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世界もフクイも「暗闇」でも、中三の孫に手紙を書こう…フクイ弁の無アクセントの考察から

世界もフクイも「暗闇」でも、中三の孫に手紙を書こう…フクイ弁の無アクセントの考察から


一日、ブログをおきました。昨日は、ヒデコに調整のためにパソコンを取られていたのが幸いして、街中から帰宅し食事して、間もなく夜9時から今朝9時まで、久々の爆睡とあいなりました。一旦、パジャマに着替えるのに起き出して、読書した1時間はあるけれど。
ものすごく疲れていたんだと判りました。我に返るという感覚を少し思い出しました。


さて、北アフリカのある国で、女たち二百人余りが、西欧風の教養など身につける必要などない、女は結婚させるための存在である、として、イスラム過激派によって略奪されたというニュースをヒデコから聞きました。
私はいまだ検索する気力がありません。アルジェリア? だとしたら、あの映画『アルジェのたたかい』の国ではありませんか。西欧の植民地支配のアトノ内向した抑圧と怨念が、こんなふうに自国の女たちに向いてしまうなんて、ありえません。違う国だったら勘弁。すいません。

今、ヒデコが検索しているのを観たら、
「ナイジェリア」でした。
昼間、彼女が地図上の位置を言って、
アルジェだとしたら、少し妙な気もしたのです。
南米にいると現地の人に、中国や韓国が大変だと日本のことのように思われる。
ペルーの近隣諸国で地震があったら、
ペルーにいる私たちのことを、日本人が心配する。
そんなことを自分もしているかも、と一応思っていた、
わたしの怠慢を告白しておきます。

YouTubeを観て、「アラーの神が言っている」と言う、
過激派の言に、宗教的というより病的な狂気を感じました。
その辺りからのアプローチってないのかな。
彼らは絶対的に悪い。
でも、絶対的に悪くなる、その背景は?
と思います。でなければ暴力はなくなりません。


しかしながら、世界中、まだまだ、女性へのありえない仕打ちは、「よめっころぱし」ならずとも、延々と続いていると認めるのは、あまりにもひどい、と憤りとともに思います。
できることは、しなければならないはずです。

実は、昨日は「まな板の上の鯉」状態で、フクイの発音の話にあいなりました。一週間に一度のある人との語らいです。いや、その人の語りをほぼ一方的に聞くことも多いのですが。

中三のおいっこに英語を教えているとか、から話は始まりました。その人は、確かに言ったものです。ありゃりゃ、私が「トーキョー嫌い」をなにかと表明するようになったら、フクイの人たちがわりに本音をしゃべってくれるようになったんじゃないか、と思えるようなお話がつづきました。なかには、うーむ、聞かなくともいいんだけどー、と言いたくなる話もありますが、まあ、最近はわりに聞ける話止まりなので聞くことは聞くし、こちらが言えることは「まな板の上の鯉」でも言います。

確かに言ったこと。
連休でも、フクイ人、まあ、おじいさんおばあさんだけれど、出たがらないという話。私たちも出はしないけれど、ここがいい、いちばんいい、と思って、どおんと落ち着いて出ないというのとは違いますからね。
ある近場の温泉が特にサービスがいいので、私が「あそこはニュートラルなサービスがある」と言ったところ、その人は「フクイはわが天下、わが土地という感じですから、感じが本当にいいというサービスは確かにないかもしれませんね」と返ってきます。
そう、その温泉では、ものすごく私たち、ほっとします。はい、『花はす温泉』です。

確かに言ったこと。
けっこう、それなり新鮮な驚きがあったので、こうやって列挙しています。
中三のおいごさんが日本語もなかなか通じないなかで、英語を教えたりしていて、母親であるお姉さんが大学に行かせたがっているということで、その人は言いきりました。
「フクイでは大学出である必要はありませんから。まあ、はっきり言って、ここでは教養は要りませんから、無理することはないんです。」
おいごさんに関してはそうなんでしょう。日本人で日本語が通じない若者や子どもたちは増えています。コミュニケーションができないんですものね。

でもね。
「教養は要らない」にどきんとしました。
ワタシハダイガクニハイッテイマセンヨ。

わたし、教養があるかどうかは知りませんが、やはりサイードのことなど書くと、めっきりと拍手の数が減ります。書いている内容はさほど変わらないのに、言い回しや表現が、ややこみいっていたり、未知のカタカナ名など出てくるだけで、敬遠されたりって「教養」と思われているかしらん、とも思います。
サイードは、「知識人」というものをアマチュアでなければならないって言っているんだけれど、まあ、彼が並はずれた知識ある人であるのは間違いない。

解説で「知識人」というものが死語に等しいというのは、まさにそうであるとしても、この「知識人とは何か」という本の本来のタイトルは、「知識人という表象」。
つまり、知識のある人とはどういう表れを持つ何者かということと、
知識人が表わさなければならいな事柄とは何なのか、
という二つについて書かれているということなのです。
すいません、訳わからなかったら飛ばしてください。

あれっ、これだけ書くだけで、
フクイではあったらいけいない「教養」を語ったことになるのでしょうか。

確かに言ったこと。
トーキョー弁はお高くとまっていて、はきはきしていて、はっきりしすぎていてたまらないのですっていうフクイ人の実感。
これをフクイ弁を学習しながら、いや、今さら学習しなくともいいので、判らないことだけ訊きながら確認しました。
やばいです。わたし、フクイ弁もどきしか話せないけれど、もうさっぱりきっぱり、「もどき」すらやめていますから。近所の仲の良いおばあさんは、わたしにつられて「です、ます」で話すことすらあります。
でも、こうするまでに長い歴史があるのです。語りきれない…。

それから、段々と、フクイ弁とトーキョー弁の比較研究へと入っていきました。
わたし、やはり日本語教師なんですよー。
「来て」「着て」「切って」「聞いて」「切手」の区別をトーキョー弁アクセントで発音できる、フクイ人はかなり少ないです。はい、その人もできませんでした。
日本語教室を、鯉状態でしていました。

小中学校のクラスで、ベロ亭の子どもたちは、一人残らず、本読みを「まっとう」な発音ですることができました。当然と言えば当然です。うちの子たちは、皆、バイリンガルですから。フクイ弁とトーキョー弁の。外ではフクイ弁、家ではトーキョー弁。

そして、一番、大事なこと。それはフクイ弁が、アクセントに決まりのない方言であるということ。つまり、いつもどの言葉を口にしようと、揺れているアクセントだということです。

でね。気づいたのです。私たちは、少し前のブログで「陸の孤島」に住んでいると書きましたが、つまり「文化的社会的孤立」を生きているとも書きましたが、ここフクイは、方言の特性から言っても、ものすごく「他者」を意識しづらい面を持っているんだ、と昨日の「まな板の上の鯉」としての語り合いは気づかせてくれたのです。

アクセントの相対化ができないということ。よほど音感とかが良い人でない限りは、絶対にできないのです。おおまかな、会話の流れについた節回しのようなイントネーションとか、一音声ですら引き延ばして、中国語の三声とか五声みたいにメロディーがつく。そういう語感で生きているからです。

つまり、トーキョー弁は、音声と音声の高低が一拍ごとにはっきりとしていますから、誰が話そうと「はきはきはきはき」と聞こえます。それは生意気な語感を生み出すという訳です。つまり…。
講演に来て話すエライセンセーは、「はきはきはきはき」話すのは構わないけれど、近隣に住んでいる関東人が「はきはきはきはき」話すのは、かなりうっとおしいことなのです。

知ってはいたけれど、はっきり堂々と言われて、少しめげました。ははあん、やっぱり、わたしはいてはならない存在なんだー、と心底、とことん思いました。
そして、先日のわたしとのインタビューで関東出身のある方が、「フクイに来てはじめて、思う存分、言いたいこと、言いたい口調で話せました」が、判ってはいたけれど、とことんのみ込めました。

いやあ、大阪の話もしたけれど、これ以上書けません。
まあ、新宿の人ナミのなかに、今でも何の抵抗もなく入れるわたしがいることは話しました。フクイのあらかたの人は、あの人ナミを「泳ぐ」ことはできませんから。

ああ、なんでしたっけ。少し、車酔いかなにかみたいな感じです。

要するに、昨日のその人は、いかに「井の中の蛙」が「井の中の蛙」であるかを、能弁に語ってくれた訳です。
そして言いました。カタカナ語嫌いが高じて…。
わたしもやたら何でも、カタカナ語というか、英語や外国語化してしまう風潮は嫌いです。
パンジーとビオラは、そもそもは西洋すみれだし、クレマチスはてっせん、ダイアンサスは撫子です。だから、「ピエール・ド・ロンサール」なんてたまらないのです。

でもね。これは言ってほしくなかった。
「アイデンティティ」。
自分が自分であるということ、とでも日本語にすればいいんですが…。
うむ、「アイデンティティ」はスペイン語では「イデンティダードゥ」であり、もう、あれこれあれこれ、クスコでも、スペイン人の血と、先住民の血とを巡って、自分たちは何者かなんて話を意外としないよね、なんて話もしたものでした。

自分が自分であること、にものすごく向き合っている人だからホントウハいいのですが、そのでも、わたしはアイデンティティは大事ナノです。自分とは何者かを問うことなく生きていられるのは、前近代の証しみたいに感じるので、フクイには本当に近代は来たのかという思いにもとらえられがちなのですが、ああ、どうなのでしょう。

ところで、良いニュースです。
わたしは、神戸の中三…またもや中三です…の孫の男の子に、ある本を送ろうとしています。手紙を書こうと思っています。
そんな矢先に、なかなかのニュースが届きました。

うむ、そのお孫君は、野球部のキャプテンなんですが、ファーストの子が、見事に球を拾って守ったときのことかな、「ありがとう!ファースト!」とものすごくまっすぐな声で言って、見守る場内に歓声が湧いたというのです。

わたしは野球の詳細なルール、ニュアンスを語る資格はありませんが、上記のことでおそらく理解の範囲は間違っていないと思います。

いやあ、そのお孫君は、ものすごく家の中では物静かなんですよ。
それがね。父親のわが息子くんが、ヒデコに嬉しそうに、実に嬉しそうにコノコトヲ電話で話したということを聞きました。

うん、手紙書くぞ。
神戸弁で、トゥ、トゥ、トゥと言っている、お孫くんに手紙書きます。

一応、こんな妙なブログの最後に書いておきます。
トーキョー弁のアクセントもイントネーションも日本でいちばんってくらい、やさしいのです。動詞の変化も形容詞の変化もたしかそう。
西日本のイントネーションやアクセントのほうが格段に難しい。

それから。
昨日帰宅して、少しだけ、1995年に「月刊日本語」の付録だった「日本各地の方言」に関するテープを聴きました。なにを聞いたかって、そう、仙台方言です。
巻き戻すのが面倒だなあ、と頭出ししていないテープを回すとちょうどそこのところが話されていたのです。

「仙台と同じようにフクイ県でも、熊本でも、◯○○でも、それから韓国でも、インドネシアでも、アクセントのゆれは当たり前です。仙台だけが特殊な訳ではありません。こういう地域や国では、アクセントが定まっていなくとも、語句全体、話全体のイントネーションや流れで、コミュニケーションが成り立っているのです。」

ガーン。
わたしは本当に「偏狭」で「辺境」なトーキョー弁話者なのです。

ケイコ


追記
ヒデコが読んでから、音程を取って発音できない、ということが、
つまりは、その違いもそもそも聞き取れない、ということだというふうには、
日本語を外国語として、教えるために徹底的に学んだりしていなければ、
そうか、知らないんだあと気づいたのでここに少し書き足します。

来て  高低
着て  低高
切って 高低低
聞いて 低高高
切手  低高高

というのが、トーキョー弁アクセントです。
これを関東人が言うのを、フクイ人はほとんどの人が聞き分けられません。
そして、聞き分けられなければ、高い低いの違いを発音することもできません。
そして、それは当たり前のことなのです。
わたしたち日本人が、エイゴノ RとLの発音の違いができないのは、
そういう発音の違いを意味の違いとして聞き取る必要がない世界で言葉を使っているから。

中国の広東語圏の人はダジズゼゾとラリルレロの発音の区別がなかなかできません。
クチノウゴキガ 近接している音声で区別がないからです。
スペイン語では、特にわたしたちが体験した南米では、
ジャジュジョとヤユヨの区別もありません。
だから、わたしは名字は言いません。
とんでもない発音で聞きたくないから。

比較言語学は、もしも百五十歳まで生きられるなら、
わたしが楽しみとして徹底的にヤりたかったことです。



わたしは好んで「トーキョー弁」と使いますが、
ふつうは「共通語」と言います。まあ、テレビなんかが使ってまする。
標準語という言い方は、やや古く今はあまりふさわしくはありません。

あとはまたあらためて…。
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| ケイコの言葉遊び | 21:35 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

関西弁の洗礼?を受けていても、フクイ弁は難しかったのかな。トーキョー方言の人は、まずフクイ弁は身につかないのが追記に書いた理屈からおしはかってもらえると思います。

そもそも、地域の数だけ方言があり、地域の数だけ地場野菜があるんです。それが「共通語」で均質になっているのもほんとうはまずい。

一方で、様々な他者性をのみこんで、一人一人のアイデンティティはそもそもできているはずのもの。

その土地だけによって立てるルーツを持つ人は幸せかもって、やはりどこかで思うけれど、それってものすごく傲慢だし狭い。

昨日のその人も、フクイ人は傲慢で狭いと言い切った。

そして、わたしにとってフクイ弁はいまだに聞きたくない節回しであり、かったるい言葉であるのはどうにもならないことなのです。

| ケイコ | 2014/05/08 00:04 | URL |

子どものときから引っ越し続きで日本のどこの言葉もネイティブにならなかった自分。トウキョウ、関西、北海道アクセントはだいたいできるのだけど、福井弁はまねできなかった・・・。狭い日本国はかなり狭い地域性の集合体のようだけど、渡り歩いてきた自分のアイディンティティはいかなるものなのか、意思・思考の根につながる言葉文化(地域文化)のどこに自分がいるのか?未だにわからないのです。

| KAGE | 2014/05/07 23:40 | URL |















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