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写真の表情が持つ奥行を思うとき…レズビアンマザーとして前に出て、そして自死でノコサレタ側として前に出て

写真の表情が持つ奥行を思うとき

心臓が止まりそうになった。FBのホームのほうは、英子とだけ「友達」だから、英子がシェアしているものとかも、やむなく見てしまうこともある。

どんなにその写真が良い表情で、沢山の人たち…この場合ほとんど女たちだけれど…その写真の雰囲気や顔の表情をベストだ、良い表情だと褒めて、まあ共感して、エネルギーをもらっていても、その人と私たちに何が起きたかが今や、おもみをまして来ている事実のなかで、やはり心臓が止まりそうになる。

「自死へのタブー」を温存している人たちだって、良い写真におさまることはある。それは全く否定しない。そして、これを私の「恨み節」と読み違えてもらっても困る。そうとしか読めないのだとしたら、まあご勝手に。いや、それはやはり困る。

私たちはあのレインボートークで、初めてレスビアンマザーが話すということで、密かに、大阪まで東京から駆けつけた人がいることを知っている。そして、孫が登壇している英子に花束を渡す姿にその人が涙したことを知っている。

あのEテレの番組で、「ようやくモデルが見つかった。それは自分の人生にとって実に大きなことだ」と言った人を知っている。

そして、新宿二丁目のアクタで私たちがトークショーをして、
「レズビアンマザーファミリー」
「あなたもハッタツ障がい?」
「自死を語る」
「見えない地方」
「エイジング」
という五つのテーマをかさねて語った参加者のアンケートに、
「となりの人がずうっと泣いていて、それほどのことかと思いました」
と書かれたことを知っている。書いた人を知っている。

私が希求してきたことは、「レスビアンマザー」という記号になることでも、もしかしたらシンボルになることでも、むろんモデルになることでもない。

アクタのトークショーでは、問題の根深さから、どうしても「自死を語る」というテーマにおもきがおかれた。私は今ほどの根本的な穏やかさを手にはできていなかったけれど、それなりにきちんと語れたとは思っている。

終わったあとに、「よくぞ、自死でのこされた家族として、映像になって前に出てくれました」と泣きながら語った若者がいた。自死でノコサレタ当事者だった。
彼は嗚咽しつづけて、私は彼の肩をそっと撫でながら「生きていこう」と二回囁いた。

マイノリティとして、前に出る、ということの意味あいが、自死でノコサレタ側の場合は、どう転がっても「売り」にはできない。売りにはできないことが、今の私を芯から支えもし、芯から脅かしもする現実を私は生きている。

しかし。
今や、あのマイノリティーは「売り合戦」ではないのかなあ。すさまじいウリ合戦ではないかなあ、とため息しかつけない昨今の私がいる。
渋谷区がどうの、連合会がどうのをこえて、その事実のみを危ぶんでいるところもある。
いや、何かが少しでも動いて、私たちの生きやすさにつながることはやぶさかではないけれど。

そういうなかで、自死でノコサレタ側であることを、公にし、言うべきことを言う私たちは、そもそも生きづらいセクシャルマイノリティーの彼らに、時に忌避され、よけられ、敬遠され、排除されもする。2011年の放送以来の偽らざる現実、きわめて大きな二次被害をこおむりつづけているのが現実でもある。

実のところ、SOTTO虹の営み…活動とは言いたくない…も時に、そういった無理解に、別の衣を着せた暴言や釈明で遠ざけられる。

かつて、私たちをモデルと言った人が、今や、良い表情の写真で褒め讃えられていることはいいことかもしれない。いいことであろう。

それでも、私と彼女は、人間として出逢いたかった。モデルにこそされても、人間として出会おうとしたとき、それが徐々に回避された事実の連鎖が思い出される。

彼女は、あのレズビアンマザーの映画「キッズオールライト」の宣伝時に、私たちの番組出演が時期的にかさなったのもあって、私たちの写真とメッセージをフライヤーに入れることを依頼した側でもある。かくして、新宿二丁目で私たちの顔入りのフライヤーがばらまかれた経緯もある。

それから、ある大学でLGBT交流会というのが開かれたとき、「僕たちの未来、開けたよねえ、「キッズオールライト」もあるし、○○もあるし」とフライヤーで宣伝されようとしたことがあった。〇〇は他でもない、私たちの番組名。
でも、ハリウッドの映画と、生きてこの日本で、覚悟と決心をして、ベロ亭まるごと私たち二人のみならず、育った子供達も出演した番組を、なんの説明もなく並べて語る、不用意さと無神経さに私は度肝を抜いて、抗議したことがあるのだ。

その意味は理解されなかったと思う。「うるさい地方のおばあちゃんたち」にそれからは、私たちは徐々に、急速になっていったのだと思う。

ハリウッドの女優は出演すれば、多額の出演料を手に入れる。役者である以上、とりあえず痛くもかゆくもない面がつよい。
だけど、どんなんだ。村八分も決意して、村八分にされる前に出る必要があったら出てやるぞと決心して、顔も出し、レズビアンマザーの子どもたちも出て、そして、孫も出て、そして、亡き「のえ」の事実も「さらした」私たちはどうなんだ。

どうして、そこにデリカシーが働かないのか、私には判らない。永久に判らない。
そして、こういう投稿を「妥当性のある抗議と権利のメッセージ」と受け止めず、
「有名になりそこねたことを、娘を亡くしたこととセットで「うらむ」地方の最果てに住むおばあちゃんたちの愚痴」と取る当事者たちの、なんと多いことか。

人間でありたいだけだ。
人間であることは、自らの問いを手放さないことだ。
そして、やがて人生そのものが問うてくる声に聞き耳を立てることだ。

素敵な写真が悪いわけではない。

この一年余り、なにを交信しても無視を決め込んでいる、その人がいくら良い表情をしていようと、それはやはり、心臓が止まるような出来事だ。

それでも、かつての都立高校の超有名人のクラスメートが、徐々にまともな表情になっていったのを、看板やコマーシャルで見たのと同じくらいの、感慨があるにはあると言っておこう。

いい表情だ。あんなに無表情だったのに、少しは解放されたかな。少しは大人になったかな。それなら良かった。

ならば交信してください。
でも、求めてはいないよ。強いてもいないよ。

その笑いの、その表情の中身とできるものならつながりたいから。
その中身が、人間としてのものであるなら、つながりたいから。

いっぱいいっぱい悩んだりもしたんだろうな。それはそれ。
私たちが要らなくなったことはよかったかもしれない。
でも、あなたが、かつてレズビアンマザーが登壇することに駆けつけたその日の、
そして、モデルを見つけた番組に大きな意味を見出したことを、
今すぐでなくとも、いつかは人間として、具体的な私たちの存在とも、具体的につながっていくものなら、と少しは祈ります。少しはね。

どんなに、フライヤーを送ろうと、どうしようと、なんの反応もなくなったとしても。

少しは祈ります。
そして、私は沈黙の外に追いやられることは、ごめんなんだよ、と私の妥当な権利をここに書き留めます。

米谷恵子    2015年4月15日夜


追記 これは「SOTTO虹」のFBに書いてから、転載したものです。一ヶ月ほど前から、私ケイコもFBを始めて、
どうしても、ブログがとどこおりがちです。英子のラインなどに、大事な内容がシェアされては消えていく危惧を覚え始めています。大事な内容は必ず、ブログにも転載するようにしますね。

それから、今日、若い世代と中高年の一般の人々では、セクシャルマイノリティの意識がものすごいギャップ゜があるという世界レベルの調査結果があると、ある人が言っていたと、さっきヒデコが言っていました。
そんな調査、「フクイが住みやすさ日本一」という調査と変わりないほど、いい加減なものだと思います。
都会でも、LGBTの若者の自殺は頻発しています。
そして、少なくとも、これは私のきわめてリアルな実感ですが、自分のレッテルと化したステレオタイプなマイノリティー性のみに住み分けて、そして、固まることで安息を得たり、という意識、つまり渋谷区で、セクシャルマイノリティが何やら認められた様子であったとしても、…それも問題だらけの内容ですが…、やはり一方で、野宿者が排除されている現実。それには言及しないマイノリティは、ほぼ昔から変わらないステレオタイプな当事者像を求めているかのように私には映ります。

レズビアンマザーであること、すでに四十代前後の4人と天上の1人の、かつて私たちの子どもだった人たちのことを思うとき、多種多様な生きづらさ、マイノリティー性を手放すわけにはいかないのです。
そして、今は亡き、娘ののえが、野宿者のテント村を最後の居場所としたことも手放すわけにはいかないのです。

ケイコ
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| マルチマイノリティの現実 | 21:43 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

「カミングアウト」の言葉の重みさえも
表面的なテレビ娯楽用語に変えてしまう残酷な社会で。

「ハートをつなごう」に出演し語ったベロ亭かぞくの姿は
まぎれもなくこの社会の中で生きている者のありのままだったのだ。

 痛み・悼みをいだきながら生きること、
だからこそ人とこころからであっていくための努力を惜しまないこと。あたりまえのねがいが、
 なぜこんなにも難しくなっているのか。

 戦争を肯定する歴史の積み重なりが
人間性を傷つけ薄っぺらにして
取り戻すことができないままなのか。

魂のたたかい。

声を無視するな。
声をきけ。

目の前の者の声も
自分自身の内なる声も

| KAGE | 2015/04/15 22:38 | URL |















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