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すりへった心にチャイコフスキーの四季のピアノと唐木順三の『詩と死』がしみる そして私は30年ぶりに心からジャニスを聞き込む

ありえないほど、はっきり言えば明治時代の結婚みたいな、
そんなものを同性同士に置き換えただけの番組のために一日、
いや、時間で計算できない、深い精神の平穏をおかされた。

そもそも、出演依頼のあった番組だったから確認する気持ちはあった。
それに、おおよその事は、それなりの経緯で聞く事もあって、
気持ちの用意はそれなりしていたけれど、
あれほど制作側に提言した意味もおもみもエネルギーも時間も、
すべて無駄だったと知る、それは余りに計り知れない虚しさを招き寄せる。

ここはぐうっと心の平穏を取り戻さなくては…。
このままでは、突然心臓麻痺でも起こしそうな具合だ。

つまり、このシリーズはある部分、
特にあのマイノリティについては、
時に「幼稚園」からやらなくてはならない人たちが沢山いるって事なんだな、とよく判る。
つらい。それって、何なんだ。
ずうっと幼稚園で、絵本を見ながら、手に入らないおとぎ話を求めるように、
ユメうつつで、現実が見えなくなるにしては、皆さん一応人間の顔をしているし、
若者というふうにも見えるではないですかね。

それでも、何よりも自分の養生が肝心と心決めて、
疲弊し、すりへり、ほろほろと泣いているような脳と、
叫び出したいような魂をしずめようと、
夜7時半頃から、最近やりだしたチャイコフスキーのピアノ曲集の
「秋」をリピート機能にして回しながら、
たまたま見つけた唐木順三の「詩と死」を読む。

どこから読んでも面白い。
どこから読んでも入っていける言葉の品格と内容の深さ。

最初の章は、自死した文学者やそれなりの人々の考察。
深いなあ。

出版年を見ると、のえとサナエの生まれた年の次だから、
思ったより古い本ではないなと思う。

東尋坊の記述があった。
唐木が30年前、そう昭和8年に飛び降りて自死した友をたどって、
30年後にその崖っぷちに立ちながら思いにふける様を描いている。

東尋坊で今までいったい何人の人が死に至ったのか。
あそこを飛び降りると、死体は損傷が激しく、
遺族にはとても見せられないにもかかわらず、
唐木の友人はかすり傷がわずかにあっただけという記述もある。

最近、あそこの見回りをしている方の二番手みたいな方と話した。

「ポルシェが放置されていて、何日もあって、やっぱりでしたね。」
「金持ちも死ぬんですよ。金じゃあないんです。」
彼はそんなに死ぬ人の気持ちは判っていないようにも映った。

『詩と死』の一章は「死について」。
二章は「喪失の時代」。
読むと、まさにたった今の時代を予言しているような文章に出逢う。
息をのむというほどの事はない。私も知っていたようなそんな感覚が来る。

「羞恥心の喪失」とか「経験の喪失」の部分が特に面白かった。
それから「途中の喪失」も。

それから、人間存在の逆説的な成り立ちについての展開も、
私には当たり前な事だけれど、こういう事があまりにもうすっぺらになって、
結局、そういったパラドックスなり、重層性なりが、
阻害されて、嫌われるものとなってしまったんだなと判る。

人間、その逆説的なるもの…えっと、誰の作品だったかな。
調べてみるかな。自分を支えるためにも…。

ここまで書いてきたら、チャイコは『秋』を奏でている。
今は全12曲を聴いていたから、ずうっと聞き込んで、弾いている曲はすぐ判るものね。
偶然始めたこの曲、そう「秋」は10月だったのだ。
ロシアでは冬が10月から始まる。
すべて刈り入れた後の季節のわびしさ、さびしさ。

そして、深い悲しみの余韻。
のえが逝った月。10月がゆっくりと唄いながら私に語る。

おそらく私は今、死者の目をもって生も、この世も見ているのだろう。
はたと気づいたのは、昨日あまりのひどさに傷を深めていたその最中だった。
言えば言うほど損をする、そんな提言。

前もって、これだけは避けてほしいという、かなり命がけの提言は、
けっして生かされる事はなかった。
私のように昨日の番組止まりで今日の討論を見なかった人も多かったろう。
余りにばかばかしくて…。

せめて、そんな人たちが今晩も生きながらえて、
命を抱いて、自分を抱いて、もしかしたらいとしい人を抱いて、
番組など、出演者というネタをどう使うかだけだといつの間にか、
気づかなくなってしまったマスメディアの麻痺した心身などものともせず、
たくましく、デリカシーをもって、生き生きと、でたらめに、
楽しく、ユーモアをもって、生きていますように、と祈るばかりの日。

罪深い番組は作ってはならない。
どれだけ想像力を働かせても、その想像力を働かせる余地がない、
そんな番組作りは、人の心をひととき幻でもって羽ばたかせるだげだ。
それは私たちのあの番組ですら起きたことだ。

でも、制作者は、そうやって番組を量産するプロどもだ。
ところで、私は、のえの原稿を血も涙もある肉親として心に抱きながら、
しかもノンフィクション作家としての揺るがぬまなざしをも持ちながら描く。

あえて比べるまでもない。
だから、私はピアノの響きに身をゆだね、
唐木順三に脳細胞を耕しながら、少しずつ我に返る。

確かに相当疲れている。
一世一代の大事な仕事だ。
手は抜けない。ばかばかしい事にわずらわされるまでもない。

とにかく、出演しなくて良かった、それだけは間違いない。
もっともっと傷ついたろう。
もっともっとばかばかしかったろう。

私たちはすでに歩きすぎている。
私たちはすでに見すぎている。
私たちはすでに聞きすぎている。

そして透かし彫りのように、世と人のあざとい心が見える。
せめて、のえの事をたどるパソコンの指に迷いがひとかけらもないように。
せめて、最後の一言まで、何ものももう私をおかしませんように。

ケイコ


これを書いても、原稿のパソコンの画面を見てもどうにもならず、ジャニスのミーアンドボギーマギーから聞き始めた。のえの事をもっと知るために。ジャニスを聞きまくっていた私の時代が、のえにどんな響きを残したか知るために。27歳でODで亡くなった伝説的なロックシンガーの女の声を聞く。
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