メモリアルフラワーの紅い蕾がひとつ、ふくらみ始めたよ…釜ヶ崎の「夏祭り」に思いをはせながら…
メモリアルフラワーの紅い蕾がひとつ、ふくらみ始めたよ
…釜ヶ崎の「夏祭り」に思いをはせながら…
「うたうたい のえ」のシンボルカラーは、誰も忘れてはいないだろうな。そう赤。紅。のこされたエスニックな服も、布をつぎはぎしたようなデザインのコートも、野宿者にハンテンババアって愛をこめて呼ばれていたくらいで、なにもかもが赤が基調。
古着屋や、時には意を決して、高いものにも手を出してもいたみたいでした。
だから、むろん、亡くなって二週間ほどたって植えた記念樹も、赤い花のにしました。「のえルーム」の一年を終えて、どあっあって何もかから放たれた私は、しばらく、とある事情もあり、車椅子になるほど衰弱し、寝込んだものでしたが、あの年、この西洋芙蓉は、ものすごく律儀に咲いていたものでした。きっかりとお盆の時期に大輪の花をいくつもつけ、きっかりとみずからの命日の頃には、大輪の花々を驚くべきことに四十余り咲かせました。
「私は私でやるからね。頼むよ。英子ちゃん、恵子ちゃん大変だろうけど。」
そんな声が聴こえてくるような、そんな開花。まっ青な空に、赤い花が目にしみました。一日花だから、あっさりと次々と散るのも、妙に、のえに似つかわしかった。
一昨年、あえて、野原の中央となづけた、のえ…野央らしく、車庫の隣の野原に植えたこの記念樹は、イノシシの被害を受け、周辺のミョウガタケや大株のフキとともに、根こそぎ掘り返されてしまいました。
もうだめかな、と思いつつ、間もなく巨大な鉢を購入し、根っこだけになった記念樹を植えつけました。出てきましたよ、芽が。春を過ぎ、やがて夏にならんとする頃には、するすると大きくなりました。でも、すこし養生ねって感じで、木陰の目の届くところに置いていました。花は一つ二つ三つと、数えるほどでしたが、それでも咲きました。
はてさて、今年。集落の田んぼが見渡せる高台に置き直した大鉢の、のえの記念樹は、手入れを念入りにしたのもあってか、養生の月日が効を奏したのか、元気を取り戻し、今では、数えると40ほどの小さな小さな蕾をつけています。
いくつかの蕾はすでにふくらんできていて、今日ブランチ時に見ると、紅い蕾が今にも咲きそうに大きくなっているのが見えます。おお、やったあ。
折しも、今年は釜ヶ崎の三角公園での夏祭りの情報を伝えてくれる人との出会いがありました。そして、送られてきた小さな荒い作りの、いかにもという感じのパンフレットを見ていたら、のえが釜ヶ崎で出逢っていたはずの、あの人この人を、出逢っていたはずの、あのことこのことを、まざまざと思っていました。
当時は、鎮魂の唄を唄えるのは、のえさんとヘンリーさんだけ、と、まっさきに出番をおさえていたという話も聞き及んでいます。
そして、はたと気づいたのです。そうか、のえがお盆に律儀にも、あんなにも大輪の花を咲かせていたのは、釜ヶ崎の夏祭りへの尽きない思いも、そこにはあったんだな、と。
人から見れば、考えられないくらいマイペースで、自分の世界がつよくて、でも、繊細でたくましくて、一声発すれば、周囲を揺るがすほど魂の底からの歌声をとどろかせていた、そんな「うたうたい のえ」。
ヘンリーさんも、神戸の震災で、身近な身内を一家まるごと亡くしたと聞いています。
そして、のえも何人もの友人を、自死で交通事故で、次々と亡くしてもいました。
私は今思います。
どれほど歌にこめても、いかに表現に込めても、もはや生きる営みをつなぐことができなかった多くの人とともに、のえの2008年のその日の、その祭りを。
やぐらの上から、少女みたいに無邪気に盆踊りを見ているその姿に驚いたという、のえよりも十は若かったというファンの男の子の感慨を。
鎮魂の唄が唄える、ということが、どれほどの危うさをも内包していたかを思いつつ、
「こんなによくなっていいんだろうか。もっと気を抜いてもいいやないか」
と、じっと聴き入っていたという、音響担当の人の言葉をも思い出します。
のえ。咲こうとしているね。
私たちはお盆なんて本当は関係ない種族だって知っているはずだから、やっぱり釜ヶ崎の鎮魂の祭りにつらなってもいたんだね。
それでも、私たちも、お盆がお盆でもあるような日々をも、すでに知っているんだよ。
のえ。あなたの七年目のお盆がもうすぐ。
そして秋らしい風が吹くと、命日が近づいていると不意に打たれるように気づく私たち。
そのそばには、今年は、あの大輪の紅い花が、りんと咲く姿があるんだね。
のえがまっすぐに、鶴のように喉をのばし、体中をとどろかせて歌う姿勢みたいにね。
よみがえったね。イノシシなんて、なんのそのだよね。
まあ、私が根っこから助けだしたのは、しばらくは忘れないでよね。
2015年8月7日午後 恵子
…釜ヶ崎の「夏祭り」に思いをはせながら…
「うたうたい のえ」のシンボルカラーは、誰も忘れてはいないだろうな。そう赤。紅。のこされたエスニックな服も、布をつぎはぎしたようなデザインのコートも、野宿者にハンテンババアって愛をこめて呼ばれていたくらいで、なにもかもが赤が基調。
古着屋や、時には意を決して、高いものにも手を出してもいたみたいでした。
だから、むろん、亡くなって二週間ほどたって植えた記念樹も、赤い花のにしました。「のえルーム」の一年を終えて、どあっあって何もかから放たれた私は、しばらく、とある事情もあり、車椅子になるほど衰弱し、寝込んだものでしたが、あの年、この西洋芙蓉は、ものすごく律儀に咲いていたものでした。きっかりとお盆の時期に大輪の花をいくつもつけ、きっかりとみずからの命日の頃には、大輪の花々を驚くべきことに四十余り咲かせました。
「私は私でやるからね。頼むよ。英子ちゃん、恵子ちゃん大変だろうけど。」
そんな声が聴こえてくるような、そんな開花。まっ青な空に、赤い花が目にしみました。一日花だから、あっさりと次々と散るのも、妙に、のえに似つかわしかった。
一昨年、あえて、野原の中央となづけた、のえ…野央らしく、車庫の隣の野原に植えたこの記念樹は、イノシシの被害を受け、周辺のミョウガタケや大株のフキとともに、根こそぎ掘り返されてしまいました。
もうだめかな、と思いつつ、間もなく巨大な鉢を購入し、根っこだけになった記念樹を植えつけました。出てきましたよ、芽が。春を過ぎ、やがて夏にならんとする頃には、するすると大きくなりました。でも、すこし養生ねって感じで、木陰の目の届くところに置いていました。花は一つ二つ三つと、数えるほどでしたが、それでも咲きました。
はてさて、今年。集落の田んぼが見渡せる高台に置き直した大鉢の、のえの記念樹は、手入れを念入りにしたのもあってか、養生の月日が効を奏したのか、元気を取り戻し、今では、数えると40ほどの小さな小さな蕾をつけています。
いくつかの蕾はすでにふくらんできていて、今日ブランチ時に見ると、紅い蕾が今にも咲きそうに大きくなっているのが見えます。おお、やったあ。
折しも、今年は釜ヶ崎の三角公園での夏祭りの情報を伝えてくれる人との出会いがありました。そして、送られてきた小さな荒い作りの、いかにもという感じのパンフレットを見ていたら、のえが釜ヶ崎で出逢っていたはずの、あの人この人を、出逢っていたはずの、あのことこのことを、まざまざと思っていました。
当時は、鎮魂の唄を唄えるのは、のえさんとヘンリーさんだけ、と、まっさきに出番をおさえていたという話も聞き及んでいます。
そして、はたと気づいたのです。そうか、のえがお盆に律儀にも、あんなにも大輪の花を咲かせていたのは、釜ヶ崎の夏祭りへの尽きない思いも、そこにはあったんだな、と。
人から見れば、考えられないくらいマイペースで、自分の世界がつよくて、でも、繊細でたくましくて、一声発すれば、周囲を揺るがすほど魂の底からの歌声をとどろかせていた、そんな「うたうたい のえ」。
ヘンリーさんも、神戸の震災で、身近な身内を一家まるごと亡くしたと聞いています。
そして、のえも何人もの友人を、自死で交通事故で、次々と亡くしてもいました。
私は今思います。
どれほど歌にこめても、いかに表現に込めても、もはや生きる営みをつなぐことができなかった多くの人とともに、のえの2008年のその日の、その祭りを。
やぐらの上から、少女みたいに無邪気に盆踊りを見ているその姿に驚いたという、のえよりも十は若かったというファンの男の子の感慨を。
鎮魂の唄が唄える、ということが、どれほどの危うさをも内包していたかを思いつつ、
「こんなによくなっていいんだろうか。もっと気を抜いてもいいやないか」
と、じっと聴き入っていたという、音響担当の人の言葉をも思い出します。
のえ。咲こうとしているね。
私たちはお盆なんて本当は関係ない種族だって知っているはずだから、やっぱり釜ヶ崎の鎮魂の祭りにつらなってもいたんだね。
それでも、私たちも、お盆がお盆でもあるような日々をも、すでに知っているんだよ。
のえ。あなたの七年目のお盆がもうすぐ。
そして秋らしい風が吹くと、命日が近づいていると不意に打たれるように気づく私たち。
そのそばには、今年は、あの大輪の紅い花が、りんと咲く姿があるんだね。
のえがまっすぐに、鶴のように喉をのばし、体中をとどろかせて歌う姿勢みたいにね。
よみがえったね。イノシシなんて、なんのそのだよね。
まあ、私が根っこから助けだしたのは、しばらくは忘れないでよね。
2015年8月7日午後 恵子
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| のえと共に | 15:30 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑
今、ひどい夢をみて、目が覚めました。きのうの「小さな集い」が、当事者性がうすい人の登場で、話はきちんと通じる人なのに、やはり相当の不燃焼で終わって、不当感がつのって。その場にいるだけで、場をささえている、になっているという存在の意味が変わるからです。そういう人が、自分の希死念慮の時代を語るだけで、私はかつての猛烈な「被害」を食い止めんとして、「説明」する苦痛。
それに、13日、15日とふたつの訪問というか合宿が続いていて、そこでも、もう不当感をいかんともしがたく、妙な夢につながった。現実を処しても処しても処しきれない、そういう自分が追い詰められている夢。食事作りというか、大量のデザート作りで、あなたのグループのはやらなきゃだめよね、という罵倒にちかい注意喚起で目覚めました。
私はずうっと、魂をあけわたすことを強いられてきたのだと、最近、ものすごくつよく自覚しています。特にハッタツ系無自覚無意識な人たちに。それだけじゃないけれど。
それは、のえを亡くしたわたしが「利用されている」という感覚です。それが判らない人と、13日に話さなきゃならない負担感は会える楽しみより大きい。それが伝わらないと判った人たちと、子どもたちを交えて合宿をするという負担感が、楽しみより大きい。
私は奪われ、与えられることはない。食べることのみが金銭に換算され、のえとの日々、そして、亡きあとも、それほどの奪われる日々をもしのいで獲得してきた日々。
それを、メモリアルフラワーの蕾にゆだねたような気もします。これは多くの人には、「娘を亡くした母親の感傷」と映るのだということも、最近よくわかってきました。
そんなものである訳もないのに、どれほどの思いが変わらずあるのか、それでも北海道でも揺るがなかった私の芯にある大切なこと。裾野ひろく語る時には、私はレクチャー料をもらわなきゃ合わないよなあ。って思います。
釜ヶ崎であさってから、夏祭り。ある人とのエンで、そこにSotto虹のリーフレットが置かれることになりました。痛し痒し、で嬉しさ少し。でも嬉しいことは嬉しい。
透明人間でありつづけて私は終わるのだろうか。
一番花はもう咲いて、散りました。そろそろ二番目が咲くかな。、
| ケイコ | 2015/08/10 07:55 | URL |