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深海魚が水面に浮上…ベロ亭のトークバックの歴史を語り出すよ〔翌日つけたし加筆〕

本日の「トークバック」東京上映会のあとに、ダルク女性ハウスが、
ポエトリーリーディングを、
つまりね、詩の朗読劇をすると知って、
思わず出てきた、ケイコのスピーチです。

歴史の闇に埋もれそうになっている、
日本のー日本のだよ、女の歴史がここにもあるんだよ。

そんな気持ちであるネット上に書いたものを転載。


「「ポエトリーリーディング」、一体何回、キャラバンでしてきただろう。」企画して、話し合って、それぞれの言葉を表現を尊重して、コラージュして、組み合わせて、いろいろなテーマでやったよなあ。最初の大作は、『女たちよ、いま、ほんとうに始めるために』。1989年のとある女の合宿イン金沢。郵送で案を交換し合い、ベロ亭でリハーサル。そして、合宿の夕食前に「公演」。

トーキョーの女たちの何人かは拒否したね。「早く終わらせよ―。飲みたいんだからサー」。そりゃあ、シスターフッドだ、女たちの表現だ、田舎者の猿芝居かと思われるものより、酒―、ビールのほうがいいってこともあるってのはあるだろうよ。

しっかりじっくりやりました。

その翌日の分科会では、「素朴な表現欲求の根から」という「女と表現」にかかわる分科会を持ち、じっくり出演した側、聴いた側とが語り合いました。あれはトークバック以外の何ものでもありません。私はずっと以前から、朗読劇をしつづけてきました。

各地でやってきたから、各地の人にとっては点。線として面として知っているのは、私と何人かの女たちだけかもしれない。

復活、もっともっと年輪でできるよ。フクイの女たちの現実をリアルに詩的に、創造的に詩劇にしようではないか。やる奴、いるかな。千江子しゃん、自分演出、踏み出したところ。他にも、オリジナルメロディが浮かんだミュージシャンとか、一週間前の波紋は少しずつ伝わってきているぜ。

ダルクだけではないさ。ダルクはすごいけれど、フクイも、ベロ亭もやってきたのさ。

ただ、語り継がれてなさすぎるだけ。語り継ぐ方法としても模索しようっと。刺激的。

でも、誰の中にも「素朴なホントの自分への表現欲求」ってある。

昨日話したある方、「本音ってなんだか判らなくなっていました。本当に言いたいことを言ったとき、自分の全体がまとまってきた感じがしました。」

どこでもある。どこでも埋もれた声はある。
生きていても、すでにこの世にいなくても。
どこででも、「トークバック」はあるのよ。あったのよ。ありつづけるのよ。」

以上、ケイコの怒りと笑いのスピーチでした。

ケイコ

追伸 ★①これからは日付にかかわりなく、
   一日のうちに三回書いたりもあるやもです。
   今日がその始まりです。
   深海魚、アップアップ、やっぱり空気すって、
   準備態勢です。
   なんといっても、最近復活したのは、
   一人芝居ですから。
   いや、三人のコラボでしたが。

   ★②つけたし。
   今日、映画「トークバック」に関わるお二方から、
   コメントというかメールをいただいたり。
   なにか、ものすごく腑に落ちない内容。
   それはそれは短いものなので、
   考える必要もないのかもしれない。
   ただ、お忙しいだけなのかもしれない。
   でもね。
   地方在住、フクイなんて超マイナーな県だから、
   こういうコメントなのかなって思ってしまいそうになる。
   それから、私の文面はこのブログの読者向けなのもあるかも。
   トーキョー人、あるいは世界人の、上から目線なんてあり得ない人たちから、
   そう感じさせられるってどうなのかな。
   考えすぎではありませぬぞ。
   もう少し、伝え方はありかもしれないけれど、
   なにか、コミュニケーションの基盤が違っているという気がする。
   「できるといいですね」って。
   「伝え方は難しいですね」って。
    そうですね。そうですねって思いますが、
    何が言いたいかは伝わっていない、伝えられた事の伝える側の受け手、
    そちらのことも考えさせられます。
    フクイ地域だけではなく、トーキョーや世界地域の方々を通しても…。

    伝えられ方。伝えられ方。
    大事だと思います。
    それは汲む力。汲む力ではないのでしょうか。
 
    まるで、急に幼稚園生扱いみたいだな。
    地方在住のおばあちゃんだって立派な、たいした人いっぱいいるんだよ。
    叫びを埋もれさせて、それでも手放さないで、
    「自分」を生き抜いた人たち…。いるんだよー。いるんだ。

    まあまあ今夜はこの辺で。

   

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| トークバック…語り戻す | 20:43 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

ひがみなんかじゃないよ。屈折でもないよ。
昔、くすぶっているって言われたのは、怒りを燃やしきれずにいたからだと今は思う。

まっとうな怒りを怒りとして受け止めるキャパのない日本の津々浦々で、津々浦々の中にはトーキョーも入るけれど、やっかみだ、ひがみだって思うのはおかしい。

きちんとした議論、対話、そこからしか始まらない。地方の性的少数派、自死の現実、もちろん女たちの表向きとは違う、40年前と何も変わらない現実しかり。

毛利甚八さんの『宮本常一を歩く』の前書きすごいよ。「日本に近代が来たことはなかったと思わざるをえません」。そんな彼が、新宿の路上の、のえを見いだしたのです。

| ケイコ | 2014/04/11 12:15 | URL | ≫ EDIT

日本の近視眼的(もしか乱視も?)傾向はずっとあると思っています。北海道のこと、辺境と思っている人も未だに多い気が(笑)。本州大都市中心主義だから、そっからの距離で知的心情的距離も図るらしい。おかげでやっぱり私もわりくっている気がぬぐえません。そうかと思えば狭い日本の中の多様な豊かさには盲目で、海外情報はまぶしく諸手あげて熱狂。そのため日本の地道あるいは革新的文化は応援されず難航または発展困難ってところでしょうか。こう言ってもひがみ根性と思われるのかなあ。

| KAGE | 2014/04/11 11:46 | URL |















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