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「赤い自転車」を探して

赤い自転車
37歳の娘が逝ってしまいました。
私は32年間、「のえ」の母親であった。

のえ、ありがとう。
たくさんのことをくれて。

この敬虔な死を前に私は佇む。
私ができなかったことと、したことの間で めぐる過日。
のえを生んだ母親のパートナーとして、 もうひとりの母親として のえに感じ続けた時間をかみしめる。
関われなかった時間と向き合った細微の記憶がめぐり かみしめ続けている。
子の生と死を。
こみあげるものがある。
だが、受け止めなければならない。
死者は語りかけているのだから。

のえは多分こう思っているのだろうと想像できなくてわたしはぶつかった。
私の私らしさから生まれた経験から、私もそうだからなどと思うことが少なかった。
何度も、どうしてそうしていられるのかと。
わたしはぶつけた、こうは出来ないのかと。
もちろん、親らしくもある違和感を表出し続けたのだが。

のえが小さい頃は権力をもって伝えることが、 逆説的な意味を持つと信じていたから 大声を張り上げたり、体当たりでかかわった。
3日間も部屋の掃除につきあって時に食事をおあずけで、分類の方法を伝えたりした。 私から学び私を歓迎もした。
大人になってからも親子関係は逆転することなく続いた。
最近になって、時に激しくモウヒデコチャンワー!と怒るようになっていた。
わたしは、あの子への違和感を違和感としてしか消化できなかった。
そののえへの謎をどうして昇華できなかったのか。

パートナーと、その違和感を喧嘩の種にしただけだった。
のえは、最近その秘密をケイコの力を借りて解き明かし始めていた。

70年代、脳性小児まひの活動家たちが、ビラ配りで、ビラを受け取らないで自分の姿を拒否する人々にむしろ理解の種をみいだすと言ったのを聞いた。
私はその本質的な意味を知っていたのではなかったのか。
だが私は、のえの根源的苦しみまで見てやれなかった。
わたしは、違和感を32年間、私のやりかたで、かかわれていると調子よく思っていたが、その100をもの違和感がすべて、のえ自身の根源的苦しみから来ていたと気づいてはやれなかった。
わたしの100の違和感を乗り越えて、のえとすこしづつ語り合えるのがこの10月頃だと考えていたのだ。
この数カ月、のえの苦しみは、増幅していたのだろうか。
のえに助けられたと語るのえの友にのえ亡きあと何人も出会った。
知らなかった。
自分が助けられたいように人を助けていたのか。

たくさんの、のえの友だち。
お別れに来てくれた200人もに及ぶのえの友だち。
うたうたいのえ のブログに毎日訪ねてくる人たち。
のえに共感し、のえの唄に感動し、のえとぶつかった友だち。
いつも、のえを見守ってくれていた友だち。「赤い自転車に乗って」、さまようのえを探してください。
のえの「はなうた」とハミングできる明日の街で。
ヒデコ
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