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息子が20年前に、急死に一生を得た日に、「自死フォビアはホモフォビアだ」という表現にたどりつく

用語解説
フォビアとは、いわれなき嫌悪感、忌避感をさして言う。
おそらくラテン系の言葉が語源だ。
南米では、ペルーフォビアがあるんだもの。
いわれなき…何がどういわれなき、を解体して、
分析して客観的に、直感的に向き合わなきゃいけない、
差別よりは、侮蔑に近い、原始的な感覚のような気もする。




本来なら、あの日に急死に一生を得た、16歳で神戸の六甲に住んでいた、
そんな息子のあの日の始まりから、向き合うべき20年という節目の日です。

阪急の沿線からほんの少し高台にあったアパート。
大工さんがはすかいなど、かなり手を入れていたから、
木造りでも、傾ぐ程度ですんだアパート。
むろん、すぐに「全壊」指定になって立ち入りは、
おそるおそるだったけれど。

その一階の角部屋に住んでいたので、
六甲道の駅がぺしゃんこになっている映像をリアルタイムに観たときは、
いったんは覚悟したんだった。

その瞬間はなんと震度4ほどの揺れを、ここでもたしかに感じながらも、
寝直した私たち二人。
これ以降、必ずテレビで確認という習慣は身に付いたけれど。

7時前に「カラくんは大丈夫ですか」という息せききった、
ある年配の方からの電話があった。
「カラは神戸ですけど」
「その神戸が大変なことになっているんですよ。」

8時半にカラが列ができていた公衆電話から、
「ともかく生きているからね。ポッケっとに十円あったからかけた。
並んでいる人いっぱいいるから切るよ」
とかけてきたとき、とんちんかんでなくて本当に良かった。
いや、何よりも生きていてくれて、良かったんだけど。

私たちが被災地に出向いたのは、
それから2週間後のことでした。
そのかん、彼は、
まだまだ若い16歳の少年は、
たくさんの埋まった人たちを男たちと掘り出す、
そんな作業にもいつの間にか加わっていた。
そして、病院に搬送後、
彼の腕のなかで息を引き取った人もいた。
その直後、外に飛び出して叫んだという話も聞いた。

気づけば、まだ一切整備されていない、
体育館だか公民館で、
そこにいた「大人」の人の指示で、
遺体の数を数えていた。

そんな息子の16歳の、まるで戦場みたいな体験を、
つぶさに聞いたのは、
一年後に、あるリーダーとカラが、
フクイの看護師養成の学校に話に来たときのことだった。

はたして私は、そんな息子の体験に追いついているのだろうか。

追いつかなかったから、それ以降の息子の、
ありとあらゆる、予想外の出来事があったのだろうか。
いやはや、天災だけれど人災と、よくよく彼は見ていたのだ。

そんな言葉を記したTシャツをつくったこともあったっけ。
そんな渾身の作を「人権団体」から批難されても、
守ってくれる大人は一人もおらず、
ヒデコがリアルタイムにフォローしたのだった。

それから、「最年少の単身世帯の紛れもない被災者」は、
二ヶ月かそこらたってから、
「ちびくろ救援グループ」で動き出し、
今も続くパートナーと出会い、彼の子どもも今や受験生となった。

あのテント村が、本当に単身で神戸にいた、
そんなカラにどう作用していたのか。

あのテント村の主みたいでもあり、
シンボルみたいでもあり、
皆が仮設周りなどで、
どう被災者をサポートしたらいいか判らないときに、
ミーティングの席で、何気なく皆に語りかけもしていた。

そんなカラを、実のところは、
あのテント村の大人たちは本当に守っていたのか。
「まだ十代の若者をどう生かし、どう利用していたのか」
これは、あくまでも私たちの立場からの発信だ。
そして、それは永久に消えない疑問だ。

今でも、そう東日本が大変になってから、
それ以前にも海外で何かがあれば、
カラの病気がなんたるか少しも判っていない、
もと仲間とか、もとリーダーとかが、
すでに中年や、立派な大人になっているはずの奴らが、
「一緒にボランティアに行かないか」と誘うと聞く。

それがどうカラに残酷で無神経なのか判らないのか。
誘われる嬉しさをしのいで、カラが自分の足元に立ち返る、
そのときの気持ちを思わないのか。


書けばつらつらと、いくらでも出てくる。

「ここはそういうところではありません。
テント村に住む、一人一人のことなど考えてはいられません。」

あの滑り台の高いところから、
まさに高いところから見下ろして、
言い放ったそのリーダーの言葉を、私は一生忘れないだろう。

最初は良かったかもしれない。
そして、単に誰のせいかなどという気もない。

でも、カラは16歳の単身の被災者だったんだ。
そのことを芯から判っていた奴がいたのか。

カラはいい加減な奴なりに、
みんなの不思議なサポートをも、それでもしていたりした気がする。
むろん、カラの側もたくさんの心配をかけたろうけれど、
誰もが、誰をどう支え、補い合ったりしたらいいのか、
そんなのはすべて暗中模索だったのは、知ってはいるし、
十分に想像できるけれど、
それでも、ただ単にやむないなどと言えるのか。



そうして、息子の人生は20歳から変わった。





今日は二人と大事な電話で話せた。

あの日、「とてもカラくん大丈夫」と恐ろしくて聞けなかったやつの話題。
そう、のえのときも、同様な対応が今に至っても続いている、
憎めないけれど、そういう揺らぎがその人らしい愛すべき人の話題。

私が心配している人たちに、無事のはがきをきちんと送ったら、
「どんなに心配していたか。知らせてくれてありがとう」と言ってくれたその人の話。

今なら言える。
だったら、さっさと電話でもなんでもしたら良かったじゃないか。
友達だったし、今でも友達なんだから。

いやいや、もっともっと。
もっともっとその電話では別のことも話したよー。
その人についての最初の話題が、震災がらみであり、
のえがらみでもあったのだった。



それから、地元の古い友人にも機が熟して電話した。
とっくに熟していたのかもしれないし、
遅きにすぎた電話だが、まだまだ間に合う電話だった。

「いまでもいちばんすき」。
その言葉がつきささったまま、私のなかで慟哭した。

「いまでもいちばんすき」。
恋人を自死で亡くした、地元の旧友の言葉。
いや、正確に言うなら、
女たちのたたかいを一時期、
共に駆け抜けて、一旦関係が破綻し、
そして、のえの急逝で一挙にそれを飛び越えた人。

私には、今年はヒデコと出会って40年の年。
聞けは、彼女には、彼に先立たれて40年の年だった。
喪失を抱きしめながら、
慟哭をにないながら、歩き始めた23歳の事だった。

そう、彼女とは、私は一日違いの誕生日。同い年だ。

急逝を知らせる葉書に、泣きながら電話をしてきてくれた。
「よく、私になんか知らせてくれて。ありがとう。
知らなくて。」

のえを亡くしてから、はじめて会ったとき、
あんなにも自然に抱き合い、そして大泣きに泣けた私は、
私の悲しみのねっこを知っていた彼女の懐の中でだから、
泣けたのだと、思ってはいた。
とはいえ、まさにそうだったのだといよいよ思った。

あのあと、どうして他の人とはそうできないのだろう。
そういう疑問が少しずつ湧き上がってもきた。


どれほどの恋や愛にまつわる、悲劇が、
自死のなかにも含まれていることだろうか。

「いまでもいちばんすき」。

ありがとう、話してくれて。
ありがとう、話してくれた。
お互いがそうだった。

やむにやまれぬ仕事の場で出会った当時、
彼女はいつもため息をついていた。
いかに気にかかったか、そんなことも口に出した。

まだ直後のことだった。



あとの電話はつながらなかった。
ある大学の先生も、
地元の分かち合いを営むある議員の人とも。

夜は、疲れきった心身で、
ある新聞記者の六回目くらいの確認作業に心をくだいた。
疲れきった。拷問のようだった。

さっき、また書き直した文面が届いた。

おいおい、見て感じて、聞いて触れて、
そして、言語化できないわけー。
この表現、一歩間違ったら、私への侵害になるんだけど。


あいだには、例の懸案事項で連絡をとったり、
それもまた、わずらわしかった。

「しんどい」から私たちを避ける?
「しんどい」からこのテーマを避ける?


そして、どんどん性的少数派の若者も中年も老年も、
見えないところで死んでいるんじゃないのか。
自死しているんじゃないのか。

カミングアウトなんて遠いままに、
あるいはカミングアウトの爪痕のままに、
そうして、自分をこの地上では抱えきれない、
そう立ち止まってしまって。


そうか。
わかった。

彼らの自己否定はまさに内なるホモフォビアなんだ。
だから、自死フォビアに行き着くのだ。
つまり彼らの自死フォビアは、ホモフォビアとイコールなのだ。

そう思考がいきついたら、
ばかばかしくて、なーんだ、ふりだしかあ、
と拍子抜けしたみたいに、私は佇んでいる。

悲しみと虚しさとか交叉する。
それでも、揺るがない自分に、
去年とは違う自分をも意識する。



今日は、息子の20年の節目に、
きちんと共に向き合ってやりたくもあった。

もうそんな助けなんて必要はないのは判ってはいても。


自死フォビアはホモフォビア。
そう、ホモフォビアは自死フォビアに行き着くのだ。

なんと悲しい発見。
今さら発見なんかじゃなくて、言葉が浮き出してきただけ。
浮き出した言葉の単純さが、
その問題の深淵をたたきつけるだけ。

でも、そう。
紛れもなくそう。


みんな、なにが「しんどい」んだよ。
自分がしんどいんだろ。

私と会うのが、しんどい訳ないじゃないか。


勘違いはいいかげんにしてよね。


でなければ、
せっかく逆境をつきぬけた私たちを、
殺すことはできても、
生かすことはできないのだから。


20年前、息子は助かった。
20年後、私は息子の声がヒデコの電話口から聞こえるのを聞く。


6年たった、のえの声は聞こえない。



それでも、私は、のえの声を聞く。

Rちゃんが言ってくれたように、
ケイコちゃんのところに戻ってきた、のえの声を聞く。

「うん、また、のえちゃん、
またどこかに旅立つかもしれないけどねー」
彼女は笑って言った。

17年かかって、人知れず、
愛しい人への慟哭に向き合ってきた彼女と私の、
宝物のようなお話。

彼女の40年を思いながら、
私たち二人の絆の40年を思う。


のえへの悲しみ、
カラに起きたことの怒り。

なにもかも手放さずに、
それでも、何度も旅立つ彼らを見る。

私は遠くから、見る。

今日も、明日も。



ケイコ
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| 生と死のあいだで | 03:31 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

20年の歳月のおもみ。生還したからくんと会話し関係を重ねられるありがたさ。20年前故郷で自死した友人の人生について、人とほとんど語れないままきてしまったこと。精神も肉体もやっと20年を生きながらえて、自分のいのちの使い道を真剣に考える。

| KAGE | 2015/01/18 09:47 | URL |















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