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各県別購読紙購読率から見る、日本中おんなじ、ではくくれない現実からまず!

苦肉の策で、新しいカテゴリーのタイトルを考えました。
福井県のみならず、時代錯誤な現実がまかりとおっている時に、
汎用性の高いカテゴリーとして想定しました。
それは、福井県民が間髪を入れず、福井への批判的なまなざしを全否定する、
そんな無意識の守りともいうべきものから、
一線を画して、冷静に様々な事象に迫りたいという、
私の中の切なる祈りと願いから発している命名でもあります。


かれこれ30年も前のことになります。
大阪のキャラバン先のフリースペースで、私がアメリカの黒人女性作家、
アリス・ウォーカーのことで、ほんの少し思いを語っただけで、こんなふうに言われたことがあります。
「ええっ、福井から来た人がどうしてそんなことまで知っているの?」。
以後、そのスペースには行っていません。
そう語りかけた米文学の専門家の、少しは知られた女性ももはや他界しています。

やはり、かれこれ20年ほど前の各地のキャラバン先で、
福井県出身の女性に何度も会いました。
「よりによってどうして福井にいるんですか」。
彼女たちは忌憚なく疑問をぶつけました。
あそこで、まともな女は生きていけない、という前提がそう語らせている、
それはよくよく判りました。
どの、福井県出身の他府県で活躍する女性も、
ある種の堅実さと粘りとをあわせもってもいました。
私からは最も遠い種類の能力と言えるかもしれません。

岩崎ちひろ・宇野重吉・高見順…。
少し前の時代の有名人でわずかでも親近感を持てるのは、
高見順くらいかもしれません。
彼は、県知事の「婚外子」。その苦悩を彼の文学に結実し、
日本海の荒海にかさねました。



このテーマは余りに奥が深くて、やすやすとは語れないところがあります。
なぜなら、それは私と同じ地面の延長戦上を生きている、
そんな人々の心象、物事を見て取る方法、をも語ることになるからです。
どう、そこと切り結んで、つながって行かれるのか、という、
ありえないほど困難な方程式を解かなければならないからです。

なぜ、ありえないほど困難かというと、
彼らがありえないほど困難だと気づいていないからと言うのは簡単すぎます。

むしろ、ありえないほど簡単に、自分の目に入る範囲の事柄にしか、
思いを凝らさないという習性から来ているとしか思われません。

しかしながら、どこにいても、どこに住んでいても、どこで悩んでいても、
人は人として成長もし、突き抜けるところにいく、ということはありえます。
それは、もしかしたら福井ではものすごく少ないかもしれないけれど、
意外なところで進行していることまでは否定する気はありません。
無名の日々を大切に、人知れず自らの苦悩を見つめながら生きている、
そんな人の中にこそ、ありうることなのかもしれません。



ところで、朝、思いたって、
ヒデコとの食事時、「各県別購読紙」ということで検索してもらって、
やっぱりなあ、という数字が上がってきました。

私たちが「福井新聞」を購読していたのは、住み始めて間もない、一年そこそこの間だったと思います。
三大紙のひとつに切り替えたのは、
ある日の福井新聞の、朝日だったら「天声人語」に相当する欄に、
吐き気がするような恐ろしい表現が、まるで当たり前のような記述で書かれていたからです。
その内容は詳しく書きません。
ある若い女性が、やむなく産み落とした子どもにどう対したか、
それに関わる記述が、旧態依然とした女性観、少女感と共に「あわれみ」という衣でおおわれて、
物事の本質をおおいかくして、はばからない表現だったとだけ言っておきましょう。


以後、私は「福井新聞」の購読者は、こういう表現に吐き気を感じない人たちなんだ、
という認識を確立しました。
だって、まともな感覚と意識と認識力を持っていたら、
このような井の中の蛙的に人をおとしめる表現が、
第一面でなされるなどありえないはずですが、
それがまかりとおっている訳ですから。



「地域の噂」で郡部の幼稚園の先生が配置転換になった、あの事件では、
福井新聞は、「地域の噂」の側の主婦の「暴言」まで投書欄に載せていました。
恐ろしい現実ですが、もはや私たちはそういう事態を覚悟して生きてきていました。





さて、今朝、調べた県別購読紙の割合を発表します。
つまり、福井県なら福井新聞、沖縄なら琉球新報、石川県なら北国新聞といった、
地方紙がどの程度の割合で読まれているかという現実を調べた訳です。

かつて、福井では90パーセントくらいの人々が福井新聞を読んでいました。
今日調べてみたら、80パーセント弱に、さすがに時代の流れか下がってはいました。
それが何を意味するかというと、三大紙を読んでいるなど、
異端ですよ…という暗黙のしばりを意味するのです。


全都道府県を調べてみました。
三大紙…すなわち朝日・毎日・読売…以外の地元紙が読まれている率です。

愛知県近辺は、中日新聞が地方紙とは言えないほどのシェアを誇っているし、
新聞の質もそれなり高いと私は認識しています。


さて、地元だけでしか知られていない地元紙
…地元紙の説明として私はこう提議したいと思います…
が地元で読まれる率が高い、というのは、地元の視野でしか物事を見る意欲や必然性がない、
ということを証しています。
とりあえず、そういうデーターとして信憑性があるものと考えていいと思われます。


70パーセント、80パーセント前後の地元紙の購読率を保持しているのは、
全国的には5県のみでした。

徳島県は80パーセントをこえて、福井県をしのいでトップです。
あとは鳥取と島根の山陰、そして、思ったとおりの石川と富山の、
残りの北陸三県のうちの二県。

秋田県は60パーセントとこれに続きます。

あとは、全国的に半分から半分以下の地方紙購読数となります。
それが日本の標準というところでしょうか。
つまり、50パーセント前後から40パーセントくらい。

大阪と東京は地方紙は、なきに等しいくらいの率
…まあ5パーセント前後…しか売れていない。
埼玉や千葉も10パーセントほど。


長野県の信濃毎日が61パーセントというのは意味が違います。
この新聞社は、琉球新報と並んで革新的である伝統を今もついでいるかと思われます。



なんだか、訳のわからないデーターで何が言いたいの?とお思いですか。

これは、自分の県にある価値観のみを信じようとする県民がどのくらいいるかという、
そんな率をも表していると、私が考えた上での展開なのです。


最近、ヒデコが福井生まれ福井育ちで、福井新聞しか知らないという人と話していて、
「ええっ、他の新聞には違うことが書いてあるっていうの-!!」
と言われたそうです。
丁寧に説明したみたいですが、これって大の大人との話ですよ。



日本語教育の一環で、
福井県国際交流会館に春原健一郎先生がいらしたことがありました。
私が興味深く思っている、
日本語教育の枠を並外れてはずれた視野の広い方です。
彼は、ある異文化トレーニングのゲームをそこで受講生にさせました。

最近観た映画で最も面白かった映画を、
各グループ別に伝えて、一人ずつ増えた内容を蓄積しながら、最後まで伝えるゲームです。

おわかりでしょうか。
同じドラマを見て、同じ映画を観ていれば、そのコミュニケーションには時間も手間暇も、
知恵も頭脳も心も働かせなくてすむ訳です。

ふだんなら…つまり他府県なら一巡りするのに30分以上はかかるゲームが10分足らずで終って、
春原先生が呆然としていたお顔が忘れられません。

彼は、おおいにためいきをついて
…私にはそのためいきがはっきり聞こえましたが…、
「これほど均質な県は初めてですねえ」と絶句しながらも、やっとのことでもらしました。
「そうなんですよー」と私は叫びたい気持ちをこらえました。


なぜなら、私のグループだけ、まだゲームが終っていなかったからです。
私がその頃興味深く観た映画が、
そのグループの誰も知らないばかりではなく、
その映画の意味が彼らにはわからなかったのです。
だから、伝達にことさら手間取ってしまっていた。


「ああ、そこのグループはなんだか、時間がかかっていますねえ」。
彼が少しだけニコリとしたことに、私は少しだけ救われました。


このシリーズは、あるホラー作家の著作のおかげで、
このブログでも解禁にしました。
二日間で、拍手が10近くに、
あっという間に増えたことにも励まされました。

粘り強く続けていくつもりです。


こういう意識の乖離、
こういう価値観のギャップを生きることそのものが、
どれほどの苦難と工夫の限りを尽くす人生となるか…。

それを、ほぼ全ての読者がご存じないことを肝に銘じて、
わかってほしい、わかってほしい、なんて子どもじみた幼稚な意識ではなく、
穏やかに、冷徹な意識をつらないて、書き進めていくつもりです。

だって、この地でも、私はハッピーって、
ベロ亭の敷地の外でも、いつの日か言ってみたいから。
それは自分の世界だけで思っていても、起こりえないことです。

何がどう起きているのか、
起きていないのか、
お互いに知り合い始めなければ、何も始まらない。


私はあきらめません。


ただ、ベロ亭の外で、それほど自然にハッピーという感覚に包まれる、
そんな自分のイメージが一切抱けない、その感覚は絶対的です。


しかしかながら、その絶対性がどこから来るのか、
少しずつ、
やさしくきわどく、
親切にするどく、示し、
切りひらきしていかなければなりませんね。


パンドラの箱は一度あけたら、いさかいやうらみや罪や、
ともかく世の悪しきものたちが飛び出すといいます。

でも、最後に小さく箱の中に縮こまっているのは「希望」なのです。

ほら、小さく縮こまっていないで、大きな顔して出ておいでよ。
ベロ亭からそんな爽快な顔をして出て行かれる日が、
生きているうちに来るのかな。


まあ、生きている限り、それを目指すしかありません。

二日前とうって変わって、今日は福井県民の読者も意識してまじめに書きました。
こんなブログも、福井新聞の毒をうすめる役割を果しているのかもしれませんから。


だとしたら、少しは、時代は変わっていくのでしょうか。

少しは…。


ケイコ

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