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沈黙してたらわからんわ、言葉にならないって、結局「自死」へのタブーじゃないか

昨晩、あるレズビアンの女性と、心静かに、だが、
お互い、ある種の覚悟はして、向きあった。

私が、ご飯を食べている時も、トイレにいる時も、仕事をしている時も、
こうやって人と話している時も、かたときも「自死遺族」であることを、
当然のこととして生きている、ということを彼女に語りかけた。
もちろん、そんなことを忘れているときも、いっぱいあるけれどね、
と付け加えることも忘れなかったけれど。

彼女は、いわゆる死すら、身近に感じたことがほとんどなく、
想像もできないこと、経験しないと判らないことについて、
何か言ってはいけないと思っている、
といったふうなことを言った。

だとしたら、異性愛者は、永遠に同性愛者のことを判らない、と言い切るのと同じじゃないのか、
と私は言いかけた。

彼女は、今までマイノリティと思ってきたけれど、
そして、これからもカミングアウトすることなく生きていくだろうけれど、
マイノリティということの何ものかが最近意識の中で変わったということを
言いたそうだった。
どうせ、判ってくれない、という意識に甘えたくない、
そんなふうなことではないか、と、
それまでの彼女とのささやかなつきあいの中で聞いてきたことを寄せ集めて、
私は彼女の言いたげなことに思いをひとときはせた。

彼女の意識の底でかすかに変わりつつあることと、
私の「自死遺族」当事者としての意識と、「自死」へのまなざしについて、
どう交わらせるべきか、私はひととき思いを流した。

簡単に触れてはいけない、
何を言ってはいいか判らない、と彼女は続けていたと思う。
相手を傷つけてはいけない、という意識は、
自分を守りたいという意識ではないかという辺りを、
私は表現したくて、言ってくれなくては何も判らないし、
沈黙が無視に映ったりする、つらさも含めて、
言ってほしい、傷つけられたと思ったら言うし、などとつづけた。

なぜなら、彼女とはこれっきりの関係ではないと思っていたし、
それこそ、沈黙をこの件において守られることに、
私は耐えられないだろうし、耐えてはいけないと思ったからだ。
つまり、彼女がこの点において沈黙を守るなら、
関係そのものも終わりにしなければならないと思えたのである。

ふっと、彼女は気づいたように、
それに、普通の病死とか事故死ならともかく、
「自死」であることはなおさら触れてはいけない気がして…、
とつづけた。
私はあえて、王手飛車取りに出た。
どういう意味よ。それって何よ。
ばかにしないでよ。自死だってことで、なんで触れてはいけないなんて思うのよ。

ひときわ、ばかにしないでよ、という声が大きく、
その室内で響いた。

私は正直に伝えてくれる彼女に向けて、
ある種、冷静に「ばかにしないでよ」と言うことによって、
いかに今までこの言葉を何十人の人に言うのを控えていたか、
とことん思い知らされた。

私はずうっと言いたかったのだ。

自死を、自死遺族をタブーみたいに、はれものみたいに、
なんと言っていいか判らない対象みたいに、
扱うことそのものが、いかに耐えられなかったかに思い至った。
今さらのような発見だったが、
はじめて、そう口に出したことで、私は心から自分が洗われる気がした。

これが面と向かって言えないから、
多くの自死遺族が、「分かち合いの会」なるものに集って、
ここでだけなら言えると思いを出し合っているという構造そのものにも、
はたと気づき、分かち合いの限界そのものにも思い至った。
もちろん、この手の会が、そういった「分かち合い」だけをしているわけではないことは知ってもいる。

ただ、同じ経験をした者でなければ、絶対分かり合えない、
そう思い込むことで起きることが、この日本という社会の、
マイノリティや弱者の中で、起こりすぎてはいやしないかという危惧は、
やはりここでも例外ではなかった。

そうやってばかにすればいいんだわ、
あなたの周りやあなた自身が自死するようなことがあっても、
一切何もしないって断言するからね。

彼女は少し力なく頷いた。

そう彼女がするかしないかのうちに、私はこう言った。
やっぱり、なんやかんや言って動くね。力になってしまうね。
黙ってなんかいられやしないんだ。

彼女の目が真っ赤になってきた。

ばかにしないでよ。
そう言えたのは、その相手を信頼しているからこそ、
信頼したいからこそ、
信頼しなければならない仲間だからこそ、
言えた一言だったと思う。

そのことを告げたら、彼女は、
ありがとうございます…と言った。
余計な一言だな、とすかさず思った私は、
お礼なんて言わないでよ、それってまたばかにされてるみたい、
とかなんとか言っていた。


今日から新しいカテゴリーを作った。
「自死へのタブーを見抜く」。

「のえと共に」ある思いに溢れた言葉を綴るだけではなく、
私はこれから一人で、時にはヒデコと共に、
自死へのタブーにまっこうから挑戦していくだろうことを、
昨晩こころに止めた。

たくさんの性的マイノリティが、
「ハートをつなごう・ゲイレズビアン特別編」という
私達二人のパートナーシップと家族としての側面、
そして娘ののえの死と、それをどう家族や友人と悼んだか、
を含めて番組にしたのを見て、
「これじゃあ、言葉にならない」といい続けるのを聞いて、
なんて失礼なやつらなんだろうと思ってきた。

万感の思いを込めた「言葉にならない」があったことも知ってはいる。
本当に言葉にならないほどの感動、衝撃というものがあることも知ってはいる。

でも、「言葉にならない」沈黙は、時には暴力にも傷にもなる。

私達はもっと言葉にすることに勇気を持たなければならない。
言葉にすることに責任を持たなければならない。

そして、本当は自分の「沈黙」という自己表現の放棄にこそ、
最も責任を持たなければならないのではないのか。

それは少なくとも、悼む気持ち、たたえる気持ち、
残念な気持ち、嬉しい気持ち、共感の気持ちを伝えるはずのものを、
封じ込めて、人と人のコミュニケーションを閉ざしてしまうことを意味するからだ。

日本人の持つ「恥」のありかたを思う。

ゆっくりとそこのところをひもとく作業を始めたいと思う。

最後に私は彼女に言った。

多くの自死遺族は、あるいは友人を、恋人を、婚約者を亡くした、
自死に寄り添っているはずの人たちも、
そのことをひた隠しにしなければならないと思っていたり、
ふたをしてしまって凍結させてしまっていたりするのがほとんどの日本で、
こんな私に出会ったということは、まれなることだということは覚えておいてね。

誰かれにでも言うわけではないけれど、
自死遺族だということを私は恥だと全く思わない。
娘の自死を悲しむ気持ちは生涯変わらないだろうけれど、
そのことを恥だとは全く思わない、と。

今日、尾崎豊にちなんだ「ゆたかハウス」が閉ざされるというニュースに、
偶然、クリニックの薬局の待合室のテレビでふれた。
へぇえ、「のえルーム」と全く同じ発想だったかもね、と私は即座に反応した。
片目で画面を確認しているうちに、
あっという間に、私の番が来て、わざわざ「伝説の天才シンガー」について、
それ以上ふれたいとは思わなかった。

ただ、のえがミュージシャンだったからとか、
のえが歌というものをちゃあんとに遺して生き抜いたからだけではなく、
私は自死遺族や、自死そのものへのタブーについて、
今日から、静かに心深く、
とことん考え抜きたいと覚悟を決めた。

今日、図書館で借りてきた本のうち五冊ほどは、
自殺関連の書籍。
案外ないんだよな。
自死をどう悼み、抱き、悲しみの上にすっくと立って、
私達がどう生き延びていくか、
そのことを書いてある本は。

おととい、性的少数者が、政府がらみかどうかは知らないが、
元NHKのディレクターだった某氏と組んで、
LGBTの自殺対策、のシンポジウムを開くことを、
ある自死遺族の友人からのメールで知った。
その正式の告知を見て、体中の震えが止まらず、
自死遺族でもある友人にSOSの電話を入れた。

その体の奥底から来る、私の尊厳をふみにじられたとも言える、
体験は以下のようなものだった。

このシンポを企画しているトランスの若者は、
私達の番組を、「保守層ねらい」と一刀両断に言ってしまったことのある若者だった。
それは、彼にしてみれば、ふと「魔が差した」ような発言だったかもしれない。

だが、私はその時のシーンがそれ以降、
フラッシュバックし続けるという深い傷を受けた。
それは一ヶ月近く続いた。

なぜなら、保守層ねらいという彼に、
私はあの番組の一部始終を見たのか、と問わざるをえなかったからだ。
つまり、あの「のえルーム」のシーンを見たか、
と問わざるをえなかったからだ。

おまけに、彼はその前日、
ある自死したゲイの男性の葬儀に参列したばかりだった。
親御さんにもどう言っていいか判らなかったと言い、
寄せ書きにも何を書いていいか判らなかったと言った。
つまり、自死に寄り添う無力さをかみしめてもいたはずだった。

18日の会では、
「のえルーム」にカメラを入れることがどれほどの決意とか判断を超えた、
震えるような、それでもこの年間三万人が自死で消えていく日本で、
ふりしぼるような天命として、のえに訊き、自分に訊きして、
そして、ディレクターとも話しに話して、
至った選択だったということを私は伝えた。

前述の若者が保守層ねらいと言った時、
余りの疲れで同席しながら沈黙していたレズビアンの女性に、
今回の大阪行きでは、ゆっくり会って、
関係を回復することもできた。
なぜなら、彼女は「のえルーム」に通い続けてくれていたし、
にもかかわらず、その、保守層ねらいの発言の後に、
私が身をふりしぼって、それでも傲然と、
あの番組の全てを見たの、と彼に問うたときにも、
彼女は黙っていたからだ。
黙っていたことで、私は彼女との信頼関係が、
目前で崩れ去る思いになったからだ。

私達の関係はもろくも危うくも崩れやすい。

ましてや、性的マイノリティなら。
ましてや、自死遺族なら。

私はここをクロスさせることを、これからもいかなるときも、
怠らないようにしていきたいと願っている。

おそらく、それは同じくらい、この日本社会で、
まだまだタブー視される存在だからだ。
そして、実はどちらも複雑に絡まりながら、
けっして別々のことではないからだ。

ばかにしないでよ!

これから、私にこう言われた人は、喜んでくださいね。
それは、あなたへの信頼の証しなんですから。
信頼への第一歩の証しなんですから。

それにしても、昨日出した、のえの命日を前にした、
私のSOSのメッセージに、
いまだ3人しか応えてくれていないのはどうしてかな。
これからなにか、とっておきの大切な何かでも始まるのかな。

いいや。いいや。

何度でも、いざとなったら、心から丁寧に言ってやるさ。

自死のこと、タブーにすんなよな。
ばかにすんなよな。

それでも、あなたの周りで自死が存在したら、
やっぱり飛んでいくんだろうなって。

ところで、最初に書いたレズビアンの女性との話が一段落してから、
私は疲れて首をテーブルにもたせかけて目をつぶっていた。

あれあれ、と他の人たちがなった感じだった。

それまで私と真剣に向き合っていた彼女は、
…こわれてしまった…
と私のことを言った。

どきっとした。
この人は、本当に「こわれる」という事がどういうことか
知っているのかな。

眠たくて目をつぶってるだけ、と言ってから、
私はやっぱりなという思いで、付け加えた。
…こわれるってのはね。こんなものじゃあないのよ。
いろんな人に起きるけど、簡単に言わない方がいい。…

伝わったかな。
その意味だけでなく、
昨晩の会話のすべてが。

だって、話した後の私が「こわれた」ように映ったなら、
彼女は、もしかしてどこかが「こわれる」ような体験をして、
それを投影して、私にそう言ったかもしれないからだ。

それでもいい。
それが始まりだと、思える自分がいる限り。

彼女がどんなにしても、そこにいてくれようとしている限り。

ケイコ

追伸 コメント欄に思いがけず、貴重な書き込みが続きました。
    是非、コメント欄も続けてご覧になることをおすすめします。
    思索が直接的、本質的に深まることをお約束したいくらいです。10月6日 
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| 自死へのタブーを見抜く | 02:37 | comments:7 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

正確には、9月30日深夜、上記の日記を書きました。
翌朝、自分でほめて、自分で拍手なんて初めて、それからコメント書いて、期待しないことにして。

そうしなければ、持たないほどのテーマだったからです。

ところが、次々と続投。このテーマが実は驚くほど語られる必要がありながら語られていないことを示す内容が続くことに、ある種の使命感とも言うべきものを感じました。

ちょめ助さん、いつも真摯な姿勢に打たれます。年齢じゃあないよね。伝わる人には伝わるんだな。でも、無理はしないでね。違うって思ったら言ってね。

けろたんさん。「反応」と言えるかどうか判らない沈黙、いやというほど判ります。のえの大切だったはずの何人かの友人に、何度も何度も繰り返し連絡しても、最近はなかなか返事がもらえないことを不思議に思っています。そんな人が、のえの弟に「ケイコサンになんて言ったらいいか判らない」なんて言ってるって聞いたり。私はごく普通に話しかけてるのにね。携帯やらに。

ゆーいちさん。勇気ある書き込み、ありがとう。時間をゆっくりかけて、丁寧に自分たちの思いを大切にしながら「タブーにしっぱなし」にしないことって、大変かもしれないけれど、実は、時が満ちれば、本当は話したいことがいっぱいあって、話し出したら、すごい発見や気づきがあったりするものです。どんなにか、多くのひそかに自死に寄り添う人達が、そんな思いを閉ざしてきたか、閉ざしているかを、かみしめ続けています。

SAYAさん。貴重な証言のようなコメントありがとう。どんなに数知れない、「沈黙の中に葬り去られた生と死」があることかと、ため息が出ます。せめて、お父様の沈黙の中にあったものに、思いをはせられればと切ないほどに祈るばかりです。

| ケイコ | 2011/10/04 02:19 | URL |

日記を拝読してから、コメントを書いては消し、書いては消し。
私の父は自死遺児です。
会ったこともない自死した祖父について語ることはできない、私にはその資格がない、と思います。
ただ、自死遺族であることは「誰にも言ってはいけないこと」として生きてきました。
それがムラ社会の空気です。
宗教的なタブーではなく、「村八分」になることを恐れた遺族の選択でした。

父が生きている間に、誰かが「話してもいいんだよ」と言ってくれたら、父は祖父を沈黙の中に葬ることがなかったかもしれません。

| saya | 2011/10/03 14:23 | URL | ≫ EDIT

ツイッターにて彼氏が自死遺族であると相談した者です。

まだ、年単位であってもあまりにも日が浅すぎるので、敢えて「その話」になると彼自身のメンタル状態が閉ざされてしまう、また余計に追い込んでしまうので、まだ、面と向かって話せる時期ではないですが…

そりゃ、彼のご両親にいつかは挨拶に行きたい=当然墓参りになるので避けて通れませんが…


僕にできることは、生傷に辛子味噌を塗るのではなく、かさぶたができるのをじっと待つことかな、と思い至りました。

かさぶたがとれたら、「タブーにしっぱなしにせず」向き合いたいと思います。

参考になる話、ありがとうございました。

| ゆーいち | 2011/10/03 01:31 | URL | ≫ EDIT

1週間後に「自死」した友人の偲ぶ会を行います。会を行うという宣言・告知は、いろんな反応を関係者に呼び起こしました。一切の返信や音沙汰がない、という「反応」もまたあります。それは「行けません」「行きません」という反応とは違います。ほんとのところ、「反応」と言える沈黙なのかはわかりません。行う方としては、明らかな意思表示をしてくれた人のほうがやはりありがたいです。返信しない、できない様々な事情があるにせよ。

| けろたん | 2011/10/02 00:10 | URL |

沈黙と言葉のあいだで

沈黙がコミュニケーションになっている時は伝わるんだよ。
沈黙がコミュニケーションの放棄になっている時は、
その相手を不安に陥らせたり、無視の包囲網にでも入ったように、
感じさせるんだよ。簡単に言えば、シカト。
悪意がなくとも、それは思わぬ「悪意」になる。

本当の理解に至った時、
あるいは、言葉にならないほどの衝撃の渦中で、
私はほとんど言葉が要らなくなる時があることも知っている。
というより、言葉が無力になる瞬間のことも。

でもね、その逆にね。
そういう沈黙に耐えられない人ほど、
いざという時は、そう今こそ一言でも口にすべき時に、黙っていたりするんだ。

ここは黙っているのがサイレンスイズゴールデンという時に、
その豊かな沈黙に気づかずに耐えられない人や時があることを、
私も幾つも体験してきた。

詩を朗読した後、ゆったり皆が余韻をかみしめている時に、
急いで解釈しようとしたり、判ったふりをしようとしたり、ね。
それは、場を台無しにするんだよね。

沈黙が言葉の一部だということを知っているから、
私は沈黙と共に、言葉を発することも大切にしたいと思っている。

在日ブラジル人の現実の中での沈黙は、
ほとんど全ての状況を把握しているのに、
日本語としては黙ってしかいられないから、
「子ども」だと見なされて、現場で一人前扱いされない。
そんなふうに作用する。

その事に少しでも力になりたいから、
私は日本語を教えてきた。

非言語コミュニケーションを徹底的に知った時、
逆に言葉の過不足ない大切さも浮かび上がる。

私はコミュニケーションの放棄という名のコミュニケーションは、
沈黙であれ、言葉を使ったものであれ、
できたら避けたいと思って生きている。
私だって、知らない間にそうしている事ももちろんあるかもしれないけどね。

その一方で、自分自身、黙っていることのおもみを、
ひしとかみしめていることも多い。

なかなかそうは思ってもらえないことも多いけれど。
特に、福井ではね。
そんなこと、本当は言いたくはなイんだけれど。

今日は夕方4時間も寝入った。
昨夜はものすごく疲れたのかも。
まっ、それ以前からのこともあるけどね。

今書いたことは、
自死のテーマだけに限らず、
言葉と沈黙のあいだで、
人がどうかかわって生き延びていくか、
つながっていくか、
ということだと思うよ。

「いみきらわれる」マイノリティにとっても、
また避けて通れないこととしてもあると、
そう思うんだ。

| ケイコ | 2011/10/01 23:48 | URL |

考えてゆきます

言葉にすることで人を傷つけるかもと思って沈黙を返すと、
それがかえって人を傷つける。
沈黙のとらえ方はたくさんあるけれど、
沈黙もコミュニケーションの一部だという見方にしても、
沈黙がコミュニケーションの放棄だという見方にしても、
どちらにせよ沈黙は言葉と同じくらい、もしかしたらそれより重い意味をもってしまう。
自死に、自死遺族に寄り添うこと。
そしてそのタブー視。
これからも考えてゆきます。

| ちょめ助 | 2011/10/01 22:50 | URL | ≫ EDIT

自分でほめる。このテーマをよく始めたよねって。
深夜に書き上げ、床についてからも気になって二ヶ所ほど推敲した。
10月という月が始まってしまった今日、私にはこれは欠かせない作業だった。
翌昼過ぎ、誰のコメントも拍手もないから、自分でコメントひとつ。拍手ひとつ。
このテーマは、自分を三人くらいにしてやんないと、もたないからかも。
ということで。誰かの続投を望みながら。でも、望めなくともいいぞってなもんで。

| ケイコ | 2011/10/01 12:54 | URL |















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