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回復…治る…ってなんだろう

久々に、夏に数日手伝いに来てくれた娘と、ヒデコから電話を替わって、話をした。

どおっ、元気?

私の開口一番、帰ってきたのは次の言葉だった。

ええっ、誰かと思った。けいこちゃん。声が全然違う。

ここのところ、二ヶ月ぶりとか、そう一ヶ月ぶりでさえ、
そして三ヶ月ぶり以上ならなおのこと、
久々に話す人に私の声の調子にびっくりされることがある。

延々とその調子で一時間しゃべれと言われて、
そうできるかはともかく、
お腹から声が相手へと届くように、
しゃべれているのだけは、ある程度は確かなようだ。

わずかに飲んでいた薬の、その僅かとはいえ、倍の増量で、
私の体に起きた、名づけようのない内紛。

歩きにくくなり、歩けなくなり、
動悸息切れが常につきまとい、生きた心地のしなかったあの夏の三ヶ月。
ごく初期の頃は、朝ごはん一食食べるのに、三回横になってはまた起きて、
なんてことも繰り返したものだった。

それなのに、
それだからこそというべきか、
薬の副作用という、「薬害」は、血液検査をしても、
心電図を見ても、様々な検査をしても、数値には現れないという、不思議というか残酷さというか。

それをはっきりと見続けてくれたのは、
いきつけの鍼灸院の友達といってもいい付き合いが続いている女性鍼灸師だった。

あの頃は、効果の出るツボを探すのが大変だった。
どこもこわばってしまっていて、生きているツボがなかったから。

不整脈が出ていて、わあっどうしようって、今だから言えるけど、
ドン底まで弱っていたのは確かですよ。

現代医学のある病院で精密検査の結果が出た後、
その日の担当の医師は言ったものだった。
この人、どこも悪くないですよ。
その医師は、私のどこにも触れなかった。
脈にも、お腹にも、手にも、全くどこにも。

それはそれにしても、血液検査にしてもどこも悪くないのは、
ここまで東洋医学的に見れば弱っていた私にすれば良かったことではあるだろう。

寝たきりのあのすさまじき夏。
ついに歩けなくなった七月末のあの日のこと。
動悸息切れで、歩行はなんとかできても、やっぱり車椅子が必要でありづづけた日々。

副作用というには甘すぎる「薬害」のために、余りに乱暴な断薬となり、
数日目に襲った、クスコでの高山病のときよりひどかった頭痛でのたうちまわったこと。

担当の医師が、断薬の仕方、「薬剤」によるパーキンソン症状の、
実際のところの適切な知識をもっていなかったことを、のちのち知っていくプロセス。

私の体と心に起きた全体像を、見続けたのは、私のパートナーのヒデコただ一人で、
転院先の医師はその専門の範囲で、
漢方薬局の薬学博士もその専門の範囲で、
そして、その中では最も総合的に私を見守り励まし続けてくれたのは、
あのときには、マザーテレサのように私を包んでくれた女性鍼灸師だった。

その三つの守りを、私の中で統合させて、私はそれを支えにここまできた。

十月末には、京都のある信頼のおける医師にヒデコが会えて、
それでいい、それでやっていけばいい、と後押しをされたことは実に大きかった。

今は晴れた日なら、そう多少の曇り空や雨でも、
毎日のウォーキングは欠かせない。
操体という、らくに体を動かして体のゆがみを調整していく方法も、
ひとり操体の本でほぼマスターして、毎日か一日おきくらいにはやっている。

よりによって八月末、ベロ亭の階段をゆるやかに友人たちがつけかえてくれ日の翌日、
私は、ベロ亭のもうひとつの鬼門とも言える五右衛門風呂で、
とはいえそれは私の明らかなミスではあったものの、
足裏のひどい捻挫をしてしまい、
筋力の回復は大幅に遅れた。

今、ようやく両足は六割くらいの力を取り戻し、
鍼灸師の彼女に言わせれば、なめらかさも取り戻し、
あとは筋力の回復のみ、というところまでこぎつけた。

テレビどころか、新聞の見出しも見なかった私が、
徐々に見出しを見るようになり、
今では、気になる番組を録画し、
見れる時間には見るようになったりもした。

人に会えば、ヒデコが大丈夫かと驚くほど、ちゃんとに声を出して話している時もある。
もちろん、久々の友人の電話には尚のこと。

もうすぐ、五十代最後の誕生日が来る。
年齢に伴う老化と、いたちごっこ。
こっちが努力しなければ、年齢のほうに追いつかれてしまいかねないから、
ウオーキングも本気だ。
様々に体を動かす家事も、以前よりも、なかなか本気だったりもする。

腰が痛む。足の関節がうずく。それもまた回復の証。

そのうち、脳の方も活性化して、気づけば、毎日のようにこのブログも書いている。

多くの人に助けられた。

ヒデコに「それは治るんですか」という人もいたと聞く。

ええ、治ってきています。
私は今、そ答えられることをかみしめる。

あの七月のあの日、わたしのささやかな「薬害」は、
遠い水俣の有機水銀中毒のすさまじさをも、思い出させた。
人間の体に異物が、毒物が入るということ。

そして、心療内科や精神科の出す、向精神薬は、
時に人間をしんから救いながらも、
ある限界をこえたとき、すさまじい健康被害をもたらすということ。

そのことを身をもって知った2010年の夏秋、そして冬と続く今。

正真正銘のパーキンソン氏病で、四十代で夫を亡くした私の姉は、
いみじくも言った。

あるときね、彼がなんだったか、治る膀胱系かなにかの病気になって治ったの。
ただ、それだけだったけど、「治る」ってすごいことだなあ、って、
ふたりして話したのよ。
姉は塾を経営しながら、彼の介護をし続け、最後まで見届けたのだった。

私は知っている。
その薬を飲み続けなければいけない、人々が数知れずいることを。
私は知っている。
治らない、けれど緩やかにはなっていく、という程度のことがある病気のことも。
そして、私は知っている。
治らない、数々の病気のことを。あるいは障害と名づけられもする特性のことを。

そして、そんなたくさんの苦悩に囲まれながらも、
私は治るという希望に向けて、
今日もウォーキングをし、
まだ治っていない、もうひとつの大きな問題に、
今はゆるやかに向かい続けているということを。

ケイコちゃん、もしかしたら、腕の力、
病気になる前よりつよくなったんじゃない。

たまにヒデコが言う。

本気で出すと違うのだろうか。
まだまだだと思ってはいるし、実際そうなのだけれど。

私は歩くのが早かった。
東京時代から、すぐ人より早くなって、
待ってよ、と友達にもよく言われた。

あの急なベロ亭の階段を下のプリンターと上のノートパソコンの操作の関係で、
五月八日まで、一日に十回二十回と上り下りして、平気だった。

足だけは人並み。それ以上ではないけれど、足はそれなり。
そう思い続けてきた。

右腕はしょっちゅう腱鞘炎にはなっていて、手の力はなかったが、
そのぶん、足のことは信じていた、ともいえるかもしれない。

その右腕が、この半年、左腕と共に、私の支えとなった。
一番弱かったところが、
日々の暮らしのこまごました瞬間、私を支えた。
そして、右腕も少しは強くなっているのかもしれない。

治るということ。
回復するということ。

まだまだ、きっと春先まで、もしかしたら、
五十代最後の一年間をも、
そのおもみは、私に付きまとうかもしれないが、
でも、私は治る。
回復する。
よみがえる。

また再び、私は私らしい仕事を、
今度こそ、出し惜しみなんかしないでする。
いつなんどき、それができない時間が、
人にはやってくるかもしれない、それを知った以上は。

このテーマ本当は奥が深い。
そして根も深い。
社会の問題でもある。

だから、いずれ、
掘り下げるよ。
提議するよ。
きちんと。

待っていて。
知ったものにしか語れない、副作用という名の「薬害」の真実を。

ケイコ
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