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極限状況の中での真実を伝えるおもさを、とことん教えたヒバクシャたちの声

昨日見た、NHK総合の、正確には、明けて7日の深夜零時から2時までの番組。
『ヒバクシャからの手紙…朗読で伝える66年間の苦悩・東北の被災者へ』。

極限状況を生きて生きて、そして何十年もの月日を経ても、
なお言うことのかなわなかった言葉を口に出す、
ようやくのこと人に伝えるということのおもさ。
その、深々として痛切な真実を伝えることの、手に余るほどの意味の大きさよ。

実を言うと、私は昨日のこの番組で得た衝撃を、
本当のところは消化しきれていないのではないか、とどこかで思いもする。

そして、誤解を恐れずに言ってしまおう。

この番組を見た後、やがて眠りについたが、たった一時間で、
この番組の衝撃の深さに心のドアをノックされるように目覚めて、
明け方の一時間半、さまよいつづけた私の思索の一端を、
きっと、ひとかけら以上の戸惑いは見せられることは承知の上で、
吐き出してしまうことを、このブログの読者には了解してほしい。

というわけで、話は突然変わる。

ある雑誌で、そう自殺を特集した『ビッグイッシュー日本版2007年2月15日号』で、
こんな一節にたちどまり、なるほどと深く深く納得した覚えがある。

身近な者を自死で亡くすという体験は、
その心的なストレスのはかりしれなさにおいて、
強制収容所体験に匹敵するような体験となる…という一節。
(脚注 正確に引用する。16頁から17頁にかけて。
…自殺は、他の原因による死とは明らかに異なる。
精神医学では、愛する者を自殺によって失った場合にこうむるストレスは、
「破滅的レベルに達する」(強制収容所暮らしを経験するのに匹敵する)
との報告さえある。……)


ここまで、書いただけでも、自死を巡るタブーと偏見に包囲されて、
ありとあらゆる罵詈雑言を言いたてられそうな気すらする。

おい、お前。原爆という、人類にとって未曽有で悲壮な体験、
それも犠牲となった体験と、
自ら死を選んだ、「あつかましい」自死者を並べて語るなんていうのは、
原爆の犠牲者にとって、どれほど失礼なことか判っているのか。
愚の骨頂じゃあないか。

それに、この原爆体験と、今や連なる東日本大震災で、
津波や地震や、
それこそ今も恐るべき現状の原発の放射能で、
亡くなったり、けがをしたり、避難生活を余儀なくされたり、
大切な身内を亡くしたりした人々と、
「汚れおおき」自死者を同列に語るなんて、なんと不届き者か。

そんな声すら聞こえてきそうな気がするからだ。
そう、実際、私は、身内や友人を自死で亡くして、
大変な差別を受けたり、タブー視される扱いを受けた人たちのことを、
幾らかは知っているから。
自分でも、幾らか以上は経験しているから。

絶対的で美しい犠牲者とは並べるな、というしたり顔の、
恐ろしいほどの誤解に基づく声すら聞こえてくるような気がするからだ。

しかしながら。

しかしながら、原発も震災も原爆もぶっとばして、
私が書物で読んだ「強制収容所体験」の意味、
そんな極限状況でも自身を見失わず、内なる意識を持って、物事を記憶し、
のちのち、アウシュビッツなどの体験の真実を語る人たちから学んだことの大きさを、
私は、今朝、眠れない中、ふと思い出していた。

私は正統派とも言うべきフランクルより、
イタリア人作家のプリーモ・レービィの
『アウシュビッツは終わらない…あるイタリア人生存者の考察』(朝日選書)
が肌に合うようだった。
そんなに簡単に頁をくるわけにはいかないから、
一回、しっかりと読んで以来、二度と開いてはいないけれど。

そして、レービィの他の書物『今でなければ、いつ』
…これはパルチザンの信じられないほどの死闘を描いた作品だけれど…とか、
『周期律…元素追想』…これは読破していないけれど、
失われたユダヤ人たちの伝統と思い出を、
各章ごとに、各元素の性質に託して描いた、科学者でもあるレービィらしい、
一種独特で精緻な物語でもある…なんかを、むしろ大切に思ってもいるのだが。

それから、ウィリアム・スタイロンの原作本をあとから買って読んではいないけれど、
映画にもなった『ソフィの選択』のソフィのユダヤ人強制収容所での体験。

やや、話が混線しているな。

強制収容所とは、どんなふうにも逃げ場のない、
人間性の全てをはく奪された場で、生と死の境目を常に生きる、
という意識も全く無くしたまま、ただ生きるというような体験であり、
本を書き残した人間なんて、
実際の犠牲者数に比べたら、ほんのほんの微々たるもので、
しかも本を書けるような「明白な意識」を、その場で持っていた、
ないしは、そのような記憶を携えていたということにおいて、
奇跡的とも言えるような人間の営為として
刻まれて然るべきものだということくらいは、
私も読後の感覚として克明に刻んでいる。

思考や感覚が、境目なくさまようなあ。
どうしちゃったんだろう。
でも、これは私にはとても必然的なことなんだ。
さまよっている訳ではない。

昨日のヒバクシャたちの66年をへた記憶の鮮明さがもたらした、
避けようのない思索の変遷とでも言ったらいいのかな。

どうにもならないから戻るよ。
ヒバクシャの昨夜の手紙の衝撃に。

ぐるぐるその内容が私の頭の中を巡り、生と死の境目を語り、
ぽつんと一点の真実として、居すわった声として、
動かしがたい真実としてある、一人一人の声の只中に。

今日、早朝、眠れない私の中でぐるぐる回っていたのは、
当時四歳だったある人の記憶だった。

四歳だよ。四歳。
彼は、ある年上の子どもと歩いていたのだ。その時。

強烈な光。信じられない衝撃。突然の暗闇。

手を引かれて逃げ帰る途中、その四歳だった人は、
年上の大切なお兄ちゃんのような友達が、
大きな声で泣きつづけることが不思議だった。

なんで、自分より大きいお兄ちゃんのはずの彼が泣くんだろうと。
どうして?
どうして?

二人は、それぞれの家に向かう角で別れる。
そして、それっきり会うことはなかった。

やがて、大きくなっていくにつれて、彼は知る。
あの年上の子が、首にひどい火傷を負っていたということを。
やがて、別の遠い所に引っ越していったということを。

そして、四歳だった子は、やがて思いいたる。
大きかった彼が作ってくれた影のせいで、
自分が助かったのではないかということに。
彼の火傷のせいで、自分が助かったのではないかということに。

66年間、彼は叫び続ける。
その年上の友の名を呼び続ける。
会いたいよ。
会って話したいよ。
生きているなら、生きているなら、と。

もっともっと沢山の手紙が読まれた。

十代の二十代の、それぞれの原爆体験が、すさまじくリアルに、
今まで聞いたこともないほどの残酷な事実を、
静かに静かに、
時には恐ろしいほど冷徹にさめた、言葉づかいですら語られていく。

それは、きっと66年間という歳月がもたらした、
「記憶」というものへの、
人間が必要最大限持てる礼節のようなものを、
示していたようにさえ思われるのは、
今の私だからこそなのだろうか。

心身の極限状況の中で、次々と社会から受ける差別すらも、
手紙は淡々と語り続ける。

被曝したその日から数日間の、身に迫る変化、
身内の傷のなまなましい酷さ、
そんなものも具体的にありのままに語られる。

四歳の子が…ああ、またもや四歳だ…息を引き取る時、
「お母ちゃん、飛行機、怖いねえ。お水おいしいねえ」と
あどけなく言った言葉も綴られる。

亡くなった父親を火葬しようとして、燃やす木が足りずうまくできず、
怖くなって逃げ帰ってきた罪悪感をキョウダイと共に分け持ち、
別のところにいた母親に、けっしてその事実を言えなかった事も語られる。

犠牲者なのに、別の犠牲者を救えなかったという罪悪感に、
長い事苦しんだ事実も、数限りなく語られる。

そして、生きていくことの余りの無残さの中で、
鉄道に飛び込んだ、血だらけの妹を抱きしめた時の事が語られ、
それでも、何年も何十年もへて、
生きてきてよかったという思いが綴られる。

まるで、その全てが、地獄絵の中で、
救いを求め、水を求める、ありとあらゆるしぐさのように、
やがては、ありとあらゆる救いを求めるの手のようになって
私にはだんだんと響き渡るように、
聞こえてくる不思議な感慨。

これらの言葉たちは、66年間の歳月をかけて、
それぞれの魂に封じ込められ、悔いとなってとどまりながらも、
出口を求めつつ求められなかった、
そんな声ばかりであったような気もする。

だから、たとえ最年少の四歳だった人すら、
すでに間違いなく七十代という年齢をもちこたえて、
生きてきている声だ。

生きて生きて、人生の苦楽をくぐりぬけても、
消え去ることのなかった、人間の記憶というものを、
ずしんと担った声だ。

私はそこから、多くの気づきを得た。

そうだ。私もどんなに嫌がられようと、真実を書く。

どんなにタブー視されようと、
どんなに臭いものにはふた式に、
見たがらない、触れたがらない人々に囲まれていても、
本当のことを言う。

私が知り得た、震災のような、
原爆とまでは言えないかもしれないけれど、
ある意味、極限と言っていいい体験が意味することの深みへと、
潜って潜って、潜水する水夫のように潜って、
その水圧のおもみにも耐えて、
そうして、自死した者たちの、ある種、共通する傷みの底へと、
到達できるものならしたいと願う。

なぜなら、彼らは、この日本の、この世界の、
言いかえれば、私たちが作ったこの社会が許した、
「見えない戦争」の犠牲者である側面をも担っていることに、
なんら変わりはないのだから。

どんな水圧にも耐えて、
私は真実を探す。
のえの、
のえに連なる人の、
そうして、原爆の、原発の、
震災の、津波の、
強制収容所の、
ありとあらゆる人智をしのぐ試練の、
只中にあっても、
けっして希望を失わない人間の真実を探す。

昨日の番組の最後の手紙の一節。

「人間は二度死ぬと言われています。一度目は本当の死。
二度目は、人々の記憶から無くなった時。
だから、私はお母さんの記憶を唯一人持つ者として生きて、
生きられる限り、生きていこうと思います。」

私もまた、
のえの記憶を記憶として、それを共に刻める人々と共に、
一冊の本を、少しずつ我が手から、
人々のもとへと返す試みの只中にある。

2011年8月7日午後10時   ケイコ
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| のえと共に | 23:35 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

けろたんさんのコメントに、どう応えたらいいのか、少し戸惑いがあったのは事実です。
すさまじい生きがたさのあらわれ、とか、人間性をそぎ落とし続けている戦場、とか、まさになんですよね。
でも、私としては、思索の過程が、ここでは重要でした。
それぞれのの生きがたさと、その世界をどう洞察するか、ということ。それを心の、頭脳の中の表現として、作業としてなぞってみたのです。
とりあえず、そういう私にとって、自死は動かしがたく自死なのです。 
ひとつひとつの思考の過程を手放すことなく、丁寧にしていきたいというのが、今の私です。

| ケイコ | 2011/08/16 11:50 | URL |

 50歳で亡くなった殿敷さんは3歳で爆心地に入った。投下後、母の背中におぶわれて。
 震災前の「平和」と思われていた日本で、次々と若くして亡くなっていく友。それが自死であれ、病死であれ、私には
日本社会のすさまじい生きがたさのあらわれとして心に刻まれている。サバイバル・・・日本社会は人間性をそぎ落とし続けている戦場だという意識は、子どものときから持っていた。生き残ってしまった自分は、親友の偲ぶ場を作ろうとしている。

| けろたん | 2011/08/08 22:25 | URL |















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