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取材される空しさ知っていますか…本日「北陸中日ポプレス」にヒデコの大判記事掲載

取材される空しさ知っていますか…本日「北陸中日ポプレス」にヒデコの大判記事掲載

なんだか、やりきれないほどさびしい。
なんだか、やりきれないほど空しい。
もしかしたら、紙媒体となって明日届いたら、少しでも変わるのだろうか。

ヒデコがネット上に挙げたら、すでに石川県や富山県では、紙媒体で読んでいる人もいて反応があったり、まあ、今日からはポプレスがネット掲載になったから、それを見て読んだ人も全国に現れて、反応がそれなりあったり。

一番に反応してきた女性は、「丁寧な言葉選び」や「真摯な筆致」を感じていたし、また二人の写真がいいって言ってくれて、で、読んで「少し落ち着いた」という記述もあり、これは「手応え」のひとつとして私の中に刻まれた。ふたつのマイノリティ性がかさなっている方でもある。


正直言って、「取材」って大嫌いです。特に新聞や雑誌の取材は。いや、テレビ番組ももう嫌いになっているのかもしれない。テレビのほうはまだ2、3回だけれど。

こういうことを言うと、「そんなもんですよ」と言う人は、取材と同じくらい嫌いだ。
というのも「そんなもんにならないように」血の出るような努力の蓄積の果てに、記事になることをのみ、私は「取材」といっているからだ。小さな、告知記事とか、そういうのは無数に受けてきたけれど、そんなのを金科玉条のように思っている人もいるけれど、そんなこととは全く次元の違うお話です。

人生を賭けた、…人生に触れられればおのずとそうなります…そういう取材とは、「時ならぬ侵入」を「時ならぬ実り」にする、ある種、拷問のようなプロセスをへた蓄積の果てに、その記者と緻密な確認を経て、ようやく結ぶ「ちいさな奇跡」で初めて、なんぼのものだからです。

今日だって、なけなしの貯金を下ろしたベロ亭。どん底を感じる瞬間。

記事のヒデコ、手書きの見出しには、「食ってはいけない人間を出さないこと」とある。

もうひとつのヒデコ手書きの見出しは、「弱さを認められる自分と社会をつくること」。
もうひとつは、「なんでも言える世の中にすること。」

久々に、のえの原稿の続きというか、推敲に戻った。涙なしには書けない、ある男性の聞き取りに基づいた三章にまたがる内容の処理にかかわる表現を追求した。
すると、余計、「記事という成果」がちっぽけに見えた。

というのも、私には目を疑う、
校閲の人が勝手に訂正した「自死で残された人々」という漢字表記があったからだ。
「遺される」としていたはずだった。
電話すれば、記者は校閲の人に押し切られた形だった。
すでに、全文、確認を何往復かはしたあとの、「残された」という表記に、私は正直言って、他の記事の表現の達成感も吹き飛ぶほど気が滅入ってしまった。
鍵のあかないトイレに閉じ込められて「残された」訳じゃあないんだよ。

名古屋在住の記者稼業の友人に調べてもらって、常用漢字の読み方としては、「遺」という漢字は、「イ」「ユイ」しか読み方がないとされている中で、「遺される」という表記は、新聞社の裁量か、無知かで、使われる場合もあると知った。

つくづく考えた。なぜ、どちらにせよ「ノコサレル」が受け身なのだろうか、と。

ともあれ、記者は「のこされる」という平仮名表記を主張するべきだったのではないのか。

これは重箱の隅の問題でもなければ、針小棒大に物事を捉えている訳でもないテーマだ。
つまり、「遺族」という表現を使わないで「通している」私たちが避けて通れない課題なのだ。

確かに、いつの間にかなくなっていた三行ほどがあった。入っていなかったはずの「も」という助詞で、ずいぶんとニュアンスが違うことにも気づいた。「も」が入っただけで、推測する様子をにおわせて、やや週刊誌的になってしまう、とヒデコは語った。


ああ、どれだけの時間とエネルギーと、文章への姿勢などなど、お伝えさせていただいたことだろう。

それは、書き手でもある私と、記者との丁々発止も生み出した。
「丁々発止」ができるように、それ以前にハッパをかけたという経緯もあった。

でもね。60代の私たちについて、ヒデコについて、
30代半ばの女性記者が書くんだよ。
「それは当事者しか書けない、言えない表現です。」
そう彼女が頑張ったこともあった。それに対して、
「そうだとしたら、そこに行き着くまで取材するか、言い換えるか。
でなければ、「」つきの表現にして、私とかヒデコが言っている、
と判る表記にすべきだろう」と私が頑張ったこともあった。

その上で、
「結局、30代半ばと、60代後半という年齢差、
時代差の温度差に耐えるのかなあ」とつぶやいたりもした。

語っていたのは、実に「人生を凝縮した瞬間」のことだった。
だけれど、記事なんてものになってしまうと、なんだかうすっぺらく、
リアルな実態をいよいよ失ってしまうのではないのか、
少なくとも今日のうちの反応を見ていると、そう思うところが募る。

「良い記事ですね。」
そう言われてなんぼのものなんですよ。
そのために、どれだけエネルギーを費やしたか、
あなたはご存じないではないですか。

「あの記者さんは、実に誠実で真剣で、よく調べられて…」。
だから、受けました。それでも覚悟しました。
あったりまえだろう。


なにかとてつもなく空しい。

私は書き手だ。詩人だ。物書きだ。それを声で表現する人間だ。

私たちは、「記事」になってさえ、「良い記事ですね」とたたえられ、
食いつなぐことはできない。

私たちは、「記事」になっとさえ、助詞の「も」に、
週刊誌的な勘ぐり根性を見てしまう。
弱さなんて認めない、という前提の。

私たちは、「記事」になってさえ、
「なんでも言える世の中にすること」なんてほど遠い、
「残された人々」としてつまづく。

ばかなって思う?
気にするなって言える?

そもそも、「のこされる」という表現が、
立場性しか語っていない、
まさに受け身の日本人の心性を背負った表現なのだ、
そう気づく今。

サバイバー、という言葉の奥行きを、たった今、
英語の専門の方に東京からの電話で確認した。
サバイバーは、「のこされる立場」というところから、
もう一歩踏み出した、「通り抜けた人間」という主体性を帯びている。

そういう日本語ってないのか?

取材される空しさのただなかで立ち止まる。

あの公共放送のアンコール放送を受けたとき、
「断腸の思い」だったと多くのLGBTは想像すらできなかった。
喜んでいる、と幼い子どものように思っていた。

いや、「断腸の思い」を想像できる人もいたかもしれない。


ただ、私は今、余りにも違うところに来ている。
一字一句が、人の生き死にをになった表現を追求しながら。

一言一言が、人の心の扉をそっとひらく、
そんな人の生き死にをこころした表現を希求しながら。


そんななかで、記事を読む。

ありがとうね。ここまで書いてくれて。
ありがとうね。ここまで頑張ってくれて。

それでも、私は「残された」につまづいてしまう。
そこには、私たちの立場と姿勢からはみだす、
日本語があてられているからだ。

そうして、私は仕上げに向かって進む。

女性記者とのすさまじいばかりのやりとりに、
私も成長した部分も正直言ってある。

「ケイコの面白文章教室」を期待している人の多さに、
アンケートで気づいたけれど、
ずいぶんとそのコツもつかんだかもしれない。
たくさんの空しさと使命感と共に。
たくさんの言葉の機微と、
人と人のあいだにある、言葉の妙と沈黙の合間で
あえて思いださなかった遠い記憶が
一挙に意味を帯びて浮き上がって。

ありがとうOさん。

マルケスの『幸福な無名時代』読んでますか。

あなたの記事が説明や紹介で終わるのは、
ヒデコの人生にとってあまりに残酷だと思った私が、
紹介したその本。

表現ってなに。
表現って。

言葉の向こうにあるものをにらみながら、
私は空を見る。
雪を見る。
人の声を聞く。
ニュースを見る。
ヒデコの大工仕事の音を聞く。

ケイコ

★ツイッターにつないだので、少しずつお気に入りに入れられたり、
 リツィートされているみたい。
★そのうち、かなり身近な人がしたのは、
 「ぬか喜び」なんてしない私たちを喜んでくれたのね。
 こういうほうが嬉しいこと。ホントに。
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| ベロ亭から | 22:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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