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父の生誕百年の日に、大切な手紙を5通出す

1月も20日を過ぎると、父の誕生日が来ることを意識する。
そして、気づけばうっかり過ぎている。
その翌日は、大事な友人の誕生日でもある。

はたと思った。
今日は父の生誕百年のその日じゃないか。
百年ってそれはそれですごくないかー。

気づけば、父に語りかけていた。
「ねえ、お父さん。あんな時代に生きなければならないのでなければ、
お父さんは本当はどんな人だったんだろうねえ…」

父をひと目見て、「ケイコちゃんとそっくり」と言ったのは、
後にも先にもヒデコだけだった。
あれからも一体何年がたったろう。

ヒデコは私の実姉の夫の葬儀も、もっと前の私の母の葬儀も
それから、ちょうど10年前の父の葬儀もすべて、顔を出している。
受付を共にになったあとに、親族席には彼女の席がなかったこともあった。
難病だった姉の夫の葬儀のときのことで、
姉もめいっぱいだったけれど、少し経ってから、姉には「抗議」もした。

私はヒデコの両親の葬儀には行っていない。
ヒデコの姉たちが私の存在を認めていない以上は顔を出せない。

むろん、ヒデコの姉たちは、のえが亡くなった直後のお正月に、
堂々と年賀状をよこしたし、
弟のカラに「あなた一人になったのだから頑張るように」と、
少しは理解のあるはずの長姉は年賀状に書き加えた。
あと三人が、のえの姉妹だって忘れていたではすまない話だ。


父の話。

陸軍士官学校…今の防衛大学だ…を出て、
職業軍人となった。終戦の年には30歳だった。
そうか、今年は終戦から70年だから、ぴったり、間違いない。

私の生まれた1952年、昭和27年。
自衛隊の前身となった「警察予備隊」に入ったという。

軍人だった父が、母と共に終戦直後にどれほどの苦労をしたかは、
ついに二人とも語らなかった気がする。

「ねえねえお母さん、どうだったの。
朝鮮半島で兵隊さんが、いつも雑用をしてくれて、
そのときがいちばん楽だったって言っていたけど、
そして、皆がゲーゲー吐いた揺れる引き揚げ船で、
ひとり、けろりとしていたというけれど、
どうだったの」

「ねえねえ、お父さん、どうだったの。
ヘリコプターに乗るのが本当は震えるほど怖かった、
そうフクイにきたとき言っていたけれど、
お父さんにとって、最後まで信じていた、
戦争ってなんだったの。
そして、ろうあ者だった弟…私にはおじさん…とともに、
13歳のみそらで、両親のもとを離れさせられたことを、
最後の最後まで、そう痴呆になるまではずっと、
父の父にどうしてそんなことをしたのか訊きたい、
と言っていたけれど、どうだったの」。

今だったら、そんな母や父とも話せるような、
いいや、やっぱり離せないような、
いやいや、やっぱり話せるはずのような。

お父さん。
ケイコね。
今日ね。大事な手紙を書いたんだよ。
5人の人にね。
投函が遅くなったから、着くのは土曜だけれど、
それでも、大切なことは大切って、
のえが教えてくれたんだよ。
お父さんは、ひい孫の「イオン」くんにも、
赤ちゃんのときに会っているよね。

お母さんは、小学生だったカラを、
寝床に入れて、ガンの末期だった1988年になる前の冬だったか、
抱きしめて、小さいカラもそれを受け入れながらも照れていたっけね。


今日は、たまには自分の育った家を思い出す日。

数日前には、
千葉の姉から、私の「とっておきのプレゼント」が届いたという、
喜びの電話も入った。
ありあまる水仙の芽が伸びだしたのを、
隙間につっこんだのがいちばん嬉しかったみたいでおかしかった。

父も「園芸」は好きで、
京成バラ園が近くて、バラ造りに精を出していたときもあったっけ。

母は、料理が好きで、ないものから不思議になんでも作って、
料理とはそういうものだと思っていた私から、
その才は、いよいよワイルドになって、のえに受け継がれてもいたんだった。


お父さん。
生誕百年なんだね。
一世紀たったんだね。
大正4年。1915年1月22日、
あなたは生まれた。
あのおばあちゃんのお腹から。

そうして、引き継がれたなにかが、
血の流れとともに、今の私に息づいてもいる。

あと半分の血の流れについては、しばらくは控えよう。
最後の切り札だから。

お父さん、1月22日生まれ。
わたし、2月11日生まれ。
姉、4月22日生まれ。
母、8月21日生まれ。

なんかおかしくないかな。
そんなことを今でも思う。

2と1にまつわる数ばかり。

のえは12月21日生まれ。

それでも、カラは4月10日生まれ。


まあ、たまには、
DNA関連話題で終わらせましょう。

お父さん、百年前に生まれてくれてありがとう。
そして、今、私は生きている。


あなたの「戦前のままの頭と心」から学んだ、
様々な葛藤、ありとあらゆる「わかりやすさを疑う」視点とともに。

あなたの「日教組が悪い。女は馬鹿だ」、
にちゃんとに触発され、疑い、生きられた私は幸運だった。


それでも、
あなたが最後まで、あの戦争が正しかった、
そう信じていたことは、今も私の宿題だ。

この時代の揺らぎのなかで。
この世界のどよめきのなかで。


そして、百年前にも、
その時代の揺らぎはあり、
この世界のどよめきはあったはずだ。


そんななかで、
ろうあ者の弟とともに生きたお父さん。

今日は生誕百年なんだね。

私はその日に、
大切な手紙を5通出した。

あなたにではないけれど、
大切な手紙を5通だした。


ケイコ
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| 生と死のあいだで | 17:33 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

そうだったんですね。今年私はふたりの祖父の、主に戦争時代の足跡をたどろうとしています。一人は1903年生まれ。恵子ちゃんのお父さんより12歳上か。若い時特に思い出すこともなかったおじいちゃんの瞳を、今頃すごく鮮明に見ます。そして彼に語りかける。おじいちゃんは高校生の私に南京事件のときいたことを打ち明けてくれたね。私はおじいちゃんの戦争体験を後世に伝えたいよと。追記・生年が加わると生年月日から導きだされる数字の意味がまたはっきりするんだよね。数秘術の種本で前に話したよね。なかなか奥があってあなどれないよ。

| KAGE | 2015/01/22 21:15 | URL |















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