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断薬前後の日々……体の声を聞きだして、なるたけ淡々闘病記1

明日が、断薬から一年という日に、花への思いにかさねて、少し書いてみてからも早二週間くらいかな。

「副作用ラプソディ」もいよいよ「闘病記」の領域に入ろうとしています。
これはなかなか、書くほうも覚悟と意志と決意が要るものです。
でも、もう気づけば21日。時の流れにゆだねている訳にはいきません。
思い出せば、今でも涙が体中に震えが来るほどの悔しさと共に溢れるほどの体験。
それをこのブログに記すということ。

それは、二度と同じような経験をする人がいなくなることを願ってしかできない表現でもあります。

だから、読む人も、多少なりとも覚悟してくださいね。
でもね。このシリーズ、大枠は「副作用ラプソディ」、これからの中くらいの枠は、
そうですね、「体の声を聞きだして、なるたけ淡々闘病記」ということで、
少しずつ、時間と共におって行きたいと思います。
おっていける範囲だけになるかも。どこまで追っていけるか判らないかも。
でも、私が手放す訳にはいかない課題。

福島県の小学校の校庭で子どもが浴びてもいい放射線量が、
20ミリシーベルトに上げられたとき、
まるで、副作用が起きない範囲が上げられた時みたい、
と思いましたか、それと同じことをある精神科の医師が書いているのを発見しました。

その方は、なんとか漢方薬もおりまぜて、
向精神薬の罪作りな現実に一石を投じたいと奮闘している心療内科のある医師。
もしかしたら、そのうち、その先生と共同研究ができるかも。
お互い毒舌では負けないくらいのようだから、
こちらさえ、スタンスをはっきりもっていけば、可能かも。

でも、その前に、私は私の記録を綴りはじめなければ。
そのメモは、日本語教室の授業の記録がいつの間にか、
闘病記録となった2010年の大きめの手帳に記されています。
ぎっしりとその日の体調、眠りの記録、何をして何ができなかったか、
などが記されています。
断薬以降。そして、特に詳しくなっていったのは、
断薬直後の地獄の日々から少しだけ脱した、そう21日頃からだったのです。

5月9日に、番組のディレクターがベロ亭に来ました。
その日は、どうしても、ある程度の時間が来ると、体を立てて、座ったままでいることができず、
途中で横になりにいった記憶があります。
まさに始まっていた証し。副作用の現出の証し。

でも、あの4月の言い知れぬ焦燥感とか、あれこれ書き出せることも、
前述のU医師に伝えたところ、全て副作用と言われました。
私も、ある時点からそう確信するようになりました。
そして、つい最近、こういう専門の方からも後押しされたという訳です。

腎炎になったことは書きましたよね。それが意外に早く治ったのに、
クラスに復帰することすらできなかった、なぜか判らない弱りようの中、
5月19日、レスリンはとうとう100ミリグラム、つまり4錠に増量されました。
「どうせ寝ているんだったら、増やしてゆっくりしていたら…」

26日、陶芸祭直前の忙しい盛りだったのに、
背中のこわばりが取れない中、
福井市の評判のいい泌尿器科にセカンドオピニオンのつもりで、
腎炎をみてもらいに。
全快していて、背中のこわばりは関係がないとの診断。

6月2日。レスリン100ミリグラム続行。余りの眠気を訴え、
クラスのあるときは、75ミリでもいいという診断。
歩きにくさは日に日に増していくばかり。

陶芸祭に出向いていくのもやっと。これについてはすでに書いた。

2日と3日、中三の日系ブラジル人の女の子の授業をするが、とてつもない疲れ。
声もやっと出した感あり。社会科はヒデコに手伝ってもらう。

4日。夜。体中がこわばり、固まったような感じで、
どうにもならないつらさでシッテンバットウ。睡眠時75ミリに減らす。
翌5日も夜。同じように、体のこわばりで、シッテンバットウ。
ヒデコはそのたび、マッサージしたり、なでさすったり、ありとあらゆるケアを試みる。
この三日間は睡眠時75ミリ、昼25ミリとする。

7日。結局最後となったレスリン50ミリグラムを睡眠時に。
やめる訳にはいかないが、それ以上のめないと本能的に働くものあり。

8日。診察の折、上述のことなど、陶芸祭のときのこと、
買い物が途中までしか続けられないこと、
二日間シッテンバットウしたことなど、正確に淡々と全て語る。

先生、身を乗り出して、
「あなた、それは『薬剤パーキンソン』ですよ」と私の両肩を抱きかかえるようにして言う。
「じゃあ、今日は25ミリにして、明日からゼロ。いや、今日からゼロ。そう、そうしましょう。
一週間で抜けますから、1週間後に来て下さい」
診察室に入る時から、歩き方が変だと思ったと言われた。

後に、「薬剤パーキンソン」を検索などして然るべき文献などで調べていくと、
その症状が消えるのに、最低でも二ヶ月、場合によっては半年程度かかるとあった。

副作用と確定した日の帰り、10年以上前に亡くなった旧友の娘さん宅を訪ねた。
私はそこに置いてあった大きめの椅子にへばりついたまま、ほとんど動けなかった。
トイレに立つ時も、ようやくこわばった体を起き上がらせた。

途中で入ったレストランでは、ヒデコと、
「抗ウツ剤をやめた、素のままの自分がどんなものだったか、戻れるとしたらうれしいなあ。楽しみだ」と
その後の現実の厳しさ、残酷さを知らなかった私はきわめて前向きに語った。

明けて9日朝。それまでいつも眠気との戦いで、昼間から濃いコーヒーをのむようになっていた私は、
その日もコーヒーを朝というか昼兼用で飲んで、間もなく、
とてつもない動悸息切れに見舞われた。ソファに倒れこんだ。
これが、以後3ヶ月近く、私を悩ませつづけた動悸息切れの始まりとなった。

夕方、そのソファから立とうとして立てず、歩こうとして歩けず、
ヒデコ、心療内科の先生に電話。
事務の人、「点滴でもするといんいですけどねえ。」
ヒデコ、「先生と話せないんですか」
やがてヒデコは、行きつけの内科に点滴に行くように言う先生に、
「先生のほうから紹介状をファックスしてもらってください。そうでなければ、
説明しにくいじゃあないですか。」と通させる。

そうそう、この日は最初、歩きにくかったかした段階で電話したとき、
「水分をできるだけとってください」と事務の人に先生経由のことを言われたりもした。
上記のことは、その末で、実際歩けなくなったときに、訴えた末のことであった。

この日は閉院間際の行きつけの内科で点滴をしてもらう。
即席に近いもので、約20分か30分弱。少し眠れた覚えがある。

10日11日も点滴に通う。十分時間が取れるように早めに行く。約一時間ずつ。

眠りは、抗不安薬レキソタンで、ごくごく淡い眠りを何とか確保していたと思う。

10日夜、高山病のときにも経験したことのない、
今までで一番ひどい頭痛を体験。翌日、内科で一番強い鎮痛剤を処方してもらう。

この頃から、私が眠るためのお灸治療をヒデコ開始。
ひどい頭痛でのたうちまわった時も、なんとかやわらげようとあらゆる手を尽くしてくれた。

12日13日、土曜、日曜にもかかわらず、行きつけの鍼灸院で、
鍼灸治療。脾臓、肝臓、腎臓の衰弱をなんとか整える治療とのこと。
軽いパニック発作の記録もある。

15日、心療内科。一週間後。動悸息切れを訴え、体の衰弱も伝えると、
紹介状を書いてくれ、翌16日、一日がかりで、福井県立病院で精密検査。

歩く力も残っておらず、広い病院内を車椅子を五歳年上のヒデコに押してもらって移動。
大病院の待ち時間の長さがつらく、ひたすらベンチに横になったり、自衛するが耐え難い。

検査の結果は何も悪くはない。
「この人何も悪くないですよ」と人を人とも思わぬ態度で、
衰弱しきった人間を前に、体のひとつにも触れない医師の態度に愕然。
もうひとつ、時間のかかる検査を勧めれるが、断る。
空腹も含めて、疲労と衰弱は極限にあった。

県立病院のレストランで、鳥のから揚げ゛セットを平らげる。
おいしかった。飢えていた。体がまさに必要としている栄養が入っていくのが判る。

大声で、先生への不満。
「こんななのに、どこも悪くないなんて、よく言えたもんだ。
だから、西洋医学の検査なんて信じられないよ。とりあえず、
何も出てこなかったのは良かったけれど、それでもどうにかしなくちゃねえ」

不満、抗議、そういうときだけは、どんなに衰弱していても、
そこいらじゅうに響き渡る声を出せる私はそのときもいた。
まあ、唐揚げ効果は大きかったんだろうなあ。
ヒデコにそんなに大きな声出すんじゃないの、とたしなめられたくらい。

でも、そんな元気もほんのひととき。
とにかく、この検査漬けの一日のつらかったことといったら。

まあ、気休めということで、
この日も点滴をしたけれど、あれって何の意味があったのだろうか。

19日土曜、ヒデコのがくぶち屋さんでの展覧会の打ち合わせにつきあい、
福井市の漢方薬局に寄って、帰脾湯をすすめられる。
7000円台の出費は大きいが、抗ウツ剤をやめたかわりのものを、
漢方でそろそろ始めなくては、という判断があったからこそ、
車に揺られるつらさを押して、出かけたのだった。

がくぶち屋さんでのヒデコの打ち合わせを、やっとみつけた椅子に座り、
待っていたときの、背中のこわばり、体中が鉄のようになった感覚、
そう、自分の体が鉛のようになってしまったそんな状態に、
「もうすぐ私は死ぬのかなあ」とたしかに思う。
生きた心地がしない。早く終わってほしい。ひたすらヒデコの用事を待つ。

このときは、ここの和式トイレをそれでも難なく使ってはいた。
その二ヶ月ほどあとに、ここに来た時は、この和式トイレがとてもつらく、
泣きたいほどだった。なんとかつかまったり、バランスを取ったりして、
用を足した覚えがある。ただ、このときはまだそこまで、
足腰が弱っていた訳ではなく、むしろ背中のこわばりがひどかつたという訳だ。

帰脾湯のみ始める。おいしく感じることから、証しが合っているのだろうと判断。
のみ続ける。

断薬から二週間近く。小刻みな夜の眠りしかできないつらさの中、
21日月曜、心療内科へ。
漢方を処方してもらえないか、との私の申し出に、
「漢方はききませんよ」と一喝。
この日から、長時間タイプの抗不安薬メイラックスが処方されるが、
新しい薬への不安から、少しずつだけのんでみる。
そう、二錠と言われたが一錠にしたのだ。
翌朝、ものすごい頭痛。

お見舞いがてら来ていた娘のサナエに、こんにゃく湿布などでなんとかケアしてもらう。

抗不安剤が変わって、そのために増える私の中の『不安』という現実。
これが、その当時の私の紛れもない、笑い話のような現実だった。

それにしても、車で一時間揺られて、県庁所在地の福井市のそのクリニックまで、
出向くのは、それまでの日々、とにかく一回一回、
拷問のようなつらさだった。

昔、CP、すなわち脳性まひの友人を車の助手席に乗せて疾走したとき、
彼が、すまなさそうに、
「もう少し、遅く走ってくれませんか」と、
まわりきらぬ口で言った時のことが思い出されたものだった。

ケイコ          2011年6月21日夕刻記す

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