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ヴィォレット・ルデュックの映画を観た、1940年代当時のタブーに挑戦し、同性愛者としても書くこと生きることをひとつに身悶えする姿に震えた


ヴィォレット・ルデュックの映画を観た、全編、私のことでもあったー
女性として初めて自分の生と性を赤裸々に描いた、
が男性作家に編集者に検閲に阻まれた
1940年代当時のタブーに挑戦し、同性愛者としても
書くこと生きることをひとつに身悶えする姿に震えた

この映画『ヴイオレット』の詳細には触れたくない。そんな宝物。
ものかきだしね。それでも、書かねばならないこともある。
大胆に時代の常識を覆した。むろん、それは並大抵のことではなかった。
同性愛も異性愛もごっちゃまぜの主人公はなんのこだわりもない。
それでも、ありのままを昇華した文学としての言葉にこめたとき、ジャン・ジュネなら許されたことが、彼女には待った!がかかる、そんな時代でもあった。いやいや今もそんなに変わるまい。日本では。
中絶を、女性同士の触れ合いを削るか控えめにするよう当然のように強要する編集者。

私も何回も何回も何回も、編集者、編集長とのたたかいを経てきている。
ほとんど誰にも言っていないし言う気もしない。だが、今日は最低限は言わせてもらおう。

「そんなものねえ。出版社の求める枚数でおさめなきゃあ、本なんて出せる訳ないでしょ」。
そう言った奴、出てこいよ。「うたうたい のえ」の人生…生まれてから、育ち、旅立ち、歌いに歌って、力尽きるように逝った、そんな、のえの人生を、ちっぽけな商業出版の枠におさめよーって、強要したように言ったんだからねえ。判ってんのか。おいおい。
「うたうたい のえ」の歩いた、走った、よろけた道はさ。商業主義のシンガーのまがい物のそれとは大違いなのさ。それにはそれだけのことがあるのさ。判っててて言ってんのかよー。

ある夏の午後、某出版社でかわされた編集者と編集長との会話、忘れるものか。
あんたら、刃物で切りつけるように、私の命削って書いた言葉を値踏みした。
「やっぱり、あちこちで後悔なさっているじゃないですかあ」
「後悔なんてひとかけらもしてませんよー」
「またまた、言葉にうるさいんですから」
「言葉にうるさいとか、編集者が書き手に言うのも考えものですけど、これは別次元のこと。後悔していたら、娘の一生に向き合うなんてできません。私は問いかけはけっして手放しません。手放しませんよ。それは後悔とは違うんです。お判りですか。」

ヴィオレットは、三作目に至って、ずたずたに検閲され…性描写やら含めてだ…枚数を減らされ、「ああ、私が切り刻まれる。怖い」と言ったきり、倒れた。
以後、心因反応と思われる精神科病院での休息の日々。

「ああ、私が切り刻まれる。怖い。」

耳を付いて離れない。けっして離れない。
一字一句とて、彼女の人生そのものからは削れない血も涙も汚濁もなにもかもがこめられた言葉なのだ。

先日、ある近県に住む友人がはるばる来て言った。なんのまえふりもなく。
「早く出してくれなくちゃ、読めないまま死んじゃうよー」。
あなたが70代になって、先行きがいつも不安なのは英子ちゃんと同じなのよー。
でもさ、英子ちゃんが同じ言葉を言うのとは全然違うんだよ。全然ね。

脅迫するなよ。
駆り立てるなよ。
なにを書いているか、判ってんのかよー。

ヴィォレットがあの『招かれる女』に感動し、シモーヌ・ド・ボーボワールのこころを捉え、やがてボーボワールが彼女を芯から見守る人となっていく姿もよかった。
後輩作家の、同性愛者としての思慕をたちきりながらも、逆に、友人とか同志とかをこえる、とてつもなく大きく深いものを育んでいくその微細なプロセスが見ものだ。

今もヴィォレットの声が私の耳をつく。
「私は生まれてこなければよかったのよー」
「私は書いていなければ、書いていなければ、なにもないの」

一人の激しい気性の才能溢れる女性作家を、精神科病院へと追い詰めるほどの、著名な男性作家で溢れるフランスの文壇に私は怒る。こころから怒る。
それがカミュであれ、ジャン・ジュネであれ、誰であれ。

立ち直って、あの超大作にして一世を風靡した「私生児」を著したのは、それからしばらくたってからのことだった。
そう、彼女は、母親だけの家庭で育った私生児だった。あの時代に。そして、苦悩と自己否定に揺れながらも、ボーボワールという巨星を助けに得て、自らの言葉と共に、広い世界へと旅立っていくのである。

著作に集中するとき、必ずや、大自然のなか、川べりや野原、木陰を彼女が愛するのもなんとも言えない眩しさと親近感が湧く。

作家としての途上で倒れた娘をいたわる母の姿もいとおしい。
長年の葛藤が透けに透けて、互いを癒しあっていくような、あのシーンのつらなりがいとおしい。限りなくもいとおしい。

彼女の作品は二十歳前後にほぼ読んでいる。

映画のなかで、ボーボワールが刷り上がった、
あの「第二の性」をヴィオレットに渡した。
見開きの手書きの献辞には
「第二の性をまっさきに
第一の性にしたヴィオレットへ」とあった。

見終わってから、なじみの映画館で
パンフレットを立ち読みした。

どの評者も、この女性作家の存在を
フランス文学専攻の書き手すら知らないと
堂々と書いていることに唖然とした。

2016年3月4日    米谷恵子
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| 出版という困難な旅路にて | 01:58 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

ヴィオレット・ルディックという作家は知りませんでした。
ボーヴォワールに見いだされたということ、興味しんしん。
そしてこういう人を若い時に読破していたという恵子にも驚異。
映画評を読んで思い出したのはジェーン・カンピオンが映画化したニュージーランドの作家ジャネット・フレイム。
私は著作は読んでいなくて映画しか見ていない。
なかなか長い映画だが宝物のように胸に残っているのは
その映画をよりどころにしようとした親友の思い出もあるため。
故郷に帰ってきて初めて精神病院に入院した友人は映画のチラシのコピーを所望した。そしてモバイルで入院個人通信を始め、
言葉をつづることで人生の励みを獲得しようとしていた。
チラシのコピーを大切に受け取った友人の祈るような様子をよく覚えている。友人はついにまとまった文筆は果たせなかった。
でも絞り出すような短文の数々は残した。
女「性」がありのままに生きようとし、表現することは昔も今もこんなに危険がともない、命がけとなる。それはありのままの生命を謳歌しようとする女「性」の営みが世界を創造的に刻むからであり、世界を破壊と搾取で支配しようとする勢力にとって脅威だからだ。

| KAGE | 2016/03/06 09:57 | URL |















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