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生まれるということ

そこは、新宿といっても、神楽坂の交差点から間もない、おそばやの二階の小さなアパートの一室だった。とんとんとんと、簡素な階段を上がってすぐ左手がその部屋。もとはと言えば、姉が親元から離れて下宿住まいしていた部屋だったが、私の急な事態に、住めばいいよと言ってくれて、のえの父親と私はそこに住み始めていた。

おそらく南側に大きな窓があって、その部屋は光に満ちていた。のえのオムツの洗濯も、様々な家事も、18歳の私はけっこうな余裕で楽しんでいて、生きている、という実感に、そんなさりげない家事たちが私をいざなった。

なんといっても、都内有数の受験校だった高校から抜け出したような、そんなすべり落ち方で、私は他の同級生たちとは全く違う暮らしを始めてしまっていたのだ。都立高校で一番先に学内闘争が、まあそれは定時制のほうだったけれど始まった高校で、それは全日制のほうにも、はっきりと飛び火して、まああれこれあったけれど、鼻持ちならない高校生の闘士たちは、そんなことをまるで忘れたみたいに、一流大学にするりと自分の位置を得るような、卑怯と言ったらつよすぎるけれど、誠実とは言えない選択が当たり前のその高校で、反面教師的に学んだことは大きかった。


もちろん、そこで、私は知的なこと、本質的なこと、ラディカルなことのいくばくかを、むさぼるように摂取もしたのだが。そして、学校をうまくさぼって、すぐ近くにある名画座で、名だたる名作の数々を、お弁当をひらいて見たりもしていた。

でも、にもかかわらず、いやだからこそ、そう、まるで仲間のような「闘士」たちに囲まれながらも、私はひどく孤独だった。深いさびしさをかみしめていた、と言えるかもしれない。
彼らは、「さびしくなんかないさ」というのがハッタリの人たちだったから、偏差値の良さで選ばれて入った高校で、気位高く、親たちは、当時の閣僚なんかともつながっているような、そんな雰囲気すらあって、私は仲間っぽくふるまいつつ、ふるまいきれず、彼らとの大きなギャップを押し殺すように、耐えていた、と言える。

大学はなんとか二部に入り込んだ。でも、間もなくやめた。学ぶ必然性が立ち消えつつあった。語学が好きで、イタリア語、ロシア語などなど、とっていて楽しみはじめたりはしていたが、そして、ロシア語に関しては、のえが生まれてからも、抱いてあやしながらも、勉強していた時期もあった。

40年前のその日、12月21日、私の記憶に間違いがなければ朝の八時半ごろ、のえは生まれた。前日の夜から陣痛らしきものが始まっていたが、初産だし、入院費の節約にと、私は午前零時を過ぎるのを待って、すぐ近くの厚生年金病院に入院した。たくさんの妊婦たちがいたが、もちろん私は最年少だった。

私がのえを生もうとし、のえが生まれようとしているそのとき、周囲を囲んでいた助産師や医師、看護士たちが、かなり驚嘆していたのをはっきり覚えている。
さすが18歳、すごい力がはいるわねえ。気持ちがいいくらいよねえ。

間もなく彼らは気づいた。
あらあら、この子、逆子だわ、でもお尻が見えているから大丈夫、
出てくるのに二回、難関があるけれど、足が絡まっているわけではないから大丈夫、頑張ってお母さん。

そうして、のえは、正式には骨盤位、という逆子で生まれてきた。(足位でなくて幸いだった)
母親学級に出て、ラマーズ法の呼吸法など習っていたけれど、
ろくに検診など受けなかったのが、私らしいと言うか、18歳の身軽さだったのか。

この子は、不思議なことにつむじが三つもあって、後ろにそれが並んでいて、
そこのところがはげているみたいにみえることに気づくのは、まだずっとあとのことだ。

病院には、母親としての先輩たちがずらりとなれた手つきで授乳していた。
帰宅したその日は、ええ、私がこの子を守っていくの?てな具合で、
どんな母親たちも遭遇する始めての嬰児を前にした戸惑いに見舞われた。
来てくれた姉も、私以上にどうしていいかわからないみたいだった。

そうやって、一刻も猶予を許さない、「子育て」という、
私のような人間にはとりわけ、かけがえのない修行が始まった。
それは私の人間観を根底から変えかねない、さりげなくも大変で、
こまごまとしながらおおらかな、大仕事だった。

そのときから始まった私の試行錯誤はいつか詳しく記したい。

のえは、時代の先端を走る?この母親と共に、様々なところに出入りし、
様々な人にもかわいがられ、とりわけ父親にはかわいがられ、
ジャズとブルースの鳴り渡る横でぐーすか寝入るような子でもあり、
なかなか人の言うことをきかないような子であり、
全く人見知りしないような子でもあり、
ああ、そこにのえののえたる、特性か゛今にしてみればあったのだけれど、
とにかく、この頼りない、向こう見ずで、若すぎる、しかし時には元気いっぱいの、
私、ケイコのふところから、出発した。

あの暖かい赤ちゃんの産着のやわらかさ。
甘いお乳のにおい。

誰もがそこから始まる、生まれるということ。

そして、どんな女たちも、産んだとき、生むということを
丸ごと知ってしまう、ように、私もそのことを、十代にして知った。

のえ、ありがとう。生まれてきてくれて。
のえ、ありがとう。生きて生きて、私の手の届かないところまで生き切って、
そうして、今、40年がたったということ。

その年月の目がくらむような短さ、長さを今私は祝う。
けっして悲しまない。
私は心から祝う。
のえが生まれて、生きて生きて、私の手の届かないところまで生き切ったことを、
私は心から祝う。
せめて今日という日には。

ケイコ
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| のえと共に | 09:45 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

そりゃあ、産む人がいて、生まれる人がいるのよ。その瞬間は、原初的とも言える、共同作業。だから、私たちは今、ひとりひとり、人とつながりながら、存在するようにも思います。

| keiko | 2010/12/27 16:18 | URL |

人がこの世に生れ落ちるには、その通過点として産む人がいて。そしてこの世を去っても、幾多の出会いの向こうにつながっていて。自分もあの人もみんな。ケイコさんのかけがえのない時の話をありがとう。

| けろたん | 2010/12/21 10:26 | URL |















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