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番組再考  その3 取材される 快 と 不快 

昨夜は、とうとう今までの疲労が一気にふきでたようで、夜10時頃からソファで爆睡。一旦、2時に起きだしてから、また30分もたたないうちに就寝。朝8時に目覚めて、あるルポルタージュ作家の文庫本を久々に手にした。
本当は、この二冊の本、1980年代に私が文章を書くという事に、何度目かの意識を集中しはじめた頃に熟読、目からうろことも言える爽快感で、物事を的確に視つめるという事と、それを言葉で表現する事との間にある、未整理だが、整理したい欲求と、整理しつつある実感の中で、一気に広いところに出られたような手ごたえを得た二冊だった。

頭と心にしっかりおさまったと思えた書物は二度と手に取らないのが、私の流儀だ。
参考書のように何度も確認するという作業は私にはなじまない。まして、それが自分の表現と関わる事柄であればあるほどに…。

しかしながら、私は30年ぶりにその本を手に取った。
事実と真実の違い、事実の集積が真実というよりも真理に近い本質に至る、という記述。
真実に相当する、西洋語が存在しない事実。真実は、相当日本的な情緒をまじえた意味を持つという事。
確かに、とっくに自分の創造的な作業の中では実を結び、すでに実践そのものを繰り返していると言える事柄が書かれてもいる。様々な出版社との行き違いで、本一冊出していなくとも、私にとっての見えざる作業が、例えば、どんな案内状においても、どんなメッセージにおいても続いていたからだ。

おととい、のえの旧友に電話した。
私は今、のえのCDブックの原稿の終盤に来て、様々な他の事柄にも追われ、心底落ちついて物事に集中できる状態を挽回しつつある中で、あらためて書きためたものを読み直しつつ、やはり何人かの、のえのそれぞれの時代の代表的とも言える大切な人物とは、書き上げる前に話をしてみたいという、確かな必要性と欲求にかられた事から発した、最初の電話だった。

彼との電話は、今の私には、非常に示唆に富む内容だった。
はっきりと、ある意味、私とあらたに、のえの事で語るべくもないようにも映る反応で始まりつつも、きわめて冷静に、その真意を私に伝える真摯さにはとても打たれた。
それぞれにとっての、かけがえのない、のえ。この人物には、この「かけがえがない」という表現さえ拒まれかねない脅威をどこかで感じるひとときがあったけれど、彼が示してくれた事は、むしろ「何者でもない、のえ」が存在し、その、のえと共にあった時代が、何ものでもなく、彼にとって、忘れるはずもないけれど、ただそのままに、あるがままに存在している事を示してくれて、それは私の深いところを刺激するような、そんな電話線と電話線をつなぐひとときとなった。
具体的な事柄は、これ以上は書かない。のえの本の原稿に生かせられれば生かす。

そして、今朝、私は本当に今というこの時期、あの番組から「切れよう」としている今、「切れたい」と思っている今、なにかに導かれるように、前述の二冊の本を手に取った。見もしない癖に、ベッドの傍らになぜか最近置きなおしたばかりだった。

私が、のえの本の原稿書きで突き当たっているのは、のえという人間の、私が産みの母親であるという事実に、「取材」されようとする大半の人々がどうも「ひるむ」らしいという事だと、私は思いつづけてきた。そして、今もある意味それは変わらない。これからも変わらないだろう。きっと最後の一文字まで、その事実に対する私の苦闘は続くだろう。

しかしながら、この、のえの旧友との電話でのやりとりは、また別の領域と位相に私を連れ出す事になった。
むろん、彼には「取材されている」という意識はない。親らしい人物が、なにやら、のえのCDブックを書こうとして、その「説明部分」の補足のために、彼にはなにもするべき事はない、というのが最初の反応だったからだ。
話すうちに、「説明」という表現が、私に対して不適切だったらしい、と彼は気づいてくれた。それが、まさに、のえの唄がのえの表現であったように、私自身の表現でもあるという事に気づいてくれたからだ。

彼は、けっして私と「話す」という事態に「耐えていた」という様子ではなかった。が、なにかを持ちこたえているという程度には、私に感じられた。おそらく、彼と私が全く別の立場であっても、のえという者を、のえという存在が発していたものを、今は亡きものとして、それでも心にとどめ、心に刻もうとする、その一線だけは互いに守ろうとしてくれているかのように。
それ以上でもなく、それ以下でもなく…。


前おきとは言えないような、長い出だしになった。
ここで、不思議と私の思考の回路、感覚のひらめきは、あの番組へと戻っていく。

のえの旧友が、私の「取材」というよりは、ただ単なる電話を受け取り、耐えていた「快」と「不快」を、どこかで私はつよく意識していたからかもしれない。
彼にもし今問うたなら、「快も不快もありませんよ」と言うに違いない事を承知しながら、私はこの稿を進めている。

私は原稿を書いて表現しようとしているから、カメラを回し、映像として表現しようとしている取材者とは、どこかで立場が異なるかもしれない。ただ、「取材」という意識に立つとき、ある種、共通するものが働く事を、今はあえて基盤にして記すこともまた、ここに念を押させてもらう。


「快」の部類。

最初のテーブルの、めがね選びのシーン。まあ、
「ケイコチャン、そういう『従順』なところがあるから」
という、誤解されやすい会話はあるとしても、あれはあれ。

もちろん、野外の食事のシーン。母子母子家庭論議が、いつの間にか、
「このパンおいしい」に飛躍する瞬間。
ここは、いろいろな立場の人がいろいろな見方で見てくれた事が、きわめて面白い解釈を成り立たせてくれている。一人一人が、このシーンをどういうふうに見たか、という事実の集積によって、私は、この番組の意味なり本質なりを、見きわめようとすらしたからだ。

もちろん、車の中のシーン。なんだか、ロードムービーぽくて、これがこのまま、本当に、かつての、半月も一ヶ月も通した、キャラバンのシーンとして、その醍醐味も含めて映し出したとしたら、どれほどのドラマになったか、とため息混じりに思わなくもない。
限りなく走りつづけたハイエースでの日本縦断横断数千キロ、いや数万キロのキャラバンの歴史の、ほんの点のような瞬間。それも、体もかなり限界に来ていた「末期」の私たちの、貴重な、稀有なキャラバンの移動の、そのときの会話そのものが放つ面白さには、我ながら不思議な発見があった。

おそらく、こういった「快」の部分は、イマムラ作品の真骨頂なのかもしれない。彼は、映像を通してしか語りえない、そういった部分にこんなふうにカメラを向け、また、彼との信頼関係において、私たちにこんなふうにも「語らせた」のだ。

腕まくりのシーン。カラとの電話のシーン。

挙げればきりがないけれど、映像が映像として放つ、映像としての表現が、こんなふうに、一つのテレビ番組に過ぎない『ハートをつなごう・ゲイレズビアン特別編』に散りばめられている事は、私にはある種、映像の奇跡とも言うべき感慨をもたらした面はある。その可能性がちらちら、きらきら仄見えるほどに、その映像が時間の制約や番組の枠組みの中で、寸断されざるをえなかった事実が至極残念にも思える。


「不快」の部類。

まずは、関西レインボーパレードの取材。これは、自分の中では、何か、もぞもぞするようなおもわゆさと、カメラさん、音響さんと共にディレクターさんがやってきて、大所帯の取材班によって取材されるという戸惑いと共に、「不快」を不快と認識できない状態で進行していたと言える。

そしてまた。
そしてまた、私はこの種のパレードに初参加だったにもかかわらず、取材班に追われたという事実も加わる。初参加の新鮮さは、それによって皆無になった。
取材がなかったとしても、それほど大きな初参加の感動があったかどうかは疑わしい。パレードそのものが、私にとって、新鮮なものだという驚きとか発見とかが、冷静にふりかえっても、特になかったからだ。
多分、私たちは、あらゆる活動に、30年近く、様々な表現をも伴いながら参加してきたから、その一つとして、という点では、他ならぬそのアイデンティティの表出がきわめて大切な事柄であるにもかかわらず、そんなに大きな感動を伴うといった事ではなかったというパラドックスを生んだ。
ややクローズな場所で、それまでにも、いくらも自分たちの事を話してきた、そのときの密度のほうが、よほど濃かったせいもあるかもしれない。

その上にカメラ、音響、ディレクターという三者の存在。
自分が自分のままでいられない、奇妙な重圧感を、最初の頃には感じていた。本来の私だったら、カメラも照明も、両手で払いのけていたかもしれない。
…あんたたち、なんなのよー。なんのつもりで、こんな事してんのさー!…

二時間余りのパレードが続いていく間の取材だから、忘れている時間だってもちろんあった。気づけば、待機していた取材班に、真正面からカメラを向けられていたりもした。
あのパレードの時、私はあの「フェミニズムの流れを汲むカフェ」でのイベントのためのチラシを、パレードの参加者に「祈る思いで」配布しつづけていた。
そのチラシには、Lとしてのカミングアウトの事実と、娘ののえの自死にどう向き合ったか、を、そのイベントで語るという告知が書かれていた。
その二つが併記されているチラシを配った上での反応がどうなるのか、という底深い心のうずきが、すでにはっきりと意識されていた。

そして、こんなにも、人件費も交通費も、手間隙もかけただろうNHKの取材にもかかわらず、あの番組ではこの映像は、静止画として一回だけ使われた。それも、試写のあとの私たちの提案で、ああいった形で、冒頭でのみ使われる事になった…。


ここでは、あの番組に関しては、カメラを向けられているとき以外の、話し合いとも議論とも言うべき、「取材」に関しては、あえて触れない。語り合う、語りつづけるという事そのものは、私にとっては、きわめて有益で、自分を整理し、自分を位置づけ、自分の直感力を増幅し、といった働きに傾いたと言えるから、余り問題視すべき事柄は少ないようだ。

イマムラさんが若かったから…今も若いけれどね…もどかしく思ったり、まだ判っちゃいないよなあ、なんて思ったりする事も、彼の真摯さや筋の通し方なんかで、なんとかクリアーできていたようにも思う。

ただ、取材する側という存在は、取材される側が、それによって「初めて」開かされることになる人生の扉、というようなものに対しては、きわめて慎重にしてデリカシーに満ちた姿勢が要求されるという事だけは抑えておきたい。
その点において、彼はぎりぎりセーフ、いやかなりセーフ。うん、まあセーフでしたね。


ここから、私の取材されるという事における「不快」のきわみを記します。

言っておきますが、少なくとも[のえルーム]において、それはほぼありません。かなり丁寧なプロセスを踏んで、カメラを入れていくという手続きを人間として踏みあったという気はしています。

それよりも。

それよりも、[のえルーム]が終わってからの取材。
番組では冒頭に来ていますが、カラの個展の取材、あれはあれでいいのですが、あのあとの「家族」が揃った食事風景のときにカメラが存在したのは、私には苦しみの極限でした。
なぜ、それを回避しなかったのか、なぜそれにノー!と言えなかったのか、というのは、私の苦しさそのものを語ることになります。また、そこでなされた話の内容そのものにも入っていく事なので、これ以上は語りません。もちろん、番組では使わないようお願いしました。

ただ、取材者はあのような形で、ある意味、不用意に入り込んではいけない領域があるのではないか、というのが、あのあと、あの大きすぎる、重すぎる、きつすぎる余韻に苦しんだ私としては、避けようのない、アプリオリな認識として刻まれています。
もしも、その場面にカメラを向けるとしたら、カメラを向ける側、取材する側も、あえて言うなら「はだか」になっていただきたい。
あの時期、私はすでに凄まじい薬害に、それと知らず遭遇しはじめていて、自らの「むきだしの魂」とその傷口の深さにあえぎ、息絶え絶えになり始めてもいたからです。


もう一つ、単に「不快」という表現で片付けていいかどうかは判らないシーンですが。
あの英子の雪かきのシーン。

ここで、最初に私の側の歴史として、「釈明」をさせてください。私はあの5年ほど前までは、それなり雪もかきました。屋根に上って、ヒデコと雪下ろしもしました。屋根から、2メートル近く積もった雪の只中に、見事にすべり落ちた事も、一度や二度ではありません。
ついでに言うなら、運転は今も、自分でもしますし、ヒデコを乗せてもします。唯、ヒデコのほうが、運転は好きです。私は田舎道は嫌いではありません。

さて、あのヒデコの雪かきのシーン。
カメラをヒデコに向けているイマムラさんの姿を見ながら、私は実は喉元まで出かかっている言葉をのみこみました。
「ねえ、イマムラさん、一度、スコップを使ってごらんなさいよ。ただ、カメラで覗くだけよりも、どんな体験か少しでも判るだけで、カメラの向け方ひとつも変わってくるんじゃないかなあ…」

言わなかったけれど、言いたかった。
かつて、娘の一人の彼氏が来て、ヒデコと娘と彼氏と三人で雪かきを何時間かしつづけて、最初にギブアップしたのが、雪国初体験の、大の男の彼氏でした。私はもう雪かきをする体力はなくしていた頃でした。
彼は言ったものです。
「まいりました。大雪さま。あなたはたいしたものです…」。

ディレクターさんは、そんな経験もせず、カメラを回す直前に、普通の靴で来たために、ほんのちょつとの雪の塊にすべって転んで、あらあらと思った私たち二人。でも、そんな事は、ディレクターさんには言いませんでしたね。なにかしら、気づいたかもしれませんけれど。
「まあ、いいか…」。私は、雪かきがヒデコ一人の肩にかかっているつらさを含めて、そのとき、のみこんだのでした。
だからこそか、ある福井県在住の、雪のつらさをよく知る若者が、今では、あのシーンに心を動かし、雪をかきに通って来てくれるようになっている事実もあります。つまり、あのシーンはその役割を、正当な意味で果たしてくれたのです。

とはいえ、私にはその瞬間は、取材されるつらさがあった。ヒデコはむしろ、そんな事を感じているどころではないのは、映像を視た方なら感じてもらえる事でしょう。

世界的に有名な報道写真として、「羽根を大きく広げたハゲタカに今にも襲われそうな、がりがりに痩せたアフリカの女の子がはいつくばっている」写真がありますよね。
この雪かきのシーンの事を思うとき、私はどうしてもこの写真が思い出されます。
そのとき、ヒデコは命の危機にまさに瀕していた訳ではないけれど、雪かきのひとかきひとかきが、命の危機に近づいている、という認識は、すでにもう私の側にはありましたから。

イマムラさんの名誉のために記しておきますが、彼は「のえルーム」の引越しの折の、のえのCDコレクションのナンバー付けの作業の時には、何人ものチームに別れて集中してやったのですが、彼は一人でてきぱきとその作業を進んでしてくれました。きっと向いている作業なのだなあ、と淡々と慌てず騒がず見事に集中する様子に思ったものでした。

もう一シーン。私の日本語教室でのシーンはややつらい。
あの日は、まだ薬害から立ち直ってはいなかった中、
無理を押してした授業を撮ってもらったからです。
絶え間なく、授業をしていた時期の私なら持っていた、
授業の一瞬一瞬を、大切に、コンパクトに、凝縮しながら、
能率よくたたみかけ、判りやすくかみくだいていく、
そんなダイナミックなリズムに欠けている事がややつらい。

専門の人でなければ、判らない程度の事でも、
「あれ、あれはボランティアの教室ではなかったの?」などと、
悠々自適に暮らしているらしい人に言われるとやや苛立つ。



今日は、あえてか、自然かは判らないのですが、「取材される 快と不快」というタイトルが、私から飛び出してきました。
権利とか、義務とか以前の、なにか、人が人である事によって起きる、「取材」という人為的、恣意的な行為によって生じるなにものかを、とりあえず書き留めたいという欲求に、
のえの旧友との電話による対話によって、私がかられたからのようです。

快、と一言で言っても、一歩間違えば、それはすぐにでも不快に転じます。
不快、と一言で言っても、なんらかの工夫や心遣いで、それはもしかしたら、次の瞬間には、快にもなるのかもれません。

ただ、たった今、私は、この番組から、できる事なら限りなく離れてみたい衝動に駆られながら、この文章を結ぼうとしている、その事だけは明らかにしておこうと思います。

ケイコ   2012年6月6日  朝に大半を書いてから中断、午後6時過ぎに書き上げる
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