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言葉の奥行きを想像できる人間は、どこにいるのか

読まない方が、書いた時点ではいいから、と読まなかったヒデコのこの前のブログ読破。
はいはい、ヒデコちゃんのことは、誰も、その言葉の奥行きも感じなかったんだよね。
おそらく、それなりの言葉は使ったんじゃろね。
黙って、我慢していただけではないんだろうね。
神様みたいに、あの子がこんなふうに喜んでいたとか、色々言っていたけれどね。

今、ホントのホントの仕上げに入った、我が大仕事。
その途上で、まさに言葉に賭ける、我が仕事の途上で、
突然悲しみが突き上げてくる。言葉を失いそうになる。
はい、昨日も2時間ほど失っていました。
自分の思考と感覚を総動員した作業と、現実の余りの浅さが、
あるいは、現実の余りに差し迫った別のリアリティがかみあわないんです。
単にかみあわないのではなく、衝突するのです。
すると、言葉を失う。失語する。

私はあの番組の冒頭に使われた私のメッセージで、
「既成事実にしてきた」という言葉である深い真実を表現していました。

それって、おそらく今、日本で生きている人間には、
ほとんど通じないのではないか、と思うに至りました。

つまり「レズビアン」とか「ハッタツ障がい」とか、
はたまた「自死でノコサレシ者」と言ったって、
その内実の全て、一人一人の生きているリアリティ、
そんなものを「表現」として語れる、書ける人間なんているわけないんだな、
というような、ものすごくさびしいさびしい発見とは言えない、
あらためての念押しみたいな、再確認なのです。

ハッタツ障がいを持つ人、
特に「自閉症スペクトラム」度の高い人には、
「字義通りの解釈」という側面がつよくあり、
時に、メタファーやたとえが通じない、という大きな問題があります。

でも、これって、こういう人たちに特定されることなの??
という疑問が、あらためて大きく大きくもたげてきています。
日本人って皆、自閉症度ものすごく高いよね。
レッテルが大好きってことは、まさに字義通りの解釈で、
政治も文化もそれで埋まっていやしないかい?

セクシャルマイマテノリティと言おうと、
ハッタツ障がいと言おうと、
この日本語は「翻訳」にすぎません。
その翻訳の意味、
その向こうの奥行きすら知らない人たちに向けた入門編に過ぎません。

私が向き合っているのは、そんな入門編ではありません。

生と死の問題は、
人類、というか、人間の究極の課題だからね。

この究極の課題に、レッテルが大好きな特にセクマイの人たちが、
どれほど無様に反応し、結果、私をどれほど傷つけたかの記憶から、
私は逃れたいと思いませんし、忘れたいとも思いません。
これは彼らの生きづらさの裏返しとも言えるけれど、
あいまいな甘えの証しでもあるのです。

『セクマイの事は急くまい』というのが、とりあえず私のそれ以来の墓碑銘です。
一旦、その事実を葬ったので、座右の銘ではなく墓碑銘なんです。
生きづらさに甘えた人たちの墓碑銘ね。
墓碑ではなく墓碑銘。
私が勝手に作った墓碑銘ですから、
そこには誰も埋まってなんかいませんからね。
ふふん。


私はだからといって、
ハッタツ障がい当事者にも甘えさせられません。
ハッタツ障がい当事者としても甘えられません。

それでも、彼らのほうがかなり通じるのです。
コミュニケーションする気にさえなれば、
きちんと言葉を積み上げて、人間として出会えるところまでいきます。
自覚的な当事者と言うべき人たちのことですが…。

言葉というものは、こみいって豊かな、
単純にしてかなわない、よりによってどうにもならない、
ありとあらゆる矛盾を、これぞと伝えるらせんのような表現の素としてあります。

それが、皆さん、
レッテルか記号のようにしか使えない時代になっている。
少し使えれば、本など出せるし、講演などなさって金にしている。

あほな時代じゃないですか。
成功している人は疑います。
時代に届く言葉というのは、時代に迎合しなければ届かない場合が多い、
それはそれで真実なので、一旦は疑います。
どんなに優れた書き手であれ、担い手であれ私は疑います。
ポジティブに疑います。
それは、どこをどうあいまいにした結果かを確認するという意味です。

人間の営みは、複雑にして単純、
一筋縄でいかないかと思うとするりと通るときは通る。

一人の人間の生き死に向き合って足かけ4年。

日本というものがあるとしたら日本は、
その間も歴史の時間を動いてきたのだと思います。

でも、私は一歩も引き下がらないところで、
2008年10月5日に人としての営みを仕上げた、ある一人の人間に向き合ってきた。
仕上げたんだから、仕上げたことが伝わるようにしたいと思った。


一体、どこで仕上げている人がいるんだ。
一体、どこで言葉をその一人一人の息づかいと共に、
きちんと届けている人がいるんだ。



今日のカテゴリー、無理矢理、「知のレッスン」にしました。


みんな、ホントにきちんとコミュニケーションしているのかな。
大事な人を置いてきぼりしてなんかいないのかな。


「豊かさの中の孤独」の深さ大きさを知っているのかな。

「モモ」を読んで以来、これは私の課題。


豊かさゆえに、精神的な大きさゆえに、深さゆえに、
人は生きていられなくなることもあるのですよ。

それを分かち合えなければ、生かしあえなければ、
生きていられなくなることもあるのですよ。


精神的に行き詰まったからでもない。
単に孤独だった訳ではない。

大きすぎる人生に見合わない世の中は、
見捨てたほうが良くもあるほど…時代は世界は、病んでいます。


何か、生まれたときから、皆さん、
キャッチフレーズや、こうあるべきということや、
この世の道を外れないための狭い狭い世界で生きることや、
そんなことばかりを身につけて、
ほんとうの直感とか、然るべき本能とか見失って、
久しいのだと思います。


語るべき相手がいないなら、
こんな世界、もう、捨てるも拾うも惜しくないわ、と思うこともあるこの頃です。


ただ、私には言葉を刻む仕事があるから、
生かされているというだけです。



こんなに見えて感じて、判って思って、
しかも刻みつづける言葉の向こうに、
きっとあるものも、ないものも、
どこに行こうと、どこであろうと。



私はレッテルづけの世界からは、
きっと、ずうっとおさらばしつづけることでしょう。



ただ、私は言葉に刻んで、
私の見たことを、
私たちの歩き着いたところを、
示す使命がのこされているから生きているだけです。


そんなもの捨てちまえればいいのにって、
かすめたりもするけれど、
おそらく自分から捨てはしないでしょう。


突然、悲しみを通りこして、憤りが走る。


生きている奴らの言うことなんかきかないが…♪♪



そんな歌詞もありましたよね。


ケイコ
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