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原発銀座の現地で、今さまざまな当事者性を手放さずに

新しいカテゴリーになった「原発を許した国で」を選ぶ時、手が震える。
許した、のは誰。この国って、なに?
ああ、そうだ、英語圏の外国人の書物に「天皇の逝く国で」とか何とかのタイトルの本があったっけ。
そんなことを思い出した。エーと、著者の名前が思い出せない。みすず書房から何冊か出ている人。
最近、この手の物忘れが多い。ちょっと調べれば判る程度のことばかりだけれど。

例によって、今日も春の空の下、六千歩ほど歩いた。
農作業が、わずかでもセシウムが混じり始めた福井県の空の下でも、
何事もなかったかのように始まっている。
いつもと同じ春のように。
私があのすさまじき『副作用』から立ち直りつつあることを祝うような風。

でも、この空気、腹のそこから深呼吸していいのかなあ。
そんなこと、思わなきゃならないことか悔しい。なさけない。
私達が許してしまったもののせいで。

子どもがまだ小さかった頃、敦賀原発の放射能漏れがあったことがある。
対岸のこのベロ亭の敷地内で、運動関係のところからか借りてきた放射能検知器で、
放射能量を測ったことがある。振れた。時には振り切れた。
一番上の娘は、そのことをしっかり覚えていて、ヒデコに語ったという。
あのとき、本当に空気の中にあった放射能が反応していたんだよね。

高速増殖炉もんじゅ、の『公開ヒアリング』の時には、それに反対する行動に、
大阪の反原発のグループと共に、参加した。
文殊の知恵の「もんじゅ」なんて、とんでもない嘘八百。
「悶呪退散南無阿弥陀仏」と書いた、白装束の旅の僧姿のような大阪の一行と、
河原こじきもどきの、ピエロと魔女と赤頭巾ちゃんの格好をした、
私達女三人と、普通の格好のもう一人。

「もんじゅたいさんなみあみだぶつ」と唱えながら、
立ちはだかる機動隊の盾に向かって、一歩一歩近づいていったあのときの、
緊張感とやるべきことを私達の表現方法でしている、という誇りとないまぜの気持ちは、
今も昨日のことのように鮮やかに思い出すことができる。

普通の格好をしていた私達の仲間の一人のその女性は、
当時の夫から、外で活動することを疎まれていた。

そして、大阪の人たちと行動を共にした、その時の私達の姿は、
福井県内の男性の活動家たちのひんしゅくを買っている、と後日耳にした。
その普通の格好をしていた彼女の当時の夫をはじめてする、
少なくとも当時、福井県の反原発行動をするような男たちからのひんしゅくを。

小学校では、毎年、原子力発電所の見学の後、作文コンクールがあった。
うちの娘の一人は、職員室に訊きに行った。
「これって、原発賛成でないと、賞をもらえないんですかあ」。

実は、原発の「すばらしさ」をうまく書けて賞をもらえると、
ディズニーランド行きのプレゼントさえあったのである。

チェルノブイリ事故の後は、
「タンポポ舎」の出した食品の安全性リストをもとに、
ひとつひとつの輸入品の安全性をチェックして、
近隣諸国のものを食することは徹底的に避けた。

キャラバンでいただいた差し入れのナッツの缶詰さえ、
これは危険ですから、と敢えて会場に表示して、
皆の意識の喚起を促しもした。
プレゼントがそんな扱いを受けたことは、もしかしたら
せっかくあげたのに、と悲しい思いをさせたかもしれなかつたけれど。

ベロ亭に訪ねてきた人の贈り物がやはり、
近隣の国のナッツの缶詰だった時は、これは食べられないんです、
と電話か何かで伝え、
一人はきちんと納得、もう一人には、
私達が「神経質」な恩知らずとして映ったようだった。

本当にできることはわずかだったが、五人の子どもを抱えながらも、
私達はできることはしていた。
反原発直接行動にも参加した。「高速増殖炉もんじゅ」のおそろしさを
知ってしまった者の一人として、「原発に反対する大阪の女たちの会」にも触発されて。

当時の盛り上がりは、しかしやがて終息していった。
終息していった、と書くべきか、
終息させられていった、と書くべきか、
今の私には正確な記述はできない。

長い長い空白の時間があり、そして今、福島原発の信じたくないような恐怖の連鎖。

でも、今、私は、福井県には原子炉が15機あること、
そのうち敦賀一号機と「もんじゅ」が活断層の上にあること、
そんな原発銀座とも言うべき現地で、
現在、今、私達が行き着いた課題を手放さずに生きている。
こんな時代になったしまったからこそ、生きていられる間にできることを手放さない。

そこで、私自身の当事者性をあえてここに幾つか挙げる。

離婚もしたし、シングルマザーであったし、『未婚の母』でもあった。
そして、今は公的には『寡婦』の身の上。
知る人ぞ知る私達の、ある意味本当で、ある意味多重性を持つ当時者性。

『特定不能の広汎性発達障害』者当事者。
ただし、娘のえの、生きがたさを共に乗り切るために、
五十代になって敢えて診断を受けた上での単なる診断名。

私自身が誇りを持って、言いたい意味は同じでも、限りなく私にはそちらのほうがしっくりする
このジャンルの当事者性は、「自閉症スペクトラム」圏内の人間であること。
人によるので、言いっぱなしではすまないけれど、
うまくその特性を生かせれば、時には特異な才能が花開いたり、天才的な能力も発揮する、
「普通の人々」が失ったものを、原始的とでも言うべき形で持っている
そんな人たち。
感覚過敏があったり、まあ、よく知られているKYがあったり。
でも、それも人それぞれで、
特に女の子、女性の場合は、いろいろ自分でクリアしてしまう機会もあり、
逆に、生きづらさをそのまま引きずって、
二次障害として、アルコール依存や「うつ」になることもある
が、今日はこの辺で、そのうちこのカテゴリーもつくって、
皆様にレクチャーでもしましょうか。
まあ、数字や、緻密すぎるほどの規則性には、おそろしく強かったりもする。
裏も表もない行動が人を時に傷つけ、時に時代すら変える力にもなる。
まあまあまあ、この辺にしときましょう。

それで、私は日本語教師であり、物書きであり、詩人でもあることだけは、つけ加えて。

さて、『精神障害』を持つ子どもの母親である、という当事者性。
これも手放せない。絶対に。
この障害のほとんどは、『統合失調症』、ほんの昔までは、
『精神分裂病』という恐ろしい病名が、差別偏見を助長していた、
とも言える、幻聴、幻覚、などなどが現れることのある病気でもある。
世の中がこの病気をよしとすれば、
絶対、病識を多少の時間をかければ、必ず持てる。
この病気の人は、病識がない、と断言するのは、いまや偏見である。
また、それに伴う、生きがたさがそれなりあるので、『精神障害』という。
まあ、この辺は、けっこう世の中啓蒙されてきているから、
私のレクチャーは余計かなあ。
でも、確かに病識を持ち、自身でよしとする選択がなければ、障害年金に至れない。
そのことは、もしかしたらまだまだ重い課題なのかもしれないけれど。

幾つかの病気を繰り返す子どもの親であるという当事者性。
あえて、病名は挙げないが、これでもかこれでもかと、
この子を見舞う病に、手術に、私はほとんど関われないでいるが、
そのことは、常に心のどこかで念頭にあることは確か。
ごめんね。ちゃんとに関われないで、って謝りながら。

ごくごく初期の乳がんを手術後、最低限の治療しか選択しなかった、
パートナーを持つ同性パートナーという当事者性。
日々の野菜いっぱいのサラダは、この今の日本で、
いったいいつまで、新鮮で純粋な野菜で作り続けることができるのか。

まだまだ、当事者性といえば、いくらでもあるけれど、
そろそろ、最後の最後に、今の今、この五年くらいかけて
カミングアウトにいきついた、
私達の大切な大切な当事者性。

レズビアンマザーであるということ。

女二人で、母親二人で、五人の子どもを育てたという、当事者性。
今まで、透明人間のように、闇にまぎれて、
おぼろげな霧に包まれて、見えなくされていた当事者性。
なかなか、この土地でも、この日本でも、
あると信じられていないことが多い、かけがえがないほど大切な、
ごくごく当たり前のはずの、宝物のような当事者性。

今日、岐阜の親友に電話した。私より八つほど年上の人。

人って、死ぬと本当にその人と話すこともどうすることもできなくなるのね。
私の話が中心の冒頭に彼女はそう言った。
のえのことを知っていた人。のえの唄が好きだった人。今も好きな人。

彼女に、今私達が抱えている問題を、聞いて聞いて聞いてもらった。
二時間か三時間…??

それから、彼女のことをいろいろ話してくれて、私は聞く側になった。

彼女が新しく知る「発達障害」のこと。それを巡るある一家のこと。

そして。

あの気仙沼市で、彼女が親友を失っていたことを、私は知らされた。

まだ、昨日くらいに、はっきりしたことなの。
こうやって、ことは起きていくのね。
写真を勉強していた時の大切な親友。
と彼女。

震源に近かったから、そう、地震後、十分か二十分で津波が来たから、
地震後すぐ彼女が海辺の我が家に帰っていく姿を見た人がいたことが判って、
行方不明者の一人だと、昨日、残された家族から
亡くなったことが間違いないと聞かされたばかりなのだけれど。
と彼女。

私の大切な親友の親友であるひとの、あの津波による人生の終焉。
その方の名前を聞いた。
心の中でその方の名前を刻んだ。
ああ、何万と亡くなった方の一人がこんなふうに、私たちにつながってくる。

被災地で、「もうセクマイだってこと忘れようか」というつぶやきがある、と耳にした。
ヒデコは丁寧に、それに答えていったと聞いた。

全ての、時には小さくも思えることもある「当事者性」すら呑み込んでしまった、
地震、津波、そして原子力発電所。

だから、今、私はけっして手放さない。
どんなに小さく時には思うしかなかった当事者性も、
どんなに大きく思えて大切でも、言えなかった当事者性も
もう今は手放さない。

それも、これも、大事な、かけがえのない、私のアイデンティティである以上。
私が私であることである以上。

ケイコ





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