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5年は良薬、7ヶ月は悪魔、そして1年…放映の影の真実

今日、ある時、ふと思った。ちょうど一年だ。そう、多分。

最後の「のえルーム」とジャンジャン横丁でのミニキャラバンを平行して
やったあの一週間は、そう春のお彼岸の連休をはさんでいた。

その直前の診察日に、「そういう区切りのときは大変になるでしょうから」という
あくまでも見込みで、それまで5年の間、一錠か二錠だけのんでいた軽い抗ウツ剤を、
三錠に増やされたのが、そのお彼岸の連休の直前だったからだ。

手帳で確認した。ずばりだった。丁度一年前の今日、3月17日に抗ウツ剤レスリンを、
三錠に増やされている。
私は、「のえルーム」を閉じるにあたって、
待ち構えているかもしれない、のえが本当にいなくなってしまった、
その事実のとてつもない重みが、私をおおいかねないことを思い、
その頃は信頼していた、とにかく「副作用」を出すまでは信頼していたその、
福井駅前のビルに開院している医師の薬の増量に同意した。

三錠に増やしたことで、起きているときもすさまじい眠気が常につきまとった。
もう飲むこともほとんどなくなっていたのに、濃い珈琲を常に飲むようになった。
最後のあの「のえルーム」週間も、そんなふうにして乗り切ったのである。

だから、あの番組のこの時期の映像は、今もまだ見るのが辛い。

あのような異常な眠気は、要するに、あの増量をけっして受け入れてはならなかった、
という、指標としなければならないようなことだった、と今さらながら思うからだ。

ヒデコによると、
以来、眠っているときの寝方が、呼吸が止まっているのではないか、
と思うほど異常ないびきを伴う変化をもたらしたり、
あれ、今まで「のえルーム」にいたときより、声が小さくなったな、
という変化をもたらしたり、
とにかく幾つかの最初は目に付かないが、徐々にそれは誰にも隠しようのない変化として、
現れていくこととなった。

四月の日本語クラスの授業は、一回一回がつらかった。
やっている内容は大好きな天職のようなことなのに、声がいつものようにはっきりと出ない。
終わったあと異常な疲れを感じる。
なんなのだ。これは。

そして、のえのことで原稿に手を染め始めた私は、
よりいっそうの焦燥感にとらえられる。
気分の悪化かな、と思わざるをえなかった。
まだまだ、のえのことを真正面から書くのはつらいのだな、とも思った。

それらの一部は真実であったろう。
でも、あの異様な焦燥感は、今思えばどう考えても副作用の一部だったと判る。

私は一年間の「のえルーム」をそれなりしっかり終えたところだった。
そこで、いろいろなことと向き合い、出会い、乗り越えてきたことも多々あったはずだった。

それなのに。
それなのに、異様な焦燥感が四月、じわじわと私を覆い始めていた。

そんな四月の半ばに、京都の『にんじん食堂』さんでキャラバンができたのは、
ほぼ奇跡に近かった。私達の信頼する、一番の親友たちに支えられていたから、
あんなふうにやきものもペルーやメキシコの民芸品も並べて、
その上、「重いことも軽いこともしゃべりたくない」と
前夜、吐き捨てるように言っていたくせに、
会場の十数人を笑いまくらせる「おしゃべり会」まで二人してぶっつけでやったとは。
今も信じられない。あれは私がやったのではない。
あそこにいたのは、私ではない誰か他の人間だ、私ではない他の人格だ、
という感さえまだつきまとう。

空の個展は五月初めだったと思う。
家族全員が集まった。あの番組でも、家族全員が集まっている何気ないシーンとして使われている。
そんなに長くはないけれど、映し出されているそのシーン。
私達は二人の孫もいて…とナレーションが入るあのシーン。

だけど、前夜私はあることを巡って、胸が張り裂けそうだった。
そして、あの個展の日、そのことを解決しなければ、もっとひどい状態になるだろう、
自分を自覚して、息子たちにピンチを求めてさえいたのだった。

実は、その件はまだ全面的に解決されているとはいえない。
その後、ホンの少しずつ少しずつ、解決の道をたどってはいるけれど、
その問題の源流にさかのぼることが、私達はまだできないでいる。
小さいことに見えて、とても大切な、かけがえのない事柄。

5月の連休、のえの原稿にいよいよ本格的に手を染めた。
その後、最後の撮影があった。
「いつもと変わらぬ日常があった」と映し出されたあの日のあの光景。
ガンにも良いというスギナを摘む私の後姿が映されているあの光景。

しかし、私はもはや、増量されたレスリンの毒で、倒れる一歩手前であった。
ディレクターとも、思い切り話せなかった。
『ポジティブ』にこちらに向けられているカメラの目が、
時に私のおおきなプレッシャーになってしまっている、
その事情を、まだ話せる段階ではなかった。
それに、ヒデコの仕事の撮影に来て、ゆっくり話そうとしていたはずの彼も、
なんだか、とても疲れているようではあった。

その翌々日、私はついに倒れた。
5月10日。今から思えば去年の最後の授業になったクラスを三つ終わらせての運転の帰路。
頭がふわっとし、熱があるような感じで、どうにもだるくて仕方なかった。
そうそう、最初のスリランカ人の生徒の授業の前には、
背中が痛くてだるくて岩のようで、授業の綿密な準備より、体調体調とばかり、
私は背中をたたき、もみ、体をゆらし、訳のわからないだるさをなんとかかわそうとしたものだった。

11日。あまりのつらさに内科に行って、「腎盂腎炎」との診断が出た。普通、大腸菌でなるというこの病気。
しかし、今にして思えば、これは薬剤性の腎炎であった。
これについては、心療内科の医者のほうは、非科学的に今も認めることはないけれど。
3錠のレスリンをのみつづけた末に、薬が毒となりつつつあったそのとき、
私の腎臓は悲鳴をあげ、警鐘を鳴らしていたのである。

すでに歩き方がおかしくなりつつあった。
なにその歩き方?
とヒデコは私の妙なヨチヨチ歩き風の歩き方をかわいらしいと言ったことがある。
かわいらしい、どころではなかった。
それは、レスリンの恐るべき副作用「薬剤パーキンソン」の兆候だったのだから。

私は長い間、歩いていることができにくくなっていた。

腎盂腎炎はすぐ治ったのに、床から起き上がることも、授業を再開できることもなかった。
それは私の焦燥感をますます募らせた。
あの解決できていない、家族内の問題をそんな時思うと、私はますます焦燥感に追い詰められた。
なぜ、内科医はすぐ授業ができる、と言ったのに、どうして起き上がれないのか、
焦りは募り、やがて『陶芸祭り』という、
5月末の年一回の地元のイベントの三日間が来ても、
ほとんど手伝うことすらできなかった。

なんとかよたよたと歩いて会場に行って、一人のお客さんにやきものをすすめた後には、
すぐに前の芝生に座り込んだ。座り込むだけではなく、背中も頭も芝生につけて横になった。そうするしか、私の体は機能しなかった。

それ以降の、
6月8日に重大な「副作用」とようやくのこと医者が認めるまでの
シッテンバットウの日々については、今日のところは記さない。
読む人も、書く私も耐えられないだろうから。

とにかく、そうやって私は、マーケットでの買い物を最後まで続けられなくなり、
「副作用」と判るまで、体中のどうにもならないこわばりに、耐えつづけたのだった。

この「副作用」を決定的にしたのは、
よりによって本当は警鐘を発していたはずの腎盂腎炎で、
医者が、「どうせ腎炎で寝ているなら、レスリンを四錠に増やしましょう」と言ったことだった。「どうせ腎炎で寝ているなら」。彼はそこで立ち止まらなければならなかったにも関わらずだ。

しかし、これらの全ては、レスリンを断つ以前の前段にすぎない。
それ以降の、何の指針もないまま、ただ薬が抜けるのを待つだけと言われて、
誰からも確たる治療を受けられなかったと言っていい、
副作用と断薬による、すさまじい「闘病」の暗中模索の日々については、
今もまた゛思い出すのもつらい。

6月8日から今の今まで、けっして全快したとはいえない、
様々な問題を抱えつつ、私は二月、とうとうあの番組へとこぎつけたのだった。

そもそもは、8月はじめに放映されるはずだった番組は、
実はこの、抗ウツ剤の増量による、重大な副作用「薬剤パーキンソン」によって、
伸ばしに伸ばされたのだった。

延期などありえなかったかもしれないこの番組を、
私達のこの番組への姿勢、年月をかけて作られつつあったディレクターとの信頼関係、
の中で、2月の放映に至るまで、なんとか待ち続け、もちこたえてくれたそのこと。
それはそれで、ありえないほどかえがえがないことだったと、今も私は思っている。

だが。
だが、もうひとつの企画は、その私の副作用の発現によって、
ゼロとなった。

そのゼロとなったものを目指して、実は私達は一歩一歩を歩いていたにも関わらずだ。

私達にとって、『ハートをつなごう』は通過点としてあった。
確かな通過点として、それはあり、次の大きな到達点に向かって、
私は「のえルーム」の撮影を、大きな決意で承諾したというプロセスもある。

だから、「自死」に関する掘り下げも、わが家族そのものの掘り下げも、
敢えて言うなら、ここでは何度でも、敢えて言うならを繰りかえすが、
敢えて言うなら、それら二つのテーマの掘り下げは、十分なものとはならず、
何もかも入れ込もうとして、
『ハートをつなごう』があんなふうにぎゅっとつまって仕上げられた、
その点を今も思わないわけにはいかない。

それはそれで、私達とディレクターとの最後まであきらめない
じりじりと思いをつきあわせた信頼と努力と、
インスピレーションで、すばらしい番組になったことは、
けっして否定はしない。
それはそれで、本当に、どこまでもかけがえがないことではある。

が、私は、その時、向精神薬が、とりわけ抗ウツ薬がもたらす薬害へと思いを凝らす。
私達の大切な到達点は、そうやってとりあえずゼロへと戻ったのだから。

ゼロはゼロだから、一になりニになり、十になるかもしれない可能性を残してはいるが、
それはもしかしたら、私への、まだ足りないまだ足りない、という
誰かからの「お告げ」なのかもしれないが、
つまり、そんなに早く到達点は来ないほうがいい、という
戒めなり自省を持て、と言うことなのかもしれないが、

それでも、今も私は一年前のこの日に、医者のさじ加減ひとつで始まった、
私の苦しみの日々を、けつして忘れることはないし、
その意味を考えることを手放すことはないだろうと思う。

本当にその副作用は、やむなかったのか。
ヒデコが何度も、医者に向かって、私の異変を告げたにも関わらず、
増量し続けた医師の判断は、やむないとされる領域のものなのか。

私は、常にそこに立ち戻って考え続けてもいる。

私は、これを機に抗ウツ剤もやめた。
そんなの当たり前だ。いつ毒に変わるかもしれないものを、私はもう続けることはできなかったから。
たとえ、そのために治療が一見長引こうと、よりいっそうつらい局面を迎えようと。

今は漢方薬と鍼灸治療と、ごく僅かな抗不安剤で切り抜けている。

そして、最後に記す。
この日々を支えたのが、のえがODで亡くなったその事実の意味することの大きさだったことを。

のえは、大量処方の犠牲者でもあった。
私は、のえより軽かった面もあるかもしれないが、僅かな薬しか出さない医者を信頼していた。にもかかわらず、副作用と言う名の薬害に遭遇したという最大の皮肉。

そして、今も私の体調は、春を迎えてさえ、まだまだ疲れやすさを残している。

春には全快。春には全快。そうもくろんできたのに、このかんの放送の余波とか、
まともに暮らそうとすれば、ぶつかる様々なことの中で。
なぜ。なぜ。と自分の心身に尋ねたくなるような不調に、いい加減いやになることも、まだまだ正直言ってある。だから、小雪が舞っていても、そうウォーキングなのだ。

レスリンの増量。2010年3月17日。断薬6月8日。

そして、今日は、2011年3月17日。
けっして、この日を私は忘れないだろう。

ケイコ


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| 副作用ラプソディ | 21:07 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

大幅に加筆したからもう一度見てね。

| ケイコ | 2011/03/17 23:47 | URL |

元恋人がODで自死した後、3日3晩一睡もできず、判断力がにぶって駆け込んだ心療内科で、初見で大量の薬を処方され、私はぼうっとした頭で言うとおり全て服薬した。翌朝、死体のように「眠り」、昼になっても夜になっても目さえ覚まさない私を見て、相方は大層心配したらしい。丸1日経ち、やっと目があいて起き上がったときのふらつき。胃が焼け、ほとんど何も食べられず、その後普通に食事ができるまでしばらくかかってしまった。信頼できる内科医に処方箋を見せたら、「こんなものを一度に」と絶句された。私の恐怖体験です。

| けろたん | 2011/03/17 22:56 | URL |















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