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家族という鏡…『心のおもむくままに』と『胡桃の部屋』、そして。

昨日一日で、スザンナ・タマーロの『心のおもむくままに』を一気に読んだ。
10年以上前に、本屋にずらっと並んでいた時には、例によって、食わず嫌い。
ヒット作というのは、よっぽどの事でもない限り、
避けて通りたがるというアマノジャクの習性は、一生なおりそうもない。

ところが、数年ぶりに行った図書館で、この本を紹介する宮迫千鶴の、
妙に心にとまる文章を読んでしまってから、
再び行った図書館で見つけたこの本。やっぱり借りてきてしまった。

この図書館、実は隣の鯖江市の図書館。
地元の図書館は、なんか、お堅い雰囲気もいやだし、
何かと規則が多くて、まず行かない。
だいいち、鯖江図書館のほうは、希望の図書も、必要だと判ればすぐ購入してくれるし、
そこに置いていなくとも、
近隣の図書館すべてから探してくれるシステムも滞りなく機能している。

売れてる本を売れてる時に買うのはシャクなんだよね。
で、『Nobody Nowhere…邦題、自閉症だった私へ』も、長い事読みそびれ、
のえに薦める暇もなく、あの子は消えてしまった。
ただし、このテーマの本を遠ざけていた理由は、
私の内部に深く根をおろしている課題だからこそで、
上述の本やらと同列に扱うのには、かなり無理があるのだけれど。

『心のおもむくままに』を読もうという、つよい動機になったのは、
祖母が孫娘に自らの人生を語るという設定を飛び越えて、
その前提として、その二人にとっての娘、そして母に当る存在が、
車で激突するという形で自殺しているという背景が、
心にひっかかったからというのが、正直言って、私には大きかった。

そして、この一冊を読破した後に、
夜、向田邦子没後30年特集という
NHKのドラマ『胡桃の部屋』の二回目の放送を、先週に続けて見た。

洋の東西を問わず、二つの物語に共通しているのは、
父親が父親でいられた時代、母親が母親でいられた時代、という感は拭えない。
家族の形が形として、かっちりとあるからこそ、
それが見事に崩れさっていくとき、
あるいは、その奥の真実が、人生の残酷な相貌をもって姿を現す時、
物語は物語として語られ、
家族を構成していたと思っていた一人一人の心の奥にある闇が、
いよいよ色濃く浮かび上がってくるような気がする。

そうだよなあ。懐かしいなあ。
父親が父親であった頃なんて。母親が母親であった頃なんて。ノスタルジーだよ。
冗談じゃあないよ。
それぞれが、嘘でもなんでも、ちゃあんとその役割を演じていられたなんて。

それにしても、待てよ。
私の父も母も、そんなの全く見事に演じたりできなかったものね。
形というものが、どんなに無残きわまりなく、人を苦しめるものか、
私に余りにも反面教師的に突きつけてくれたものは大きくて深すぎたものだったよなあ。

だって、イタリアのかなり前の時代の祖母の語る家族も、
向田邦子のほとんど自伝的作品であろうと言われるドラマが描かれている、
1980年代の日本の家族も、
なかなかほころびを見せようとはしない中で、実は…という展開で、
ほころびもヒビも、亀裂も、葛藤も、もうどんどん見せてしまうところに、
面白さがあると言ったらいいのかもしれない、そんな気がするからだ。

私が子どもをやっていた時代の、私の家族なんて、
もともとほころび、亀裂、葛藤、矛盾、無理解、で満ち満ちていたようにも思えるから。
父と母の間には、互いに尊敬の念も、信頼も、最低限でもあったように思えないから。

でもね。これは、あくまでも私という子どもの目からなんだろう。
それから、二人姉妹の姉も、全くもって私以上に両親を軽蔑していたから、
まあ、二人の娘共通の感覚なのかなあ。
ただ、姉は、そのまなざしとは別に、親とはかなり優等生的につきあったから、
私としては顔向けできない部分と、それとは相反する思いとが錯綜しているのは間違いないけれど。

イタリアの小説の中身に戻す。

『心のおもむくままに』の祖母は、
「死んだ者に心を残すのは、言い残したことがあるからだ」といった思いを軸に、
この小説を語り続ける。
そう、自殺した娘に言い残したことが、
その娘である孫娘にも、言い残したことになることを、
もう二度と避けまいとして、この長い手紙を書きつづる。

婚姻外で生まれた子の事を、英語圏ではラブチャイルドと揶揄することを知ったのは、
1992年に福井県の郡部で「未婚で子どもを産んだために」
現場から配置転換された幼稚園の先生に連なって、
本人に会ったり、全国からの抗議との間で、心を砕いていたときのことだった。

ラブチャイルド。いい言葉だよね。
みんな本当はそのほうがいいくらいの言葉なのにね。
私ははっきりと皆の前でそう口に出したことがあったくらいだ。

だけど、スザンナ・タマーロの書く祖母の手紙の時代には、
ラブチャイルドは、
むしろ、婚姻制度の内部にすら封じ込められていたと言ったほうがいいのだろう。
いや、その時代だけではないかもしれない。
今だって、そんなこと、福井でも、あるいは都会でも、脈々と起きているのかもしれない。
立派な後継ぎだと思われている子が、
実は、父親とは別の血を引いていたりするなんてことは、
あの馬鹿な戸籍制度の中には、全くもって浮かび上がってなんかこないことだったりするのだ。

かたや、向田邦子ドラマでは。
幸せで非の打ちどころのない家族を突然おそった父親の失踪。
会社で重要なポストを奪われ、拠りどころをなくした父親は、
けっして家族に泣き言を言うことなく、姿を消して死に場所を求めてさまよう。

それに吸いつけられるように気付き、彼を救って、
自分の部屋に住まわせた、小さなおでん屋を営む女が、
訪ねてきた、この父親を信頼する会社の元部下に言うせりふが、私の心から離れない。

「なによ。ひと一人、死ぬほどまで追いつめておいて、何が家族よ!」

と同時に、失踪された家族の側にいる妻が言う、次のセリフもまた、私の心から離れない。

「悪いのはお父さんよ。でも、一番悪い人が、一番つらいのよ。」

形だけでも、完璧であろうとする「家族」が持つひずみが、
日本の80年代のドラマでは、
父親の死に向かうほどの心のひずみに端を発して描かれている。

一方、おそらく、もう少し前の時代を生きるイタリアの祖母は、
隠し通した自らの「罪」が、
その思わぬひび割れとして娘の命を奪った事実に傷みながら、
その「罪」の真実を澄んだ目で見きわめようとする、孤独な作業を通して、
自らの内部の復権のみならず、孫娘に真実を語りつつ、
「心のおもむくままに」自らの声に耳傾けよ、と言い残す手紙となって、
人間が持つ本来の輝きへと、死にゆっくりと向かう者の内省となって結ばれる。

えっと、私は『胡桃の部屋』のストーリーは知らないのよね。
多分、これから、この家族は、ばらばらになっていくんだろうなあ。
簡単に再生なんてありえないよなあ。
あってはならないよなあ、なんて思ってしまうんだけど。

だって、じゃなきゃ、あのおでん屋の女が、見抜いている真実は、どうなるってこと??

そして、コトは我が足元へと戻っていく。
LGBTの作った家族として、あるいはレズビアンマザーとして、
35年のパートナーシップを「誇る」我らがベロ亭とは??

そりゃあ、なんの保証もないよ。
父親らしい存在も、母親らしい存在もないよ。
ただ、私たちは人間であり、二人とも女だよ。とことん女だよ。
女同士だから持てる輝きを持つ女だよ。
男社会で反目させられる女同士から、限りなく遠く離れたところでのね。

LGBTの視聴者が当然多かった、『ハートをつなごう』のあの番組で、
視聴者の多くは、何の保証もなく、何のモデルもないところで、
私たちが模索した、「どこにもない家族の形」のほんの一端には触れえたことだろう。

『人間対人間の姿を見た』と、朝日新聞の東京版に書いたのは、四十代の主婦だったっけな。

にもかかわらず。

だからこそ、と言うべきか。

みんな、自分の親子観や家族観を投影して、
我がベロ亭という家族に対して、
とんでもない混戦を起こすことの、なんと多いことだろう。

おーい、やめてくれよ。自分の家族のこと、ちゃんとに見据えて、
逃げ隠れせず見抜いて、ちゃんとに向き合ってから、私たちのことも見てくれよ。

じゃなければ、いやな家族なんて捨てちまって、
自分の作りたい家族を、たとえパートナーと二人でも、
あるいは一人でも、作ってみて、
それから、じっくり自分にとっての「家族」を考えろよ。

季節は、夏休みまっさいちゅう。
ヒデコは、孫の二人が、一切、ベロ亭に訪れる気配すらないことを、心から嘆く。
もう、ほっとけや、と悪口雑音言い連ねたあげく、
私は朝起きて、少し我に返って、その母親の一人に、つまり私たちの娘に、メールを出す。

のえのこと、ちゃあんとに書きたいんだよ。私は。
そのためには、この家族も、澄んだ目で、自分たち一人一人を見つめる、
成熟への一歩一歩が不可避なんだよ。
だから、私は数カ月前の怒りの意味に立ち返って、深く思いを巡らしてみる。

でなければ、のえのこと、書けやしないんだよ。
それは、朱鷺(とき)に餌付け(えづけ)するくらい、
デリカシー総動員の、微妙で、いとしくて、
やりきれないほど、気の遠くなる、そんな思いを鞘(さや)におさめて、
淡々と胸に聞く作業でなければならないんだよ。


夏まっさかりの田園風景からは、虫のうるさい程の鳴き声がする。
そう、「八日目の蝉」もがんがん、じーじー、最後の唄を唄っている。
これでもかあ、これでもかあ。
俺らが鳴いている声が聞こえんのかあ。

「のえルーム」をやっていた時、
ある人がこんな別の人の声を届けたことがある。

のえさんのために集まる、
それを、のえさんが亡くなる前にしなければいけなかったんだ。

その別の人が、「のえルーム」を批判しているとか、批難しているとか、
そう聞いた訳ではないけれど、
「のえルーム」は「のえルーム」で意味が、どおんとあるんだよ、という思いは、
以来、私の中で、一瞬も揺らぐことなく続いているというのも事実だ。

大切な娘ひとり、自死で亡くして、
なにが「家族」だよー!!
どうして、NHKの取材なんか受けられるのさ。
(どうして、あんな『珠玉のドキュメント』なんかにおさまっていられるのさ。)

あの日々。
2009年の東京のプライドフェスティバルで、私のメッセージが、
朗読されるべきかどうか迷っていた時、
私の最も奥深くで流れていた基調低音。

私は、ディレクターに、ぎりぎりまで悩む時間がほしいと依頼した。
彼は、私がノーと言った時のために他のことを用意し始めていたとも聞く。

でも。

やっぱり、私はイエス、を出した。

あのメッセージの文面の、
「二人の母親がいて本当に良かったと思っているよ」の、
その文句そのものが、のえの、
私たち二人の30周年に贈る言葉そのものであったこともあるし、
のえが大切にしていたフランクルの
『それでも、私は人生にイエスと言う』がどこかで私の肩を押したかもしれない。

でも、何よりも、
私は、ここで「人生に敗北」なんて、ごめんだったんだ。
どんなタブーも、ものともせず、私は、のえの人生丸ごと、
イエスという決意を、その時、はっきりとすることにしたのだ。
何も隠さず、何も否定せず、何もおおうことなく。

ある人が、L特化ブログを続けるある人が、
「家族」とは、どんな家族だって秘密を持ち続けるものだと、
そう書いたことがある。
私は、その時、確信を持って、『違う』って思った。

誰だって、プライバシーとか、心の部屋とか、という類の、
その人しか知らなくていい、ある事実を、心の重心に持つことは否定しない。

でも、「秘密」は違う。
逃げ隠れしたり、嘘をついたり、そういう類の「秘密」は違う。

そこが、おそらく、「ベロ亭」が「ベロ亭」であるゆえんである、
そのことだけを、今日のところは明らかにすることで、
この、またまた長くなったブログを終えることにしようかな。

親子間で知らなくともいいことは勿論たくさんある。
それは、プライバシーの領域に属することでもあるからだ。

ただ、「秘密」とでも言うべきものが、次世代に禍根を残したり、
世代間の偏見や差別を助長するとしたら、それは違うと思う。

そういう意味では、
どんな人生だって、風通しが良ければ良いほど、気持ち良く、
脳細胞も冴えわたり、体も心地よく動き、
人と人とのつながりも、弱さも含めて、
思想信条なんか踏みこえて、澄み渡り、熟成していくはずだと思うからだ。

邦子さん、スザンナさん。ありがとね。
さあ、そろそろ、のえの原稿書きに戻らなくっちゃあ。

ケイコ
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