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遺された…ノコサレタって意識を持つのはかなり難しいことなんだ

遺された…ノコサレタって意識を持つのはかなり難しいことなんだ

いやはや、こんなにデリケートな、
心の琴線にいきなり触れるような大切なことを、
私が人さまの話を訊く側だというときに言うわけがないでしょう、
ってことを、
その人が言ったって言われてびっくりしてしまいました。


ニュアンスとか含蓄とかもあるでしょう。
微細な含みくらいを過大に聞き取ってしまう…とかね。

しかしねえ…。


その方は、具体的には書けないけれど、
「本音」というものが自分のなかにあるというのを知って、
まだ一年という五十代の女性でした。


本音というものを聞き分ける力。

これはほとんどの日本人には備わっていないのよね。
そういう確信が最近、とみに私の中で意識化できはじめています。

そういうふうに自分に向き合ってこなかった人間は、
人の言ったこと、書いたものを思考のプロセスで消化しようという意思も、
なかなか育めなかったり、ようやくそれは大事かなって気づき始めたり、
そんな途上にいる人が多いのでしょうね。

あな恐ろしや。
ですけれど、これが日本の現実。
日本社会の本音は、夢のなかの妄想のなかですから、
もはや、本音と本音をいきかわすなんて、すべはとおに失っています。

昔、ある出版社の編集者に言われました。
もう30年も前になるかなあ。

誰も本音なんて言わないのが当たり前ですよ。
そんな当たり前のことを知らないんですか。

今は、よくよく知っているけれど、
でも、そのときは言わないってことも知らなかったバカ者でした。

ただね。
自分のなかに本音をしまってある人は、
あそこにもここにもどこにもいると思っていました。


それが、ちょうど一ヶ月前にやったイベントの、
私のラディカルな朗読を、
ほとんど聞き分けられないらしい人々に囲まれていると、
何がどう起こっているのか、よくよく判るような感覚におおわれます。

のえはいつも、こういう感覚を、ライブのあととかに持ちこたえながら、
どうにか生きながらえていたんだなって最近ものすごくよく判ります。

「どうにも届かない遠くにいて、いつも近くにいる」
の意味が判らなくて、ヒデコに訊くというのは、
まだまだ見込みがあるというべきところでしょうか。

人に合わせ人に合わせ、自分なんてどこにあるのか、
そんな一人一人のことなんて誰もあずかりしらない、
そんな世の中なんですね。
こんなことをいい年をして言っているほうがおかしいのかな。


あなたはあなたですか。

私は私なんだろうか。

あなたは何と何とで、どうやってなぜそうできているのですか。

私は何と何とで、どうやってなぜこうできているのでしょうか。

いやはや、そんなデリケートな心の琴線に直撃みたいなことを、
私はその人に言うはずもありません。

それを言ったって、その人が言うってことは、
取り違えでしょうねえ。
取り違えというのは、きわめて似通っていて非なることを、
よく人は取り違えますから、全く反対に受け取っていたり、
立場が入れ替わっていたりすることが多いのです。

認識の誤作動が当たり前な日本社会ですから。
それが世の中を動かしたい人の望みですから。

大切なひとりの人を喪失した…そのことをも、
ノコサレタとさえ認識できない社会。
それが日本です。

そうして、やはりいました。
やはりいたのです。
やはりこうやって具体的に現実的にそういう人が生きているのです。

ノコサレタというのは、
相手とのつながりをしっかり意識できなければ、
生まれない認識です。

亡き後に、相手とのつながりを断ちきって、
生きること、生活することに奔走するとき、
人はノコサレタという、かけがえのない無意識の奔流さえ、
手放してしまうようです。

ノコサレタという意識は、
生前のその人とつながりつづけようとしていたか、
ただあてがわれた役割でふるまっていただけか、などなどが、
ある程度、その人に愛着があろうがなかろうが、
いやおうなく含まれて形成されなかったりされたりする意識です。

いやはや、
鷲田誠一先生が名古屋で、
「死なれるということ」と題して講演したときのことを思い出します。

「死なれる」というのは自動詞の受け身なので、
いわゆる「迷惑の受け身」ですが、ここでは「迷惑感」よりも、
途惑い、衝撃、悲嘆、そんなものと共に生きる節目みたいな、
あたりを語っていらしたような気がします。

死なれる…と、ノコサレル…は、近接しています。

近接した意識と覚醒。

こんなもの、誰もほとんど持たないんだと知りました。
知ってよかったと思います。

こんなふうに事実は早トチリされていくんだ…。
冷静に冷静に、じっくりゆっくり、そのことと向き合い、
そのことをかみしめ、
ノコサレタという、自らが心底、
芯から生きているという紛れもない意識を、
いったいどう育むのか、が今、明確に問われている、
それがまさに私の課題として立ち上がってきた、
E県のぶあついぶあつい無意識の層をまさに視た、
つきつけられた、そんな夜の走り書きです。

ケイコ
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| 生死観の喪失の現場から | 23:10 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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