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Face bookを生みだしたマーク・ザッカーバーグの『ソーシャルネットワーク』を見たよ(2日後、定型発達者のためのインフォメーション追加)

私は、このネット社会では、せいぜいPCメールか携帯メールまでの人間だ。
そんなの当たり前で言うまでもないだろう、と若い世代は言うかもしれない。
でもね。
上記の二つのメールとてやらない、
同世代か少し若い世代の少なくとも4人を私は知っている。
その人達は、ほんの少し前までは、おおいに世の中の変革に貢献した人であったりする。
議員をしていたり、活動家であったり。

でも、時代と共に必要となったツールに手を出さない、そのスタンスはゆるがない。
私も、携帯電話を「持たされた」感覚のほうが強い人間だから、
そのことはよく判る。
自分がどこにいるか、いつも人から判ってしまうなんてたまったものではない。
でも、少なくとも、他者からの私への安心のために必要なら仕方がないか、
とあきらめた。今も、あきらめた、という感覚は消え去らない。

携帯の機種を今年の初めにいよいよ変えてからは、
メールが実に打ちやすくなって、携帯メールも相当駆使しているが、
やっぱり1986年に1週間で覚えたブラインドタッチ…この言いかた今はいけないのかな…
でパソコンでメールを打つ方が10倍の早さだから、
きちんと物事を字数も費やして伝えるべき時には、パソコンでメールとなる。

でも、あの懐かしき東芝のルポというワープロは、外界とはつながっていなかった。
外界とつながっている、ネット上の世界というのが、
私には時々解せないことが多い。
おい、勝手にウィルスバスターを動かして再起動だなんだって言うなよなあ。
そんなことを、多分私のものとされているだろう、
バイオのノートパソコンに話しかけていることが、なんと多いことだろう。

私はただ書きたいからキーボードに向かってきた。
今も、向かう。たった今は、ブログというネット社会につながりながら書いている訳だが。

そんな私が、ある方の薦めもあって、
昨晩、ヒデコと共に、Face book を生み出したマーク・ザッカーバークを描いた映画、
『ソーシャルネットワーク』を観た。
これって、自閉というか、アスペルガーの視点がなかったら、
あの大嫌いで顔も見たいと思わないホリエモンとやらの世界版というか、
アメリカ版のサクセスストーリーと見まちがえてしまう人も多いことだろう、
そうも思った。

この映画をそれとなく薦めてくれたのは、
ヒデコの福井の個展の会場のオーナーを通して知り合った、ある県庁の職員の方だった。
Face bookを作ったのが、自閉症スペクトラムに属する人間らしいという情報を、
彼がもたらしてくれたのだった。

ヒデコは、60代の人間としてはまれなることなのかもしれないが、
ツイッターもミクシーもFace book もやっている。
ちらちらと私も目の端で見たり、そこから発したヒデコからの話題で、
楽しくなったり、嫌なニュースを聞いたり、そんな毎日を過ごしている。

ただ、もともと、Face book だけには好感がやや持てる感じを持ち始めていた。
自分という人間を明らかにする仕方に透明性がある。
人と人との関係を作っていくやり方になにか一貫性が感じられる。
ただ、それを使う人間の保守性や秘密の多さによっては、
その透明性は意味を持たなくなる側面もあるが、
それはその人間の自己表出の限界を背負う訳だから、
誰のせいでもなく、そのツールのせいでもないということは明白だ。

そして、何よりも、私達のいとしきラテンアメリカの友人達が、
Face book で話しかけてくることが増えたことも大きかった。
懐かしいスペイン語の文字がその響きと共に立ち上がるときの嬉しさ。

そんなわけで、言いっぱなしにもなりうるツイッターよりも、
ある意味、閉じた空間をも生み出しうるミクシーよりも、
私には公明正大っぽいかな、と思えたFace book の生みの親が、
ほとんど実際の友人は三人くらいしかいない自閉圏の人間だったという情報は、
かなり積極的な関心をこのツールに見出させることとなった。

そして、その県庁の職員でもある方から、映画『ソーシャルネットワーク』の存在も知らされた。

見ましたよ。昨晩。ははは、笑った。へんなところで笑っていたかもねえ。

私は主人公のマークの側に完全にはまってしまったけれど、
ヒデコはそのルームメイトで、共に、本当に共同作業的にFace book を生み出していった、
その友人の心模様に、いちばんシンパシーが働いたと言っていた。
というのも、最後の最後にマークは、その親友を裏切ってしまうからだ。
裏切りを裏切りとも意識しないほどの冷徹さで、
自分の選ぶべきものを選んでしまうからだ。

最初のシーン。
それまでの彼女と別れる話のシーンが、
矢継ぎ早に続く、言葉のシャワーのような会話で、いきなり私達は、
まあここでは、「アスペルガー症候群」の世界へと連れ出される。
その会話のかみあっているような、かみあっていないような、
いやいや、深いところでは完璧かみあっているけれど、
多分、定型発達の人にとっては、かみあっていないことになるのよねえ、
ってな会話で、この映画がただのネット社会でのサクセスストーリーではないことを、
いやおうなく知らされるという幕開けなのである。

のちのちの訴訟となった、元親友、それからやっぱり途上で相当組んだ双子のキョウダイ、
彼らとの訴訟の聞き取りと共に、物語は現実に引き戻しつつ超高速で展開する。
その高速性が、またまたパソコンにものすごい集中度で向かうマークの、
キーのすさまじい音と共に、基調となる響きのように物語と言うにはやや情緒の薄い、
ハイテクストーリーが展開する。

はは、場所はまずは彼が在籍していたハーバード大学だよね。
私には縁がない社会だけれど、
マークだけが、とても縁があるような存在に思えるから見ていられた、とも言える。

すさまじい集中力、自分本位の徹底的追及、人と組む時の独特のやり方、
うむ、ちょっとは覚えがあるかも、というより、正直言うとかなり覚えがあるかも。
でも、私はオンナだから、彼みたいに露骨にやれなかった。
それに、IT産業とはほぼ無縁なところにいるし、
エリートでもないし、エリートからこぼれた人間だし、
別の視点でこだわったら、許せないこと、ばかばかしいこともいっぱいある映画。

でも、そんなのぶっとばして、見たいたよねえ。
ふむふむ、こいつが、あの少しは信憑性があると思えていたネットツールを作った人間なのか、と。

彼は、聞きたくない訴訟のやりとりのシーンでは、窓の外を見ていたりもする。
ふっと気づくと眠ってさえいる。ははは。よくぞ、ここまで描いたねえ。

最後に、彼がシリコンバレー入りする直前の出会いがまたまたおかしいと言えばおかしいし、
もともと彼と組んでやってきた人間にとっては、残酷と言えば残酷だ。
だって、彼の前に現れた、なんとかっていう音声上のネット上の「金にならない」仕事で、
成功していた男もあらら、名前忘れちゃったけれど、完璧アスペルガーだったものね。

この二人が組んじゃうんですからね。
そして、Face book は、最初の定冠詞the を省いて、
まさに Face book として、全世界へと広まっていくのであるー。

これ、まだたしか、2006年とかの話だからね。

映画を見たから、マーク・ザッカーバークで検索した。
ユーチューブで映る、本物の彼は、それほど自閉圏の人間に私にも見えなかったし、
そんな傾向はない、と言い切る他の人の言葉も散見された。
でも、いやいや、かなりそうなのである、的な見解も出できた。

まあまあ、そんなこと、どうでもいいや。
こう描かれても、本人が別に問題ないと思った程度には、
本物のマークもこういう類の人間なのだろう。

こうやって、アスペルガー症候群は、『シリコンバレー症候群』ともなって、
自閉症圏、すなわち天才的、みたいな説を流布する結果にもなっている。
たしかに、障害なんかじゃないわい、特性だわい、と言いたい気持ちもある。
私だって負けない、自分の輝きを掴み取り続けてきたわい、という気持ちもある。

でも、そうでない、自閉の人も、アスペの人もいることは忘れたくない。
そうでない人のほうが、多いことを忘れてほしくない。

だいたい、サンフランシスコ市から48キロというシリコンバレーと呼ばれる、
IT産業、先端科学技術の世界的な一大拠点で、
まるで、そこにはそういう人達がごまんといるみたいに言われているけれど、
正確には、そこでも一割程度の人達がそうだ、というにすぎないということも、
やはりここには書いておきたい。

それから。
なんでだろうか。こういうふうに「成功」する自閉圏の人間にはオトコってのが多いのは。
いきなり成功。いきなり、いやいや、いやというほどの集中と研鑚の結果の発明とか。
そうそう、私と同じ誕生日のエジソンもそうだとか、
アインシュタインは、5歳まで言葉を発しなかったとか、
これって正確には、アスペルガーでなくてって、高機能自閉症じゃあないか。

オンナは少なくとも今の時代は少しは変わってはきつつあっても、
ものすごく人間として変わっていたり、怪物的であったり、異星人っぽかったり、
そんなことは許されなかったんじゃあないかなあ。

一方で、欧米でも、そしてささやかながら日本でも、
ものを書いて、我は自閉なり、ってな宣言めいたことをしているのは、
オンナの人が多いよなあっていうのも気になるところ。
これは、言葉で自己を取り戻す、解説する、表出する必要が、
彼女らのほうが必要で、そういう存在であることそのものを、
ある意味「ウリ」にするしかなかった、っていう筋道を意味しやしないか。

では、私は。
では、のえは。

私は、その県庁の職員の方も参加された、
福井の個展会場での私達二人のライブトークで、
いかに「ベロ亭やきものキャラバン」を企画運営してきたかを、
ただただ前向きに積極的にポジティブに表出した。
雄弁に語った。ここでも二人のライブトークはやや漫才めいていた。

ひるがえって、大阪府と発達障害のビアサポートグループでの講演。
結局、どちらがボケかツッコミかは棚上げした、
大阪人すら爆笑させるライブめちゃくちゃトークはある意味同じだったけれど、
私は、堂々と初めて、自閉圏に生きる人間の、どうにもならないやるせなさと共に、
自分自身で編み出したソシアルストーリーとしての、
「ベロ亭やきものキャラバン」の企画運営のかなりな部分を二人で語った。

福井では、私は冒頭でただ、『異星人』みたいな自分の宣言をしただけだった。
時間もこちらは短かったし、肯定的、押し出し的な事実で説得力を持つようにおさえた。
こころした訳ではなく、おのずとそうなっただけだ。

もしも、同じ一人の人が、この二つの一見、同じテーマの会を、
両方とも見てみたら、どんな違いや、共通点を感じてくれることだろう。

自閉やアスペを棚に上げて、ないものとして、
生きている人の多い福井人。
私から見たら、ああ、あの人も、ああ、この人もの世界だけれど、
一家の中心だったり、地域のボス的な存在だったり、
特異なアーティストだったりするだけで、その存在は、
変わっていても許されたり、誰か目に見えない存在の犠牲の元に、
なんということなく許されていたりもする。

ひるがえって、女たちは、どうなのか。
いるよ、いるよ。福井でも、あのラジオの人、あのアーティスト。
ほらほら。
でもね。
もっと目に見えないところで、本当は苦しみ抜いている人達のことのほうが私は気になる。
のえのように、酒飲んでワラって、みんなと共に楽しくしているようでいて、
一人、一人、一人って思っている人のことが私は気になる。

ひるがえって、LGBT。
これはいますよ。ごまーんと。
福井にも、東京にも、大阪にも、どこにでも。
性的少数者というマイノリティ性にとらわれる余り、
自分がハッタツだなんて思いもよらずに、
その生きがたさの元凶をつきとめられずにいる人たちがごまーんと。

ゆっくり自己研究をひろげていきますよ。これからは。

誰もが、マーク・ザッカーバークのようなサクセスストーリーの道をたどる、
それができる訳もないし、できる必要もないのだから。

ただ、私は少しずつやっぱり、Face book はしてもいい気がしてきた。
彼はハーバードに行くようなエリートだけれど、
友達は三人くらいしかいなかった。
その大切な一人すら最後には裏切った訳だけれど。

でも、そんなマークの生み出したネットツールだから、
私がなんとなく信頼性があるような気がしていたことが、
妙に了解できて、胸に落ちるところもある気がしたからだけれどね。

世界は今も回っている。
地球という天体のひとつの球体と共に。
そこにネットがある。
できれば離れていたい。できれば少しはつながってもいたい。

いっそ、スペイン語限定にして、
エクアドル在住のキューバ人の、
私の良きスペイン語教師でもあったリディセに添削を頼んでみて、
続けてみようかな、
ペルー通いから早4年。
あんなに使って親しんだスペイン語を還暦を前に忘れないようにするためにも、
スペイン語圏の人限定でのFace book。

これなら、マークも面白がって使い方を同じ自閉の人間として、
判ってくれそうな気もする。
いやいや、彼はそんなことには頓着しない。
誰がどんな使い方をしようと彼には関心はもはやないだろう。


そのシステムそのものを生み出した集中と世界とのやりとり。
それだけが、彼のエクスタシーの源泉だったのだから。

私が語学に、その文法の成り立ちにエクスタシーを覚えるときのように。
日本語の文法を本当に判った時、もっと早く知りたかったと思えた自閉の人間として、
震えるような喜びをかみしめた時のように。

私、ネットはそれでも、やっぱり苦手なのかなあ。

ケイコ

「定型」ハッタツ者のためのケイコのやさしすぎるインフォメーション

ふふ。また、おせっかいな、と言われそうな、インフォメーションを思いつきました。
まず、このての話題の中で、最近当たり前のように、
「「定型」の人達は」なんて使うとき、
「ええっ? 定型発達って何?」的なご質問に出会うことが多くなりました。
あらあら、あなたは「幸せな」定型内封筒みたいな人生を、無意識に享受しているのねえ、
と、にんまりしたくなるような、悪い癖が定着しつつあります。
それから脱するためにも……。

★マークが、実際は大学で3人程の友人しか持たない自閉圏の人間だったということ。
★かなりな透明性を保持できるface book を生み出したということ。
この二つの関連性を、どう理解しているかが、
ある意味、自閉なり、アスペルガーなり、
うーむ、この際やはり「自閉症スペクトラム」と言うべきでしょうな。
それをどれだけ咀嚼ないし、体得しているかの指標となるようなことなのです。

現実の友人、というのは、共になにげないおしゃべりをしたり、
共にお茶をしたり、読んでいる本のことで知識を交換したり、
私もよくわかんないけれど、こんな現実的かつ実質的な存在だと思うのです。
特に「定型」ハッタツの人達にとっては。
なに、言ってんの?? あったりまえだろう、と言う人は、かなり「定型」かも。

発達障害、というのは、実際「障害」というほどのことに至っていなくとも、
この社会が想定している人間というもののハッタツの尺度に、
見合わないハッタツ過程を踏んでいる人達のこと。ものすごくざっくり言っちゃえばね。
そんなふうに社会が想定している「正しいハッタツ」をしている人なんて、
実は二割程度という新説も最近入手しました。
そうだろうな、過度のこだわりと集中なんて、興味あることに出会えばかなりな人にあるよねえ。
そうしたら、他の人に見向きもしなかったり。
ただ、背中に目がついていないのが本当の「自閉」。
ただの集中状態はやがて背中が察するからです。背後の状況を。

でも、みーんなまだらにいろいろ定形外を持っています。
私は親切にその定型内と定形外を説明する気はありません。
検索して勉強してくださいね。ともあれ、「自閉症スペクトラム」障害について。
その上で、私は自閉の内側から自在に語りたいといつもこころしています。

つまり、マークは、
裏も表もないネットワークツールの必要性を感じて突進したんだと思います。

裏も表も必要な定型の方々、
ないしは、ハッタツでも、けっこう軽度、ないしは幼いときからの訓練で、
その使い分けをする必要のある人は、ミクシーなんかがいいのかもしれません。
うむ、ミクシーの使い方を見ているとそんな気もします。
ツイッターは今さら言うべくもないかも。
でも、「拡散希望」といつもつけて、
切ない自分のストレスや欲求不満、かなわぬ夢を託して書いている、
ハッタツらしき人達の言葉を見るとき、切なさが募ります。
どんなに「拡散」させたって、人間関係も、あなたのユメも広がる訳ではないよ、と言いたい。

マークは、自分のツールの完成過程で、スポンサーを募るかどうかで友人達と争います。
彼は絶対スポンサーをつけるべきではないと言う。それでは透明性を損なうからです。
でも、最後には超どでかい、丸ごとのスポンサーを得ちゃうんですけどね。これは◎なんでしょう。

表も裏もない透明かつ筋の通ったコミュニケーションを、
自閉症スペクトラムの人々のかなりな人達が好む傾向があるかと思います。
そして、じっくり嘘のない、内容のあるコミュニケーションを積み上げていくことを好む。
まあ、ファジーなおしゃべりが苦手なぶん、かなりきちんとっぽいところはあるかも。
でもけっこうface book でも、料理のこと、趣味のこと、
なんでも楽しくやれますものねえ。

まあ、またまた、くどくどケイコさん、書いているって言われそうだから、
この辺にしときますね。
で、何かわかりましたかね??

最後に一言。これはあくまでも私の見解。というかインフォメーション。
とにかく「自閉症スペクトラム」へのステレオタイプ的な誤解曲解はかなり悲しい。
ステレオタイプからしか、例えばLGBTへの理解だって入れない場合もある。
でも、ステレオタイプをこえて、一人一人の人間を見るべし。知るべし。
それは、どんなマイノリティ、どんな特性とて同じはずでしょ。
うむ。はい。そう。
そうなんでーすー!!
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| 自閉圏のつらさと豊かさと | 15:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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