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だめだ、パソコンを打つ指先から血が滴るようだ…

だめだ、パソコンを打つ指先から血が滴るようだ…

22日の最大の収穫は、2時間余りも久々に鯖江図書館に行けて、私の味方というか、サポーターになるような本ばかりを、のえのジャケット買いではないけれど、その時はじめて手にした本も含めて、実に的確に選んできた事に今日、あれこれ目を通しながら結果的に思っていた。

なんとか、原稿書きに切り替えたいのだが、そして、今日はヒデコに、「もうそろそろ最終章をまとめたら…」なんて言われてしまったのだが、「昨日の鍼灸院では、あれはドクターストップなんだからね」なんて、かわしていました。「このままいったら、ケイコさんがこわれてしまうってさ」なんて。

10数冊借りてきた本は、生と死の問題、マスメディアの問題などなどを扱った本が多いのですが、そうでない本で、直感的に帯の言葉とか、裏表紙の説明や、ぱらぱらめくった感じで選んだ本すら、今や、まったく自分のテーマである事柄がちゃんとに入っている本である事に、我が直感のオソロシサを感じます。

一冊、「14歳のアウシュビッツ」という本があります。まさに14歳でこの恐るべき収容所を体験しつつ、そこいらにある紙片や、何やらに、リアルタイムに書き付けた日記ですから、それはそれはすさまじい。ところが、この少女、タダモノではないんです。生き延びるためには、すさまじいまでの冷徹さを保つ。あっけらかんとした記述あり、同胞で同じ収容された身であるユダヤ人たちへの辛辣なまなざしありで、「かわいそうな収容所体験者でーす」というのを、頭から粉々にされる内容です。うむ、全くもって、私は自分にふさわしいサポーター本も探すのにたけているんだなと、自負しつつ、少し呆然とします。

この少女、解放されて何年もたって、あるアウシュビッツを描いた映画を見ている途中で飛び出したそうです。「甘い、甘い。私たちに感情なんてなかったわ!!」と言い残して。


ある少し時代が前の、どこだっけ、英語圏の女性作家の個人史のノンフィクションものこそ、ますます直感でした。なまなかな成功を手に入れたい訳ではなかったとか、そのためには、どんなふうにも手段を選ばなかったとか、どんどんお手伝いさんをくびにしたとか、なかなかしたたかな、自分の世界中心の、それでいて童心を失わない、そんな紹介の中に、一筋縄でいかなかった彼女の人生について、本の二行ほど触れた帯の言葉が引っかかりました。エエィッと、私はこういう時、選びます。戻す本は戻します。これは要る。これは要らないと。

やっぱりな。やっぱりな。言いたかないけど書きますぜ。この人、夫を自死で亡くしている。夫はやさしい人だったみたいだ。少し弱っていた時みたいだ。ふむ…。
それから、彼女はしゃにむに、いっそうしゃにむに、書き手としての「成功」に賭け、手段を選ばなかったし、完璧さをきしたというからなあ。


あとは、ずうっと私が自分の部屋を目を皿にして探していたガブリエラ・ミストラルの詩集。あれね、ノーベル文学賞全集にあって、コピーしてたんだな。一部だけ。どこにあるのかな。

私の言葉はその最初から血塗られていた、だっけか。そうそうこれだ。

それにしても、彼女がノーベル賞を取るためには、ラテンアメリカ中が機運を高めたんだな。どうしてもおかしいって思う。ミストラルはこれでいいけれど、永瀬清子さんも絶対ノーベル賞者だよ。間違いない。文学はいつも翻訳の壁ありカー!!

大きくて深い文学や芸術の始まりには、必ずといっていいほど、痛切な死が横たわっている。ミストラルしかり。彼女は、かつての恋人を自死で亡くしている。彼女が捨てた側。別の婚約者との婚礼を前に亡くなっている。長身のみめうるわしい若者だったとか…。
いや、それだけではない。実の息子か甥か、最後まで明らかにしなかった子まで自死で亡くしている。彼女は外交官として成功しているもんな。成功したい人でもあったから、あの時代、女性の成功には、悲惨がつきまとったのはやむないかも…。

つけ加えれば、私は1990年の中南米五カ国を巡るバックパッカーの旅で、
チリのラ・セレーナ近郊の田舎町にある
「ガブリエラ・ミストラル記念館」を訪れている。
一枚の写真に釘付けになっていたら、
館員がそうっと近づいてきてくれたのを覚えている。
すごいまなざしの奥のつよさと苦悩を感じてたんだっけ。

こんなふうに、記念館巡りをしているの、
永瀬清子さんとミストラルだけかな。


さて。


だいたい、みゆきさんの「時代」もそういう背景あり、と私は見ている。彼女の壮絶なまでの叫びのようなもの、それは二度と返ってこない生と向き合った者だけが手にする、そんな深淵があるから。まっ、才能使いすぎても、すりへらないのは、すごいんでしょ。
今度出した「恩知らず」と、最近コンサートで実に久々に唄った「時代」が一緒に入っていると語る、ご本人の語りにますます確信しました。そういう、唄う時を選ぶ唄なのだ、というふうな、「時代」を語る語りの中でね。

まあ、借りてきた本はまだまだあります。

ここで少しだけ、詩人の長田弘の「死者の贈り物」から少し引用して終わりにします。


ことばは感情の道具とは違う。
悲しいということばは、
悲しみを表現しうるのだろうか?
理解されるために、ことばを使うな。
理解するために、ことばを使え。
「サルビアを焚く」の一節より
                   ゛

アッタリマエだろう。と言うしかないんだけれど、あらためて肝に銘じます。まっ、これ以上銘じる必要はないほどだけどね。


困った。困った。こんな詩の結び、見つけちゃったよ。


この世で、人はほんの短い時間を、
土の上で過ごすだけにすぎない。
仕事して、愛して、眠って、
ひょいと、ある日、姿を消すのだ。
人は、おおきな樹のなかに。
         「アメイジング・ツリー」の結びより


こうやっていれば、指先から血が滴る訳ではないんだよな。いくらすごい詩であれなんであれ。

そういえば、昨日、私の指先は、銀行のキャッシュカードの文字盤が拒否するほどの何か、おかしな状態になっていたようなのだ。何度やっても、正しい暗証番号が反応しなかった。打っても打っても、反応しなかった。ノートパソコンのタッチとピアノタッチが重なったタッチになっていただけなのか、この世のものに、反応しなくなっただけなのか…。

のえは「切ったら血の出る唄を唄っていた」と書かれたりもしていた。

私の指先は、今パソコンに向かうと、まさに血が滴るような感覚に呻吟する。凝縮して行き着いた地点は、私を立ち止まらせている。おそらく立ち止まったほうがいいのだろう。
昨日は、ある種、別件で仲良しの鍼灸師の先生と火花だったけれど、あれはあれで良かったんだ。そして、その意味を別の意味でかみしめて、ドクターストップと見てもいる。でも、どこかで怠けてるぞー、時間はないぞーって脅迫!!する声もするんだ。

それは、戦後最大の危機と福島瑞穂が言うまでもない、恐怖の組閣があったからだけではないけれど、それもおおいに影響している。

私の指先よ。少しずつ立ち直れ。こんなにも、他のことなら、すらすらすらすらあっという間に、考えるより先にタッチしているというのに、なんということだろう。


真っ赤な芙蓉の花を真冬に咲かせよう。
その精緻さと、徹底ぶりと、ゆったりとした自然さを、
確かに、まるで忘れていたように、しかしながらすっかり春のように、
咲かせよう。
咲かせよう。
年越しもなにもあったもんじゃあないぞ。

ケイコ
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