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グッバイ「福井ルール」

昨夜の晩飯時、なんやかんやで、いい感じでヒデコと話していた。
途中から、ここ福井県で、また、この越前市、すなわちタケフでの、
「お礼」やらにまつわる話題となった。

ある人から、「福井ルール」とも「タフケルール」とも言える
物言いを伝えられたというのである。

ヒデコが長い時間をかけたやりとりを要約したものではあったが、
とにかく、何かをしてもらったら、
「ある程度の形をもったお礼をすべきだ」ということを、
その人の、「タケフルール」に添った常識として、ヒデコが理解し、
私に伝えたと思われる。
ある意味、ヒデコは「タケフルール」にあてられて、
まあ、そんなものかなあと、傾いていたふしはあったと思う。

私は昨日、いよいよ、のえのCDブックの刊行にかかわる作業として、
その前から続けていた、のえのブログの掲示板に引き続き、
「ノコサレシモノ新管理人の日記」のプリントアウトにいそしみ、
印刷されたものを、できるだけ読み返し、
これはなかなかいけてる文章だとか、貴重な記録になっているとか、
付箋をつけて、準備にかかっていた。

昨年の二月に出版社との間に話がついて、
私の百枚ほどの原稿書きを待つだけになって、
すでに一年と数カ月が過ぎていた。
出版社側には、私の例の重篤な副作用が思わぬ闘病生活を強いた折には、
副作用でもつれる指先をなんとかキーボードに向けて、
予定通りにはとてもいかないこと、
とにかく体調の回復を待つしかないことを伝えて、了解は得ていた。

二月末、昨年八月に放映予定だった私達の番組がついに全国放送。

その反響、それに伴う出会い、アクション、
思わぬ落胆、かけがえがない、と共に、
劇的ともいえる、人生の転換期のような日々が、
直後の震災、津波、原発事故とも重なりながら過ぎていき、
すでに四カ月が過ぎていた。

人との出会いに疲れ果て、やりとりに裏切られ、
というだけではなく、良いこともあるにはあった。

それこそ、一円にもならないとしても、
そのために覚悟し、決意して臨んだ、人生の賭けだった。

地元で、性的少数者の人々と出会えた。
そして、心の問題を抱える若者に出会えた。
深くそんな若者たちと関わろうとする、少しだけ年下の人との出会いもあった。
などなど…砂金探しは様々な角度で続いていた。

そんな中から、私達二人の力に心からなりたいという人が、
現れたことはラッキー、この上なく嬉しいことではあった。
陶芸祭りでも、二人きりの暮らしの中でも。
事実、私達はここでの田舎暮らしを、
とても乗り切れなくなってきていたからである。

しかしながら、この土地での出会いというものには、
いつも大きな不安がつきまとった。
いつ別れがやってくるかもしれない。
いつ、何の理由もなく、あるいはしかと大きな理由を持ち出されて、
パージされたり、ケツをまくるはめになったり。

様々な価値観の違い、人との距離の取り方の違い、
具体的には経済感覚の違い、
あるいは、違いには目をつぶって、
私達への「あこがれ」だけを拠り所とするのか、
はたまた、いわゆる形のある価値あるものを取るのか、
目には見えなくとも、かけがえがないつながりを、
実際にかけがえがないと感じ続けて大切にするのか。

言うまでもなく、いろいろあったけれど、
要するに、そこには、私達と「福井ルール」の乖離が大きく作用していた。

そして。

そして、逆説的な言い方にならざるをえないが、
ここでは何よりも、人と人とが表面的であれ「つながる」気があるとしたら、
言い換えれば、切れないでいられるようにするためにはどうするのか、
そのためには、してもらったことにどう対応するのか、
そういったことが、いつも問われていたような気もする。

ヒデコが、昨日話したある人から、
「関係を続けていきたいなら」といったたぐいの言葉を、
あたかも前提として言われたように私は感じてしまったけれど、
それは、実のところ長話を手短かに言ったにすぎないのだろうけれど、
実は、私はいてもたってもいられなくなって、突然、号泣していた。

「いろいろお願いするとしたら」
「関係を続けていきたいなら」

そこに凝縮されている思考、感覚、体験、感情、拒否感、
明らかに私自身のキャパシティを超えるやりとりを強いられるような実感、
その全てを今ここに明らかにするのは至難の技だろう。

目の前のヒデコとて、私の態度がなぜそんなふうに急変したのか、
想像もつかなかったというくらいだから、
私達、そして私の複雑怪奇にして、単純明快な世界を、
ご存じない方は、なんのことやら判らないことかもしれないからだ。

武生に来たての頃、最初は町に近いところに住んでいて、
隣人は友人だったのだが、
当時たくさんの有機卵だけは、
子ども五人を育てるために私達がとっていて、
その隣人に四個ゆずってほしいと言われて、四個ゆずってあげたことがあった。
そうしたら、四個と言われて、四個だけゆずってくれる人は非常識だと言われた。
四個ならせめて六個とか、まあ気前よく八個とか…と。

ここに並べて書くのが適切かは判らないけれど、
お香典は、近所なら同額返し、親戚、友人なら、
二倍、三倍返しが「タケフルール」と知ったのは、
わりに最近のことと言ってもいい。

あらためて、さかのぼるが、武生に来たばかりの頃は、
車の停め方がなっていないと、よく理由もなく注意されたこともあった。

そして、ここマキのアザに住むようになってからのこと。
夏祭りか何かで、このアザの番が来て踊りをしなくてはならないけれど、
「いやあ、私なんてへたやし…」というある女性の物言いを
真に受けた私達は、寸劇を書きあげてこれをやりませんか、と持ちかけた。
題は「浦島花子さん」だったかな。

ところが、別の近所の人に言わせれば、
踊りがへた、と言ったその女性は、めちゃくちゃ踊りが上手で、
本当はどれほど踊りたいかわからないくらいだ、と聞いてのけぞった。

いくら、関東育ちで、
お盆も仏壇も縁のない暮らしを小さい時からしてきた私達二人だって、
「謙譲の美徳」くらいは学んではいたつもりだった。
しかし。

しかし、この一件は、「謙譲の美徳」とは、
すなわち、上手なものも下手というというような、
「嘘つき」の美徳だということをもって、
「価値あるコミュニケーションの砂漠」にいきなり立たされたような、
私達にとって意味ある行為などこれっぽっちも入る余地のない
嘘のない人間的な人生との隔絶と拒否を知らされる
最初の小さくて大きい出来事となった。

こんなことは、ほんの始まりの始まり。
「福井ルール」でもなく、「タケフルール」でもなく、
「マキルール」とも言うべき、ここの集落での30年間を記したら、
貴重な文化人類学的とも民俗学的とも言える考察ができることだろう。
なにしろ、私達はここでは、異星人であり、
現実的には「ヨソモノ」の「女所帯」であり、
尊厳や誇りではなく、同情と憐れみをもってして、
ようやく生存を許可される存在となっていたからである。

93年まで、私達はフェミニズムとも言える活動を、
主に市外ではあったけれど、それすらきわめて困難なこの地で、
やむにやまれぬ事態の中で展開もしてきた。

最後の93年の取り組みは、鉛のように重くなっていた腰を上げた。
だって、地域の噂で「未婚で子どもを産んだ」というだけで、
配置転換になった郡部の幼稚園の先生のことが、
むろん人ごとではなく、そして何よりも彼女を死に追いやってはならない、
そんな使命感に突き動かされたからだった。
だって、たったこれきしの出来事を、当事者のプライバシーも洗いざらい、
読売新聞が全国記事の社会面でスクープするという始まりだったのである。

95年息子のカラが、神戸の六甲に住み、西宮の定時制高校一年のとき、
阪神大震災で被災、アパートは全壊だったけれど、なんとか命拾いをした。
カラは、「福井ルール」から放たれて、
ボランティアのテント村暮らしを数年続けた。

98年から2007年まで、私達は断続的にペルーに通い、
私は日本語学習支援を続け、ヒデコはやきものの村巡りをした。
これは、もうとてもいるにいられないと思って久しいこの地からの、
とりあえずの逃避行だった側面をわざわざ否定する気はない。

郡部の幼稚園の先生の配転事件のすさまじい取り組みの前にも、
ヒデコを中心にしてきた、
武生市の「農薬空中散布の反対運動」で、
私達は、この地に「民主主義」のひとかけらすら存在しない、
ということを思い知らされるという、
二度と取り戻せないような痛手を受けている。
「二度と」と思うのはこちらの問題だろうか。
否、見えてしまったことの果ての、いつわらざるをえない実感だった、
それだけは間違いないと言える。
少なくとも、当時からごく最近までは。

なんだか、活動だ、運動だ、といったたぐいのことに、
話題が偏ってきている。

しかしながら、そんな「市民運動」もどきの中ですら、
主婦層からセクハラ発言を浴びせられたり、
活動のたぐいとは全く別の本業であるやきものの界隈では、
女性ばかりの陶芸家の一群であったが、
すさまじいホモフォビアに遭遇したこともある。
きつぱりと交わしたが傷と不信は残った。

戻ってマキ町。
昔は私もずっと元気で、大工仕事の必要な高い場所は、
高所恐怖症のヒデコにかわって私がトタン屋根の釘を打ったりもした。
「ベロ亭さん大変やのう。」そう言われて楽しいとは言えなかった。
「楽しい」と言いかけた口をつぐみ、
「ええ、大変です。なんでも自分でしなくてはいけないからねえ。
大工さんに頼んでいたら、お金かかるし。うちは貧乏やし…」

もちろん、今だってどこをとっても貧乏。
車が三台あるのは何かの間違い。
一台は十万で買ったシロモノなんてなかなか信じてもらえないけれど、
今でこそ、そうこの年になって、
この田舎暮らしの、雪深い里での暮らしの大変さを、
還暦前と還暦をもう四年過ぎた身で、
日々かみしめるばかり。
私は去年から使い物にならないから、ヒデコにますます負担がかかり、
彼女の体はいよいよ疲弊し、その割には、カミングアウトもして、
見た目は元気にしているから、私達の実情は実のところは伝わっていない。

気軽に何かを頼める人も、ここ数年、ヒデコの粘り強い人付き合いで、
この地でもわずかながらできてきたけれど、
それでもなかなか難しいし、
ましてや、私達の価値観、人生観、生きる哲学、
そんなものを丸ごと生かせる関係性は、そう簡単には生まれてはこない。

その一方で、前述のある人は、
一心に私達のことを思いやりながら、
「福井ルール」の伝授においては、
貴重な知識や知恵や見聞をもたらすと共に、
その具体性においては、今でも私達をのけぞらせ、落胆させ、
吐き気を催させてもいるのである。

でも。

でも。
もう、お願いだから「福井ルール」は持ち出さないでほしい。
否、たとえ持ち出しても、それが当然とか、当たり前とか、
といった雰囲気で語らないでほしい。

あの番組を通して、
そう、あの番組作りという「大出血サービス」を通して、
私達は、従来の「お礼」とかに類する形のあるものを介さない、
人間関係作りに、30年目にして初めて着手し始めているのだから。

あの番組に引きつけられて私達に引き寄せられた人たちは、
少なくともこの地では、何かによって、
はじきとばされたり、疎外されたり、
落ちこぼれたり、奇妙に卓越しすぎていたり、
そういう人たちのはずなのだから。

そこに手を出さないでくれ。
そこに口をはさまないでくれ。
お願いだから。
頼むから。

私達の本物の砂金探しの手を止めさせないでくれ。

そりゃあ、いきなり、砂金じゃないかもしれない。
それは砂金になるには、まだまだ時間のかかる、
そりゃあ、「福井ルール」にまみれた、よじれによじれた
具体的な深い病や、はたまた、状況を本気で見たことのないまなざしと共に、
まだまだ閉ざされ、磨かれていない原石、
あるいは、ごつごつのとんでもないルールたちに
ぼろぼろに傷ついたシロモノだったりする。

でもね。
でも。
お願いだから、そこのところは触れないでくれ。
どうか。どうか。

そう、娘ののえの命さえ差し出して、
私達の心臓まるごと差し出して、
笑いと涙にまぎれて、こしらえた映像になった物語の中から飛び出してきた、
そんな源流なのだから。
その源流がどんなにさかまいても、
どんなに入り組んでいて、登ってみなくては判らない、
そんなルールやしきたりや因習にいまだまみれていたとしても。

もう、私達は退けないのだから。
退くところはないのだから。

号泣は続いた。
自分の涙で涙を洗い、汚れたものを浄化し、
かきまぜられて汚濁したものを昇華し、
それがやむまで、続いた。

こらえきれない号泣だったかもしれないけれど、
それは大いなる意味をもった行為だった。

私は、昨日の日中、
のえのCDブックの取り組みの後に、夕刻、ある本を開いてもいた。

陶芸祭りの時に東京から駆けつけてくれた若い人に、
なんの惜しげもなく伝えた、私の最も敬愛する詩人、
そう女性詩の最高峰と私が仰ぐ師とも言うべき、
永瀬清子さんの「短章集」全四冊をぱらぱらとめくっていたのである。

20年ぶりくらいのことだった。
だって、東京で私からこの本を紹介された彼女が、
電車の中で読んでいるというのだから。



ことばはくだかれて常に寒中の輝く放水を受けていなければならない。
ことばはくだかれて微塵になって、
常に光の中に生まれ変わらなければならない。
(自分のことばを   より)

悲哀を降らすな
悲哀は雪よりも早く汚くなる  
(悲哀  より)


船が蹴たてている

船が蹴たてている白い長い泡立ち
それは無窮の海と云うものの一番めざめている部分だ
私の中の苦しみが、
私をゆすりさますと同じに。
この時、船が海を裁ちすすむことを祝った。


20年前、私の試作を根元から支えた言葉たちが蘇る。
ここには、挙げなかった、ちょっととっておきたいある作品を、
私はヒデコに久々朗読しようと、内心きわめて穏やかに準備さえしていた。

その矢先の「福井ルール」談義。
福井では、お礼をどうするべきか談義。

実は、昨日、ヒデコが話した人と私はこんな会話をしたことがある

「ケイコさんにとって一番心地よい時ってどんなときなの」
実のところは、答える気もしなくてしばらく沈黙。
でも、自分の中でせりあがってくる言葉を私は抑えるのをやめた。

「東京の孤絶感とも言うべき、絶対的な個を強いられる孤独。
それはそれで青春時代を過ごしたから、よく知っていて、
だからこそ個人というものを確立できたんですけど、
それでもあの孤絶感はきわめて厳しいものです。

でも、一方で、福井ルールに従った、
それこそ吐き気のしそうなこの土地での習慣も、
私にはたまったものではありません。

そんな二つのものから解き放たれて、ただあるがままに、
自分が自分であれるとき、それが一番心地よいと言えますかねえ。」

後日、この私の回答をこの人が、「詩ねえ」と言っていると聞いた。
と同時に「詩とは彼女にとって何か」と私は思った。

私にとっては、詩すなわち批評でもあることを、
彼女は、はたして気づいているのだろうか。

永瀬清子さんもまた、抒情詩の流れの中で、思想をも詩に根付かせようとして、
それも生活の只中のあえぎの中ですら構築しようとして、
たたかいつづけた詩人であることを、私はあらためて思った。

そして、永瀬清子さんもまた、私のもっと前の前の時代に、
地元の「岡山ルール」に包囲されながらも、
自分を見失わないためのたたかいを、死ぬまでたたかいぬいた人であることを、
私は思っていた。

書く、行為に戻っていくとき、
のえへの思い、のえの生きた軌跡を刻もうとするとき、
それはどこまでも地球規模の、
グローバルな試みであると私は確信する。

そう、15歳で家を出るという、子ども5人の歩んだ道は、
日本では例外的かもしれないけれど、
全世界的には一体どうなのだろうという点でも…だ。



福井ルールよ、グッバイ!!
日本語の言葉のアヤよ、さようなら!!

私は戻る。とことん戻ります。
本当のことを伝えるための言葉を探索する旅に。

福井ルールを根底からばらばらに分解し、くつがえし、
その深層へともぐり、その真相をつきとめ、
私の発する日本語を、
コミュニケーションの担い手として蘇らす、そんな作業へと。

グッバイ 「福井ルール」。
あんたの存在、さっぱり忘れるよ。
そして、けっして忘れないよ。

 ケイコ 2011 7 1 深夜

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| ベロ亭から | 19:37 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

無窮の海のいちばん目覚めている部分…
そうありつづけることは、そこをはずさないことは、
もはや、それ以外にないよね、と立ち返っています。
海を裁ちすすむ…の「裁ち」の漢字の選択、
それひとつとっても、永瀬さんのことばの持つおもみが、
私をゆっくりと駆り立てなおしていくようです。

| ケイコ | 2011/07/03 15:48 | URL |

書きましたね!ひさびさ怒涛の波頭が見えます。直に話ししたいなあ。

| けろたん | 2011/07/03 01:34 | URL |















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