは、私の中で、沈黙のままに佇んでいる、私らしいアイデンティティと言うよりも、
私自身と言ったほうがいい、なにものか、なのかもしれない。

始まり。始まり。
「知のレッスン」なんてやめて、
「アイデンティティの谷間で」とか、「アイデンティティの沼地で」とか、
「峠にてアイデンティティを空に見る」とかのほうが、いいのかしらん。

これって、ぜったい、「知のレッスン」なんかになっとらんだろうなあ。
まあ、斎藤美奈子みたいな論客もいるのだから、許されようか。
ぼちぼち、さあレッスン。

そう、レッスンは、いつも私は自分で見つけて、自分でするもの。
安上がりだけれど、時間がかかるシロモノ。
誰にも押しつけられずに、学ぶもの。
好きな語学もそう。
言葉を使って、地の果てまで、否、知の果てまでなんて、そう簡単に行かれないけれど、
ここまでおかしくなってしまった日本は、
私だって、少しは頭を絞ったらもっともっと見分けられるさ。

それにしても、どうしてこうも、日本は均質なんだ。
それにしても、どうしてこうも、福井は貧乏人がいないんだ。

これも「知のレッスン」の最初の問いです。はい。
素朴にして、ふかーい試行錯誤の始まりでーす。

えいっ。

ケイコ
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