PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

ツイッターの外の孤独と、ツイッターの外の自由と

私はツイッターをしていない。
ただ、相方はしているので、おのずと二人での会話の中に出てくることはある。
画面がひらかれていて、見えてしまうこともある。

人は、思うままに、たまには考えるということもなく、
あるいは考えすぎるほど考えたりして、
ツイッターと称して、
バーチャルな世界では、つぶやきが行きかうようになって久しいらしい。

たまたま、個人メールでやりとりした人のツイッターが見えてしまうこともある。
ふーん、そうかあ。返事くれなくとも、こんなこと思ってるんだ。
そうかあ。そうかあ。

ええ。
愛ダホにあんなふうに、首都からはせさんじて、
信頼関係もまだほとんどないのに、しゃにむにカメラを回して、
アクションの二次会を、アクションそのものの反省会から、
都市と地方の話題に変えてしまう羽目に陥らせた、
全てとは言わないけれど、そんな役回りになった人が、
福井からの帰路、
それだけの「福井体験」で知りえたことを、
とうとうと、言い切りタイプのツイートをしているのを知った時の、
あまりの思慮に欠けた無邪気とも、言い換えれば傲慢ともとれる、
そんな140字のつらなりの連打を見たときの、
言い知れぬ絶望感。その無神経への憤り。

私も、もしかしたら、
このブログ上でそんな表現をしていると映っている人はいるのだろうか。
ただ、私は誰もが見てしまえる形態を持つツイッターという手段ではなく、
選んで、このブログをあけた人だけが見える形での、
ネット上の文章表現をしていることだけは確かだ。
いやな人は、見なければいい。それだけのことだ。
それに、読む人か読めば、了解できるはずの言葉を尽くしてはいる。

パソコンメールにも、
次々とフォローを求める人たちからのメール、メール、メール。

私の最低限のネット上のお手紙的手段である、メールも、
その数多いフォローを求める人たちのメールから、
宝物を探すように見つけ出さなければならない。

あったー。私にも一通。うれしいなあ。

あけてみれば、先週のある一件での思いを告げる、余りにも幼い、
だけど、けっして子どもではないはずの年齢の人からのお手紙的メールに力が抜ける。
あれだけのことがあって、たったこれだけのことしか考えられないのか。
まあ、返事をしようっていうのだけは、かわいらしいのだけれど。

今日はそんな日なのだろう。

鍼灸院に行けば、親しい信頼するその先生の「福井ルール」話に、
例によって途中から、治療効果すらなくなるような嫌悪感が走り抜ける。
彼女は、他意もなく、悪気もなく、
福井での、この地での、
他意もない、悪意すらない、無邪気な無神経さ、悪意のない無遠慮さについて、
淡々と何事もなかったかのように説明しているだけだというのは判る。

でも、それが、ここに30年住んでさえも、
慣れることのない、
慣れる必要すらない、ふいに吐き気を催すほどの、
福井ルールに基づいた、福井的説明であることだけは、
長年つきあってきただけに、よくよく判ってしまう切なさよ。

治療師としては、この上なく尊敬している人からの。
この一年の闘病生活の命の恩人とも思っている人からの。

でも。

遠くの近くの、地球の向こうの、
人々とのツイッター上の、ヒデコがするやりとりのこちら側で、

福井という、越前ともいう、いまだ私にとって「外国人」でしかない土地で、

私は自分の立っているところで、
どこでもない、どんな具体性もない、
どんな確たる根拠もない、どんな必然性もありえない、
そんな気流に気ままに、たゆたわされているような、
おぼつかにさに、目がくらみそうになる。

この症状は、
あの12日のイベントへのメッセージが読まれなかった頃から、
いや、あれをまとめようとする頃から、
まとめようとして、一体誰に、何に向けて送るのか、
すっかり目が見えなくなってしまったかのようになってしまってから、
奇妙な感じで私を襲うようになった。

私には言葉しかない、というところに戻っていく孤独。

私には言葉しかない、というところに戻っていく至福。

私には言葉しかない、というところに戻っていく無念。

いくら、思うように書けても、いくら言い当ててるねと賞賛されようと、
それでも、どこかがすれ違ったまま、
響かぬ鐘を鳴らしつづけるだけでは、これ以上はいかれない、
そのことで立ち往生している自分を、もう自分などというものすら、
肉体としても意識できないまま、思うともなく思う、
そのおぼつかなさ。

そして、確かな現実を担う家族は、訴える。
私だって大変なんだから。
私だって、あなたがいなかったら一人なんだから。

ツイッターなんて誰が考えたんだ。

思えば便利で、国によっては革命の手段にすらなるツール。

世を動かすことにすらなるツール。

しかし、私はそこで肉声すら聞くことはない。
そのつぶやきを発する人の体温すら感じることはない。
生身の生きた姿を見ることもない。

ツイッターをうまく利用することのできる相方は、
そこで冗談すらいきかわし、
そこでひとを励ましもし、
時にそこで、小さなつぶやきから大きな誤りを見出し、
問題を顕在化させるワザすら備えてきている。

ツイッターをしない者は、
ツイッターをしている者から、
どう疎外されないかが大きな課題だ。

ツイッターをしない者は、
ツイッターをしている者から、
どう「不参加」を認知されるかが課題だ。

そう、私はツイッターをしない自由を生きている。
それをしない自由を生きている。

人と、本当に大切な人とだけ、その人の顔と体温と微妙な表情と、
手足の動きと、そんなものを感じながら会う、
そんなささやかな自由を、残せるものなら残したいと願いながら。

それなのに、
ツイッターは、私をどんどん人嫌いにさせる。
ツイッターがもちこんだ、とんでもない宿題が、
余りにも肥大化して、私に人生を嫌悪させる。

弊害からおさらばするにはどうしたらいいのだろう。

かつて、日本の様々ないやな事柄から離れたい、
そんな欲求もそっと潜在させたまま、
地球のかなたで「国際支援」に精を出したことすらある。
日本のことは、最低限しか、必要なことしか聞こえてこない。
それがとても心地よかった。

だが今。
世界はつながってもいないのに、
つながっている様相を大画面の映画のように呈して、
虚構を現実のように巧妙に演じて見せて、
そのはてに、
人生の入口すら見いだせない若者を山のように作り出してすらいる。

ツイッターの外の孤独

ツイッターの外の自由

どちらを取ると聞かれたら、こう答えよう。

私は自由を取ると。
いいや、孤独すらとると。

たまの相方からのおすそわけが、ありがたいこともあるし、
一緒に笑ってすらいるけれど、
知りたくもないことを知ることすらある不快。
知りたくもないことを追体験することすらある嘆き。

自由。
かみしめてみる。

私のちっぽけな自由はどこから来て、どこへ行くのだろうか。
こう言っている私は、はたして今自由など手中にしていると言えるのか。
自由とセット、お一人様の自由と孤独セット。

ふと、のえの怒っている顔が蘇る。
あったかい体温。
唇ふるわせながら、たけりくるっている生き生きとした罵声。

いいぜ。それでいいぜ。

遠慮しながら、罵声ひとつなく、つぶやきの範囲での、
許される範囲での、独り言の範囲での、
自分への疑問、自問自答。それこそ、つぶやきの中では。

そんなものの向こうへ行くからね。
行ける自信なんてないけれど、やっぱり行くからね。

本当にどうかしちまったね。
世の中、どうかしちまったね。

生きるに値するかなんて、とおに訊く必要もなくなっちまったね。

ツイッターの外の孤独。

ツイッターの外の自由。

さあ、さあ、さあ。


16日深夜  ケイコ
スポンサーサイト

| 自閉圏のつらさと豊かさと | 03:32 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

私もまた、叫びたい。ツブヤキの水の流れは分厚いガラスの水槽の向こう、入りたくない。入っていけない。私は果たしてニンゲンであるのか。誰かと、共感もぶつかりあいもすれ違いも成すのが難しい。あるのは自分の思考の存在だけ。

| けろたん | 2011/06/17 21:55 | URL |















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://puentenokai.blog26.fc2.com/tb.php/859-9588a57b

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。