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エドワード・W・サイードの二冊から、「ひらめき」を引用

エドワード・W・サイードの二冊から、「ひらめき」を引用

読書は執筆のうしろだてです。
当然ながら、充電であり、養分補給であり、こころの静寂、
国境をこえた「同志」の発見でもあります。
かならずしも、なにもかもが「同志」の幅を持つとは限らない。

私は私のよって立つところから、
その言葉の一字一句を点検批評しながら読む訳ですから。

昨日から、一冊がアマゾンから届いていたのはわずかに意識していました。
ただ、階段の上に置いてしまって、開けずにいました。
アマゾンのおおげさな書籍用の段ボール様の梱包です。
開けるのはだいぶ慣れてきました。
ひっついているところの面積が広いので手間取る。

もう一冊が朝起きて、届いていました。
個人名で届いてきた古本です。
いつも個人書店の意外な地域名や書店名そのものの驚きを新鮮に感じますが、
個人そのものから送られてきたのは、まだ2回目か3回目かと思います。


今や、ずいぶんと読まれているサイードに、
ようやく手をつけることになりました。
私が購入できる範囲の値段と共に、内容も検索して選んだのが、
「知識人とは何か」と、
「サイード自身が語るサイード」。

「知識人とは何か」の表紙には、彼自身の言葉の引用があります。

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、
さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の担い手である。」

語りのほうの本には、こんな引用が帯に。
自分がまだイメージができきっていない著者の本は、
私はいくら古本でも帯があるのを選ぶようにしています。

「わたしが思うに、知識人がなすべきことのひとつは、基本的に歴史を無視した健忘症の世界に対して、ニュースを17分間の報道番組にパッケージ化してよしとしているこの世界に対して、歴史を思い知らせること、苦難にあえいできた人びとの存在を知らせること、権利を侵害された共同体がおこなってきた長期にわたる道徳的主張の存在を知らせることです。」

ケイコ注 道徳的を読み違えないでください。本質的なモラルのこと。


私は大概読もうとしている本を手に取ると、ぱっとひらめきでというか、
煎じ詰めればでたらめに、ある頁を開きます。
そこから本全体を抱きしめることを始めます。
抱きしめる覚悟がなければ本なんて開けませんから。

「知識人とは何か」で開いた頁には、ヴァージニア・ウルフのことが出てきました。
やはり、これは、指先がひらめいてたどってくれたのかもって思えます。
さて、私の写経ならぬ、パソコン早打ち利用の、一節紹介です。いきなり孫引き。

「「人ができるのはただ、なんであれ、自分のいだいている意見を、自分はどのようにして、いだくようになったのかをつまびらかにすることだけである。」

自分の議論の舞台裏をさらけだすことは、ウルフによると、いきなり真実をしゃべることとは異なる行為である。おまけに、ことが男女の問題になると、結論を出そうものなら、かならず論争になってしまう。そこで、「聴衆のひとひとりのためにも、聴衆に、語り手の限界や、語り手がいだく偏見や個人的嗜好をとくと観察してもらうのだ。

戦術としてみると、これはもちろん武装解除であり、みせたくもない個人を展開するということによって、自分の話題にふさわしいとっかかりをウルフはてにいれることになった。彼女は、決定的な言葉をもたらす独断的な予言者としてしゃべるのではなく、知識人として、女性という忘れられた「弱き性」を女性にみあった言葉で表象するのだから。

こうして、『自分自身の部屋』は、ウルフが家父長制と呼ぶものの言語と権力と一線を画す新たな感性によって、従属的であると同時に、ふつうは思考されることなく隠されているもの、すなわち女性の場に光をあてようとする。

かくして、このような手つづきを踏んだうえで、ジェイン・オースティンについて、なぜ彼女が自分の原稿を隠したかについて、あるいはシャーロット・ブロンテをさいなんだ潜在的な怒りについてすばらしい考察がうまれ、さらにもっと印象的な、男性的つまりは支配的な価値と、女性的つまりは二次的で排除された価値との関係をめぐる考察もうまれたのである。

女性がペンをとって書こうとすると、男性的価値がすでにいすわってじゃまをするとウルフは語るのだが、このとき彼女は、個々の知識人が語ったり書こうとするときに直面する問題をいみじくもいいあてている。いつも権力構造や影響構造が、でんといすわっている。(中略) そしてまた、知識人にとってはもっとも重要なもの、すなわち、既成の価値観や観念によって押しつぶされたものが存在する。
                   70頁から71頁  平凡社ライブラリー


「語るサイード」には、
こんな、クラシックという分野のピアノ演奏に関する刺激的な展開がいきなり目に入った。

「ねらうところは、そのひとにぎりの楽曲群を鮮やかに弾ける人になること。それで終わり。即興という考え方、つまりその場で楽譜が読めて、さまざまな種類の音楽と戯れることはありていにいって…

消滅した。二、三の例外を除いて。グールドだけはその例外だね。グレン・グールドは、音楽におけるどんなことでもやってのけられた最後の人物だと思う。彼は音楽について語ることができた。演奏ができた。どんな種類の音楽も演奏できた。どんなモードでも、どんなスタイルでも自家薬籠中のものにした。

しかもいつだって、そのめくるめく強烈な個性を、コンサートだけではとてもおさまりきらない個性を失うことなくね。忘れないでほしい。演奏するピアニストたち、おおやけの場で演奏する彼らは、発言などしないことをね。彼らはただ座って演奏するだけ。グールドはその殻を破ったわけだ。テレビに出る、ラジオに出る、物を書く、といったぐあいに。


そろそろ、引用は終わりにしましょう。
これらの引用が、最近このブログで書いてきたこととも響き合うのは当然かもしれません。

亡命しても亡命しても、私たちの亡命は受理されないようです。
亡命の必要性すら誰にも見えない、届かない、伝わらない。

ええ、周縁部を生きています。都市出身者が周縁に位置するということ…
それがほぼ誰にも伝わらない、不思議で奇妙なニッポンです。

ええ、私は私の限界をさらしながら、武装解除しながら、語り合っています。
むろん、執筆作業もかさねています。
だからといって、赤裸々に書いているのとは違う。
なにがまんなかにすとんとあるのか、を探している。


グールドは私もしてやられたんです。
YouTubeに上がっていたのが、
まさに、ショパンを、モーツァルトを「愚弄」しているとも言える演奏でした。
ショパンのバラードの一番に関して言えば、
多くの演奏家たちは、おおよそ8分程度の時間を要して演奏します。
よりによって、私ははじめに彼のYouTubeを聴いてしまったのです。
12分ほどの、まったり、もたもただったなあ。
これでいいんだ、なんて妙に納得したあとに、
「正しい演奏家」たちの「華麗なる演奏」に、私にはできませーん、となった次第です。
モーツアルトは、あるものすごく簡単な曲をまたまた、ずっこけるような演奏で笑わせます。
やっぱり、はっきり言えば「愚弄」しているのかな。


ウルフはともかく、グールドについては、
いろいろと毀誉褒貶(きよほうへん)もありそうです。

まっ、一日の始まりのちょっとした「知のレッスン」。

ただし、これは知的疎外を生みだしたいというようなものとは違います。
私たちは、偶然必然の時間と空間をつみかさねてここで生きています。

そして、その網の目をぬって、ある訪問が昨夜ありました。
私のブログへの「なぐりがき」が少しでも届いている人が存在しているとすれば、
私も存在する意味があるようにも思います。

ヒデコには、ブログを書くケイコの人格がいったい何人いるのかと、
まあ、パートナーだから冗談半分言われていますが、
今日のような私にもまた、よろしければおつきあい願いたいと思います。

ケイコ

追記

やばいな。通常の本になった文章って、翻訳であれ、日本語に直接書かれたものであれ、
ひらがなに起こした表記がやたら多いな、とあらためて、気づいた次第です。
いったい、どれだけの表記の訂正が待ちかまえているのでしょうか。
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