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うらやましい・すごい・うれしい…感情形容詞の罠

最初に言っておくけど、これはケイコの言葉遊びだよん。
心が疲れきった時には、私はこういう言葉遊びに救われてきた。
遊びのわりには、それなり考えるところもある。
でも、心を砕くのと、言葉について考えるのは、どうも脳細胞の違うところを使っているというのは、よく実感できる。皆さん、脳細胞のどこを、その瞬間使っているか、自覚できるのかな。私にはふつうのことなんだけど。これも自閉の特性?

10月5日の、のえの命日をどう通過するか、で、今年は、外界に向けて、とことん力を尽くした。ここまで、人に、のえの生と死を意識させた(ここでは、あえて「してもらった」とは書かない。やっぱ、意識させた、だ。)のは、のえのことが、映像という誰の目にも見える「虚構」の世界に乗ってしまったからだった。おい、そこに何をあんた達は見たの? と問わざるをえない、そこまで私は「追いつめられていたからだ」。

やたら、書きながら、「」をつけるのは、その事に距離を取りたかったり、そこをつっぱねたい思いが高じている証拠。

私は10月5日の、のえが逝った時刻を過ぎてから、間もなく、倒れるように力を失った。
すとーんと力が抜けたと言ってもいい。
それまでは、おどろくほど落ち着いていたというのに。

もろもろあって、昨日は、とうとうある人と話そうと決心して、
電話をするがつながらない。
別のネット情報によると、忙しくて電話に出られない、というその人の告知が、
ヒデコが留守電を入れてすぐに広まった。
それまで、特に忙しそうな様子はなかったと聞いているのにな。

夜、遅く、ある別の人と、3時間余り話をした。信頼関係を築きつづけてきた人。

4日には、エミさんと話した。
「うらやましい」という形容詞を巡って。

そして、昨晩は、長話をした人と、「すごい」という形容詞を巡って話した。
「すごい」と呼応して「うれしい」という形容詞についても話題になった。

今、日本語教室にいないから、日本語の形容詞に二種類あって、感情形容詞と、えっと、もうひとつ物の動かしがたい性質を言うタイプの形容詞があるんだけど、なんて呼ぶかは、忘れてしまった。文法の中身さえ判っていれば、日本語でも、どんな語学でも教えられるから、文法用語なんて問題じゃないのよね。

ただ、感情形容詞…えつと、この言いかたで良いかどうかはともかくとして、とにかく、感情を言い表す形容詞のことだけど…というのは、日本語では、きわめてきびしく、一人称か、それ以外の人称かが使い分けられていることが面白い。

つまり、
私はうらやましい。私はベロ亭がうらやましい。
は成り立っても、
エミさんは、ベロ亭の親子関係をうらやましがっている。
としか、三人称では言えないということがあるのだ。

4日にエミさんと話した時、エミさんの「うらやましい」が、次の段階の表現に行き着いたことを、私は指摘した。「うらやましい」は私に、あるいは長年、ベロ亭にのしかかりつづけた形容詞で、これを言わせたままでは、けっして関係が長続きしないことを、私は本能的かつ意識的に、彼女との誠意あるやり取りの中で発見してしまったというべきだろうか。

日本語の感情形容詞は、実にエゴイスティックな一人称を、明確に使い分けることで、その意味を際立たせる効果を持っている。

うらやましい、は一人称でしか使えない。それ以外では、「がっている」とつけなければ機能しないという仕組みの面白さ。

さて、昨晩話した人とは、「すごい」を巡って、ちょっとしたやりとりがあった。
その人は、ある時、その人らしくもなくある種「不用意に」もらした、「お二人はすごい方たちですから」という言葉が、私にとっておさめどころのない言葉だと指摘される前から、
それを言われるだろうと、意識していたと昨晩言った。

ただ、「すごい」は感情形容詞の側面を持つには持つが、ある種、評価の基準のような要素が入っているから、「がっている」という表現にはならない。

それはすごい。
と言って、一人称の感情と共に、ある種の評価を伴う感情の濃さを表しているとでも言おうか。だから、
すごがっている、とはならず、
その人は、ベロ亭の二人のことを、すごいと思っている、となる。

ふふ。日本語教師に完全に戻っちゃったかな。
でも、これは私達が人と共に生きていこうとする時、けっして避けて通れない課題でもあるんです。その事、意識している人、意識できる人、どんだけいるのかな。

その人は、「すごい」という感情と評価を伴う形容詞を、ふとある瞬間、珍しく使ってしまったことを意識していて、そのことを言葉を尽くして伝えてくれた。
私はその「すごい」がこぼれてしまった瞬間をキャッチしていたから、キャッチした瞬間に感じたことも、結局話した。

私達について、大切なことを伝えた後、その大切なことに触れているのが「嬉しい」ということを、その人は言ってくれた。
その後の会話の中で、ふと、私はごく気軽に、「ああ、そうか、それが嬉しいわけね。」とか何とか言った。「嬉しい」の安易さを、安易に使ってみた。気軽さと言ってもいいけど。
もちろん、ものすごく大きな「嬉しい」も、おもい「嬉しい」もあるけどね。

その人は、「すごい」と「うれしい」が、丁度、そのこぼれ方において、相対する、というか、好対照というべきか、そんな二つの形容詞だということを示してくれた。
なんだか、おかしかった。

私は知っている。
私達二人をうらやましい、と思っている人が、近づいてきては、去っていった、おびただしい、私達の人間関係の歴史を。
うらやましい、はけっして、互いの人間関係としては蓄積に至らない、という点を。

すごい、は、もう少し、評価といってもいいニュアンスが含まれるけれど、それもまた、気を付けなければならないということも。評価が、適切に機能している時はいいけれど、それを相手にあらわにしても意味がないことが多いということを、私は肝に銘じているからである。つまり、めったに、相手に対して使うべきではないかもしれないことを。あるいは、その人の、仕上げた成果とか、そういったものには、選ばれて使われて然るべきかもしれないとしても、それはそう簡単に使わないほうがいいということも。

まあね。初雪がどかっと降っていて、「わあ、すごい雪だあ」とか、「すげえ人混み」とかいう使い方の時は、全く違う意味合いを帯びてくるのは別のことだけどね。

とにかく、私は、時にエゴイスティックなその人の感情を押し付けてくる感情形容詞について、この間に、不思議な学びをもった。

それは、のえの、「うらやましい」ほどの宝物のような音源に残る歌の数々の中に秘めた「すごさ」を、まさに命日という当日聞いていた中で、もたらされた発見でもあった。
これは、一応言っておくけど、こじつけ的表現で、のえのことをそんなふうに思っていつも聞いている訳じゃあないんですけどね。

しみじみ聞いていて、こいつすげえ、とか、うん、思うことはあるよ。

ならば、のえの人生はうらやましいと言えるのか。
ならば、私達の人生は、うらやましいと言えるのか。
ならば、私達の親子関係は、すごいと言えるのか。
ならば、私達がつくった家族は、すごいと言えるのか。

一瞬の感情の表出として、その事を言われることには、もちろんやぶさかではない。

ただ、その感情の表出が、その人の動かしがたい、叫びのような、葛藤のような、出口を失った感情の表出として、このての感情形容詞が使われることには、要注意だということを、私は単に言葉のプロとしてだけではなく、自身が生きてきた人生の投影として知ってしまったことを、今回、激しく自覚してしまった、ということかな。

ありゃりゃ。今、使った「激しく」はなんなんだ。
うん、これは、一回性の「激しい」という度合いを表す形容詞の副詞形。
私の、感覚と知恵と知識の度合いが凝縮した急速さを、表している副詞句という訳だ。
はは、こりゃあ、うれしい発見だ。

ケイコ
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| ケイコの言葉遊び | 02:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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