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『朗読者』を読む

二日つづけて、ケイコの登場です。昨日と打って変わって、本の読後感です。

今、ロードショーで話題の映画『愛をよむ人』の原作、『朗読者』を読み終えました。
文庫本の古本で買ってあったのを偶然みつけて、一週間くらい前に読み始めたのです。

非常に良い日本語訳というわけではないのだけれど、妙に細部が意味を持つ小説だと、
読み終わってよりその感覚を強めました。

常に書いている主人公、私が、書いている自分を見ているからです。
ここは覚えていないとか、結局、彼女のことをこのバージョンで書いた、書いてしまった、
などなど、述懐するところが内省と葛藤をはらむのです。
そのわりに、それはあっさりとしていて、
その潔さのようなものが、「隙間の恋」の行方を描いて、
全体として、最後の一行まで結んで、秀逸なものとして刻むのです。

隙間の恋、と言わなければ、隙間の情事、と言ってしまってもいい。
あるいは、それはたまたま、本の短いあいだ濃密に知りえた人間関係の、
日常を離れた谷間さ加減をあらわしているかのようでもある。

それが切ないし、酷薄でもあり、だから迫るものがある、と言ったほうがいいのです。

だから、映画の題『愛をよむ人』は違うだろう、と言いたくなるところもあります。
たった一頁の愛を永遠の愛にした、というキャッチコピーは、
はははは、うまく言いえているな、というところもあるけれど、
これが愛って言えるのかな、というのが正直な感想です。

愛でないから、愛に向けて悩んでいるふしはあるけれど、
それはそう解釈できないこともない、というだけであって、
これはけっして愛、の物語ではない、そう思います。

日常の隙間からはみ出た人間関係が、しかし思いのほか、
無意識の底まで濃密に照らし出すようで、
意外に照らし出しもしない、
それでいて戦後のドイツの過酷な現実から、
誰も自由ではいられない、
それだけがしんしんと語られるかのように、私には思えます。

向き合えない人間関係であるからして、
朗読なのです。
朗読しか、関係を結ぶシンボルになりえないのです。

しかも、その朗読にこそ、ひそまれた種があります。

一度だって、二人は愛を語らない、
愛している、なんて言うシーンはない。
なのに、映画ではあるみたい。
これは不満だ。

愛たりえなかったから、愛の物語というパラドックスならわかる。

しかし、それにしては酷薄すぎる薄情すぎる物語ではあるのです。
人間って、そんなものかもしれない、
それがしみるといったほうがいい、
私は語り手の彼が、彼女との距離を距離とも感じず、
隙間のままに、朗読だけを担い手のようにして、
埋めていくことが、よくよく判る気もします。

文学と映画、という表現手段はずいぶん違うものであるのでしょう。
映画は映画として堪能すべきなのでしょう。

かつて『存在の耐えられない軽さ』を映画で見てから、
小説で読んで、それはそれは良かったこと。
そんなことを思い出しながら、
その逆は、小説の印象が、
映画という映像、
映像という視覚、
によってうずもれてしまうのではないか、
という危惧につながっていくことをつい思いつつ、
今日のところはこの辺で。

映画と原作の違いでなにか言いたい方は、
ぜひ言ってほしいものです。

ケイコ
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