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『流星ひとつ』読書前の、レビューへのレビュー

のえがこの世からいなくなって五年目のその日からすでに一週間。
時のたちかたに疑問を感じます。
ええいっ、そんなに勝手にたってしまっていいのかいって言いたい。

そんな土曜日の午後、新聞の広告欄に見つけた沢木耕太郎の新作、
それは藤圭子との、三十四年まえの対話を本にしたものだった…。

沢木耕太郎、ノンフィクション作家の中ではかなり信頼している。
ついていけないスポーツ関連、政治家を追ったものとかはやや敬遠はしているものの、
『深夜特急』は大好きだったし、処女作だろうなあ『人の砂漠』は読んでいてぞくぞくしたっけ。


としたら、この組み合わせ、うむ、おそらく今日辺りが圭子さんの四十九日だから、
それに合わせての出版かと考えたりもする。

硬質で透明な彼女が浮かび上がってくる、引退時の重要な対話。
それがなぜ出版されなかったかも気にかかるところ。

温泉行く前に、検索してみました。それから注文もしちゃった。
なんか、すぐに売り切れになったりもしそうな気もしたし。

レビュー見ましたよ。

圭子さんの愛娘さんひとりが読むべきとするレビューあり、
否、
これは愛娘さんとその父親には出版の許可を得たのかーって、
危惧しながら、「知らないでいる権利」をも訴える書き手と、
ある種、
うらと表みたいなレビューが心に刻まれて、いざ私は温泉へ。


知らないでいる権利。


沢木耕太郎を信頼する読者の一人としては、
彼は、誰もが知っていいと思えたことを本にしたのでは…。

誰もの中に、愛娘さんが入らない訳がないのではないか。
私はそう思うのですが…。

愛娘さんのみにあてたものではないか、
とレビューを書く人は、勝手なことを書いているかもって詫びてもいる。

愛娘さんとその父親が出版を承諾しているのだろうか、
とレビューに書く人は、承諾しているならごめんなさい、と書く。

二人とも、ベクトルは反対なのに、
気遣い、やさしさは同じクライなのね。

私もどれだけ考えたことだろうか、うむふむ、うむふむ。


のえの、こんなこと知りたかねえやって奴の顔も浮かぶくらいだもんね。

のえの、ここまでを知らせてくれて、そりゃ大変だったんだねって言う人の顔、
余り浮かばないんだもんね。


「そこまで聞かなくともよかった」と言った音楽仲間。

のえの人生の一部を共有して、あとは知らずにいて、
私と会って、あれこれ話して、目が覚めたように語り出した音楽仲間。


今日はこれ以上は書きません。


ノンフィクション作家たるもの、
人の尊厳をも考慮に考慮、配慮に配慮を尽くして、
知らせるべき時をも選ぶものと思います。

この本の出版に関しては、沢木氏が圭子さんに一任されていたというのだし。


それを見送っていたのは彼の判断だったんだろうし。



それでも、知らないでいる権利、というのも、
鋭く響いてもくるのです。


知らないでいる「平和」、とか、
知らないでいる「無知」、とも置き換えられもするけれど、
それはそれで人生。

無知ゆえの平和も、この日本ではずいぶんと大切にされている。
それが、命日から一週間の私の感慨でもあるようです。



知らせてしまうその人の深さや幅。
それゆえに、始まってしまう、
知らなかった人の「混乱」と「沈黙」。


「混乱」と「沈黙」をへた後の、
本物の「和解」への道はなかなかのもの。

険しくもあったり、あっけなかったり…。
でも、十年くらいかかるのかなって思うことも多い。
否、十年かかるくらいなら、永遠に「和解」はないように思えることも。

それは、受け取る側の人間としての力でもあり、
すでに、亡き人をどれだけの幅と深みをもって、
その本質ごと感じていたかにもかかってくる…。




ところで、8月22日、圭子さんが亡くなった当日に書いたブログは、
とうとう拍手が20をこえました。
どんどん拍手数を更新中。

そこで、二週間ほど前に、
あらためて検索してみると、
私のこの日のブログは、45番目に上がってくると判りました。

それはたいした発見ということもありません。

ただ、「追悼 藤圭子さん」で検索してみて判ったことは、
圭子さんって「さん」づけにしているのが私だけだと判ったこと。


これは驚きでもあり、発見でもありました。


つまり。


つまり、これは三人称の死でありつづけている証しです。
三人称の死、に人は責任も感慨も本当はありはしない。


二人称の死に引きつけた時に、
初めて見えてくる感覚や感慨があるのでは…。


もちろん、
私にとって圭子さんは第三者。
唄にききほれた有名な歌い手さんにすぎません。

それでも、「圭子さん」とおのずと言ってしまうことで、
せめて、二点五人称くらいにはしていたんだと判りました。


そんなことすら、
日本では忘れられていたなんて。

私のしたことなんてたいしたことないけれど、
そんな小さなたいした訳でもないことすらないということね!


ともかく、この不思議な「対話」。
読書後には、おそらくレビューに書きますぜ。

なにしろ、
沢木氏と圭子さんですからね。


ケイコ
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| 自死を語るタブーを考える | 21:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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