PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

のえ は、わかっていたよね

これからちょとデリケートなことを書く。
というか、デリカシーを総動員して読んでほしいことを書く。

昨日、ある人から、私の依頼にこたえて、あるメッセージが届いた。

その人は、最近二回、ベロ亭に来た。

朝昼兼用の食事を、晴れて暖かければ常にそうするように、
庭の緑に囲まれたテーブルで食べた。
そのときの幸せ感をその人は「ベロ亭タイム」が流れていた、と書く。

そして、のえがこのベロ亭の時の流れを思い出してくれたら、
ベロ亭の二人の思いに気づいてくれたら、と続ける。
気づいてくれたら、逝かずにすんだのではないか、といったニュアンスで。

そんなベロ亭タイムを味わっている私に、
のえちゃんがあの世から嫉妬するのではないかな、と思ったり…。
そうメッセージは続く。

そのあとは、私達二人がどんなにか、のえを愛していたか、と続く。
天国から、だから見守っていてほしい、と続く。

読んだ直後、このメッセージのためだけではない、
疲労もたまっていたせいもあったかとは思う、が、
とにかくパニック発作とあいなった。
胸がしめつけられ、痛みが走りぬけ続けた。

まず、思ったのは、
待ってくれ、こんなに、のえの不在をむき出しにして語らないでくれ、
ということだった。

そのメッセージがその人だけではなく、他の人も含めたやり取りとして、
メールで流されていることにも驚いた。

間髪を入れず、その人に電話した。

「ねえ、これって、あなたが子どもってことになるよ。
子どもの立場ってことになるよ」とも私は言った。
その人は「だって私子ども生んでないから、親の立場はわからないんです」
この人はそう答えた。私は言った。
「そう言われたら、それまでだけど、
どんな生き方を選んでいようと、人は変わり続けるし成長しようとするでしょう」
そう言った。

電話を切ってから、はっきりしてくる想いがあった。
「嫉妬するのではないかな」
それは全く違う、ということだった。

そうだよねえ、のえ。のえは、私達二人がのえを愛していることなんて、
体中で知っていた。そして、それでも、
ベロ亭に避難したりする道を選ばずに、選べずに、
余りにもすさまじく潔く、逝ってしまったのだったよね。

そうして、ベロ亭に遊びにくる、私達の友達を天国からとっくに見ているよねえ。
うちのおかげで、いろいろ縁が広がったこと! なんて思いながら。

「嫉妬するのではないかな」と言うとき、
その人は、あくまでも自分が子どもの側として存在しているかのような、
感覚をちりばめる。
その人は、のえの、というより、私達の友人であるのに。
私達の友人として訪問してきたというのに。

のえが、嫉妬するわけがないだろう。
嫉妬し続けるのは、浮世にうだうだ生きつづける私達であるにすぎない。
嫉妬する、そう言ってしまうことは、死者に対する思い上がりではないのかな、
そんな思いもめらめらとわいてしまう。

「たった一晩が、のえを連れていってしまってから一年」
そう書く、とても大切な友達がいる。
一回目というか、一年前からしばらくの間はまだよかった。
でもね、何度もそんなこと言ってほしくはないよね。
のえだってね。

一晩が、のえを連れて行った、そういう側面もある。あるにはある。
しかしだ。
のえは、徐々に徐々に、その一晩に近づいていたのだ、ということ。
それを見なければ始まらないことに、皆なかなか気づいてくれないのがちと悲しい。

これを読んでいるあなた。
私が今書いている微妙にしてきわどく大切なニュアンスを読み取ってくれていますか。

これらの物言いには、自死への深い囚われをも私が感じていることがわかりますか。

私が必ずしも、親だからとかそういうことではなく、のえの生きた事実、
それでも逝ってしまった事実に、一人の人間として向き合ってきた中で、
見えてきていることだ、ということが、わかりますか。

そこには、娘を亡くした深い喪失感も原動力としてあることは、わざわざ否定はしない。

だが、そんなふうに、のえに対して思い上がらないでほしい。

のえは、のえで、多くのことを体中でわかっていながら、
そうとしかありえなかった生を駆け抜けた、
それだけは、それだけは、のえの唄を聴き続け、
のえの日記を精読し、
37年と290日を追慕する私にはいやというほどわかる、わかるのです。

生きている私達は、思い上がってはいけない。
けっして思い上がってはいけないのです。

あのときで、のえの姿が消えたあのときで、止まっているなんて、
そんなことを、のえに言ってはいけないのです。

のえの人生から学ばなければならないことは、まだまだあれもこれもある。
そう、のえのCDブックの制作にも、そんな辺りのことが、
託されもすることでしょう。

それが、生きている私達の思い上がりにすぎない、ということも。

私は今、自死が絶対的にしてはならないこと、
という立場には、もういないのかもしれません。

寄り添えなかった深い時間を省みながらも、
今も寄り添える時間に、頭をたれながら。

そう、
のえ、に代れる人は、誰一人としていないのです。

ケイコ

スポンサーサイト

| のえと共に | 13:55 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

文章を読んで、私の人生の中で濃い時間を共有した恋人と友とのことを、重ね合わせていました。ふたりとも自死してこの世にはいない。憐憫や悔いに染まるのはあまりに安易だから、私とふたりが出会った縁を、今もじっくりとききつづける。そのことは、たやすいことではなかった。ずっと苦しかった。ケイコさんの文章はそんな自分の胸に沁みておちていきました。ありがとうございます。

| けろたん | 2009/10/18 23:27 | URL |















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://puentenokai.blog26.fc2.com/tb.php/628-b007a43a

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。