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「のえさんは、どうして亡くなったんですか」と無邪気に訊かれて(翌日と一週間後に最初と最後に加筆)

一旦は、このブログが伝わらないのだな、と思い、
差し控えましたが、やはりこのままアップします。

このエピソードの内容は、
人の痛み、
それも人生を変えるような衝撃を伴うような
痛苦と悲嘆に遭遇した人にとっては、
当たり前のことで、多くの人が知るべきエピソードであるし、
理解したほうが良いエピソードとして心に刻んでいます。

今日、ある方から、「人を信じている…」と言われて、
正直言って愕然としました。
私はただまんぜんと人を信じて、
あけっぴろげにこうやってブログに書いている訳ではありません。



命がけで講演で、若い学生たちに語りかけたからこそ、
どう、その後のお茶の席で、大きな失望と深い落胆を味わったか、
その時間に、本当はねぎらわれるのが不可欠の、
命がけの語りかけをしていた、という意味合いがかすんで、
子どものように、金魚でも死んじゃったみたいに、
語りかけられたことが「痛い!!」のです。

それが、このブログで、普段
の読者にも届いていないのだろうか、
と感じたのは大きなショックでした。
それほど、今の世ては、人の生と死に鈍感になっているのでしょうか。
伝わったらなら伝わった、と言ってほしい。
事実関係が判らないんだな、など、もし判らないなら言ってほしい。

どうして、これだけ重要な内容に、
拍手がほぼ増えないのかも疑問です。
だからといって「同情」で拍手されるのはいやです。

私が今回から決心して学生に語りかけた最後の内容は、
「もしも、自死があなたの周囲に、この大学に発生した場合、
その時、どんなふうに考えるべきか、
「のえルーム」を緊急避難的な意味合いで生み出した人間として、
アドバイスでも、必要な語りかけでもしますから、
忘れずに呼んでくださいね」
という内容でした。

その直後に、
あまりにも無邪気に訊かれたら、死にそうになりますよ。
そして、これは何があったか、
伝えるべきだ、と思うのが私の最近の使命感のありようです。

それだけのことが、
どうしてこんなにも伝わらないのでしょうか。


つけ加えれば、
「のえルーム」は至高の宝物のような、
なにものにもかえられない場所でしたが、
うらやましいと言うような言い方で言われるのは、
ちょっと違うと思います。

のえは亡くなっているんですから。

ああ、これを言わされるのは何回目でしょ!!
みんな、忘れちゃうんですものね。謎です。

人と人の関わりの余りのとぼしさが、
それを言わせるとしたら悲しみはなおいっそう深まります。

身近な人の自死に向き合った方が、
そういう場所が持てたならと言うなら判りますが。

のえへの心の葛藤と痛みを手離せない、手離さない人々が、
それを分かち合う場所だったのです。


ある講演の後の、三人に戻ったお茶の時間のことだった。
その講演をお世話してくれた方から、ふっとこんな言葉が口をついた。

「わたし、素直に訊いちゃうけど、のえさんは、どうして亡くなったんですか」。



正直言って私はふらふらだった。憔悴もしていた。というのも、講演という限られた時間内で、今、語れるテーマを私たちらしい切り口で、聞き手の若者のキャパシティも十分に配慮して、シナリオを作り、語りきったあとだったからだ。

二つ目のテーマは、「生と死に向き合う」という日本社会ではまだまだ未踏のテーマ。
否、「自死に向き合う」という、全く白紙ないしは、人によっては暗黒に地塗られたテーマで、私は全くもって短い時間を、10分間アピールくらいのつもりで、「サイレントグリーフに目を背けずに語り始める」とか、「悲しみを否定しない、自らも、周囲も」などと、パワーポイントに出したものにも、ある程度添って、しかしながら渾身の力をこめて、会場の大学生に語り尽くした後だったのである。


講演後のお茶の席で、私は疲れ切った心身で、その場しのぎの対応をした。余裕があったら、
「どうしてそれを訊くんですか。誰もが考えていることだとは思うけれど…」
などなど、彼女の問いかけの意味を白紙に戻して、語り合い始めることができたかもしれないけれど…。

しかしながら、それは十分に無思慮で、無神経な問いであった。

その晩、私をさいなみ、翌日、温泉に行っている間は忘れることに決めたけれど、
翌々日の、ミーティングではその驚き、唖然とした気持ちを語らずには済まなかった。
ミーティングに集まった人たちは、一応に驚いていた。

当日、帰宅してから、学生たちが出したアンケートを読み、数人の書き込みに、十分に私の渾身の力をこめた「生と死に向き合う」語りかけが届いていたと知ってから、若い学生のほうが感受性がまさって、キャッチしてしまったアンテナがあるということに、気づいてしまったから、なおのこと、問題は大きいと認識せざるをえなくなっていた。

こういう魂もろともの気づきを、それに気づかなかった相手に心を砕いて伝えるというのは、おそろしいほどのリスクを伴うことを私はすでに経験済みだ。
こういうボーダーライン上にいる人たちは、誠実に気づきなおすか、逆ギレするまでに至らなくとも、…あああ、子どもを亡くした人は面倒だなあ。つきあうのはやめとこかあ…くらいのノリ??で、遠ざかって行かれるのがオチだからだ。

お茶の時間にこう語った相手から、「あの時はだらだらおしゃべりしてすいません」うんぬんの「講演は大成功」メールが届いたのもあって、私はようやくその日から一週間を待たずに相手にその旨を伝えた。さあ、どうなるのかな。きちんと伝わるといいんだけれど。


あんまり、こんなことは言いたくはないのだけれど、心のこもらない、ある種、他愛もない、場合によっては、えらく形式的だったりもする、のえのことに対する口ごもったり、大上段に構えたりする口上は、子どものいない「教育者」から出ることが多い。少なくとも私の経験からはそうだ。

わざわざ鳥肌立つ思いで経験したことを再現してフラッシュバックを起こしたくはないので書かないけれど、要するに早い話がヒトゴトなんです。

で、今回は、「サイレントグリーフに目を背けずに語り始める」というパワーポイントの言葉が、この方を後押ししてしまったようにも思われるのです。


「目を背けずに」というのは、大変なことである。大変なことである以上、最大限のデリカシーをもって、「見て見ぬふりせずに死者悼め」ってことでしょう!!

それが、「私素直に訊いちゃうけど…」と、金魚が死んじゃった理由でも訊くみたいに、言われてしまったという訳です。

私は、そのお茶の席で、せめて少しでもねぎらわれたかった。
「よく、あそこまで話してくださいましたねえ」とでも何とでも…、大人だったら、出てくるはずではないのでしょうかね。
それが、直前までの達成感まで粉々にするような言動です。


娘の生と死に向き合いながら、ここまで世間はヒトゴトなんだなあ、と思い続ける日々でした。
それでも、私はたとえ日本中が違うと言ったとしても、最近、ある覚悟を決めています。
それは、「のえルーム」が緊急避難的な意味合いを持った…つまり、一人逝くという命をまさに賭けた意思表示で、どんなに追い詰められていたとしても、自己の存在を示した故人と、どう向き合うべきかを共に模索した場だからですが…、その体験をやはり、自己の存在を賭けて生かしていきたいと願っているということなのです。


だから、例外的とも言える「呼びかけ」をしました。
「特定秘密保護法」は大問題。大変な時代に入ったことを痛切に思いますが、自死に関して、箝口令がしかれ、誰も自ら語り出さず、語り合わず、故人のかけがえのない生きた日々すら抹殺する、すでに、自死も自死で遺された者も、ある種、無意識の特定秘密の中で、息をひそめている現実です。


だから、例外的とも言える「呼びかけ」をしました。


そのあとに、まさに直後に、
お世話してくれた人が、少しでもねぎらいの言葉で、
「ああ、少しは私の覚悟が伝わったかな」と思うくらいになりたかったところを、
「素直に訊いちゃうけれど、どうして…」と、私たちの前に言葉を投げ出したのです。


まさか、講演のお世話をしてくれた方から、
「ハイエナ現象」を観察し、こおむる結果になるなんてね。
でも、ありそうなことです。
あの番組が2011年の一年目には、性的少数派に特化したタイトルになって、
多くの当事者から、そのような現象をこおむったのと全く同じですから。

「どうして??」
は、あたかも子どものような無邪気な問いかけであると同時に、
「ありえない、ありえない、なぜ、なぜ」
という、のえの生と死をヒトゴト化した「投げだし」でもあるのです。

と同時に、
「どうして??」
は、深すぎるほどに哲学的宗教的人間的宇宙的な問いかけでもある。

そう、私たちはどうして生きているのか、という…。



そんな覚悟もなく、「ハイエナ現象」を排出する人々に、
私はせめてもの警鐘を鳴らしたく、本の執筆中だというのに、
またまた、くらったニアミス。

ご免こおむりたいところですが、
まだまだ、続くことでしょう。


のえのことをよおく知っているのに、
何度会っても、のえのことを語らない友人。

それそれ、それがあるから、ケイコさんに会えないの、
とヒデコに言ったという、私たち共通の友人。


みんな、喉につっかえた魚の骨みたいな「こわさ」をかかえて、
かわいそうな人たちです。
あわれです。
救いようがありません。


まあ、屈託なく「どうして?」と訊くところからしか始まらないとしたら、
受けて立とうじゃありませんか。

回答は、
そう、一冊の本です。

読んでください。
いや、読まなくともいい。

読む前に、自分の生と死に向き合えや。
読む資格ない人たちが、この本とどういうことになるんかいな。


ともあれ、回答は、
そう、一冊の宝物のような本です。


ケイコ


追伸  

このブログの調子とは全く違う、丁寧に言葉を尽くして、私にとって起きた事、なぜそう思うのかなどしたためたメールに、一日たった今日、こう言ったご本人から返信をいただきました。
「失礼いたしました。」とひと言、というか、一文。まあ、かわいらしい方なので、言葉を失ってしまった状態の中での最低限!!の表現なのでしょうか。
この方が失礼してしまった対象には、「よくぞ、つらい死のことを語ってくれた」とか、「悲しみについて判った」など、アンケートに書いてくれた学生たちも含まれます。
私が、ねぎらわれたと感じたのは、これらのアンケートの、どんなに短くとも伝わってくる言葉たちでした。
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| 自死を語るタブーを考える | 18:04 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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| | 2013/12/24 22:43 | |















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