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アイデンティティという広がりと深み

ジャンルのところが更新できません。ここのところは、ケイコオリジナルなんて項目をあてるべきです。ところで、このブログが手に付かなくなって一か月がたとうとしています。私はといえば、「アデンティティ」という海の中に潜入し、 海のあぶくを眺めたり、きらきら光る水面に感心したり、 普段は見えざる海底の謎が明るみに出ることに、 研究室でただただ見入っておりました。研究対象は、 ドナ・ウィリアムスというオーストラリア出身の たしか1966年生まれの女性の本三冊です。この二か月ほど、このひとが生まれてから30歳になるまでの日々を、 本人の内部に入り込んで、追体験し、人事ではなく、 ゆっくりと日々を、時間の流れを送らせてもらっていました。一冊目は、ノーボーディノーウェア。どこにもないからだ、どこにもないところ。二冊目は、サムボーディサムウェア。どこかにあるからだ、どこかにあるところ。三冊目は、ライクアカラー・トゥーザブラインド。目が不自由な人の色彩のように。これには、やや由々しき邦題がつけられています。『自閉症だったわたしへ』1・2・3 なぜ由々しいかというと、自閉症が全快する病気か何かで、 それから生還した人の作品、ととられかねないからです。でも、やや由々しい程度だというのは、 自閉症を自閉症当事者が語る、という内容が、 ドナの全人格が自閉症を見て取っている、という含みは肯定できるからです。由々しいのは、過去形の「だった」です。ただ、一瞬先には見つめなおす自分という意味で、 過去形であることはまずまずの許容範囲かもしれません。本当に由々しい邦題は、 2巻の『こころという名の贈り物』 3巻の『ドナの結婚』 1巻目で著名になってしまったドナのことですから、 それ以降の著書の邦題など問題ではないのかもしれませんが。どうでしょう。英語の原題を生かす訳というのはありえなかったのでしょうか。私はこの本の中に潜入し、 ひたひたと揺れて、 ごそごそと探索し、 彼女の持つ「自閉症」というアイデンティティの広がりと深みに、 ほぼ日常的に触れ、ほぼ日常的に彼女の日々を咀嚼していました。自閉症者が本を書くなんて。 と思われていた時代もありました。いえ、今も思っている人もいるかもしれません。知的レベルが高い、いわゆる高機能自閉症が取り上げられるようになったのは、 このドナの著作も世界的なきっかけになっているようです。一人の人間がその人自身になるということ、 それはこんなふうなことなのだ、 とごくごく自然と私の中に入ってくる千五百ページに渡る探索でした。いつの間にか、自閉症である事実などささいなことに感じられるようになりました。きっとそれは多くの人にとってささいなことではないのですが、 そう思える私とはそれなら誰だろうか、 ということが、 私自身のアイデンティティという広がりと深みのなかでの、 一大テーマであるようです。ただ、自閉症というものは、その脳の特質というか回路の不全ゆえに、 一人の人間が一人の人間であろうとすることに対して、 より明確で意識的なたたかいを提示するように思います。 よりくっきりと内面的かつ現実的な理解という指標を必要としているのです。ドナ・ウィリアムスを読んでいる沢山の方たちが、 このブログに適切な書き込みをしてくださることを望んでいます。私のアイデンティティ再確認の旅は、 まだ始まったばかりです。ケイコ
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