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その日々、空は果てしなく広かった

その日々、空は果てしなく広かった

剛くんのメッセージを読んでから、庭仕事のみならずその延長というより、明確な目的をもって、私の部屋から一番遠いところにあって、朝の散歩というほどではないにしても、朝の小さくて大きな旅みたいに、田んぼの畦を歩いて、カラが描いた壁画が斜め遠くから見渡せるところまで歩いた。壁画はわが書斎の窓外に広がっているというのに、これぞ灯台もと暗しというのかなあ、遠いのだ。見渡すためには…。

ただし、窓から見下ろすと絶壁のようにそのモチーフが語りかける。絶壁だ。否、絶景だ。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとしだから、外に出る。庭をまわる。花々をやりすごす。ぐるりと野原となった敷地内を歩いて、猪よけの柵をまたいで畦に出る。
今朝、畦をひとりで歩いていて気づいた。この地域でぼちぼちこの壁画を見に来てくれる人たちは、何食わぬ顔をして畦道を歩く。平均台というほどではないにしても、ちょっとしたでこぼこもある草のある細い、水の張られた田んぼに挟まれた道は、それほど歩きやすいとは言えない。みんな、実に堂々と歩くなあ、と思っていた。


いや、違う。私も歩いていたんだ。小学生のころの記憶が歩く足元の先から不意にたちのぼってきた。
千葉県習志野市の房総平野の野原のなかに、忽然と現れた25軒の、今から考えればきわめて素朴な木造りの建売住宅の1軒で、3歳から12歳まで、私は両親と姉と、そしていつも黙って私を受け入れていた祖母とともに育った。
すぐ近くには田んぼが広がっていた。それは巨大なくぼ地といっていい広さで、向こう側はかすんで見えないほどで、その向こう側は屋敷町という町名で、子ども心に縁のない地名のような、何かとらえどころのない名称として今も刻まれている。
その田んぼで私はよく遊んだ。ガマガエルが何匹も、これ以上汚いためはないってくらいのところで、棲息している姿を、脅威的な驚きとともに、いつまでもいつまでも観察していたこともあった。

田んぼとともに広がる畦道はいつの間にか、私や近所の子どもたちの遊び場となっていた。
おばあちゃんが花を活けるといっては、松の枝を切りに行くのについていくのも、この田んぼを見下ろす野原のなかのちょっとした小山だった。
そうだ、私は歩いていた。すたすたと、どたどたと歩いていた。あの房総の広大な野原のなかにあいた大きな穴ぼこみたいな、まるでどでかい隕石でも落ちてできた窪地みたいな田んぼ道を歩いていた。歩いていた、歩いていたのだ。
そして、時には走っていたのだ。

東京オリンピックが終わった翌年、一家は世田谷に引っ越した。父が国家公務員をなぜか早期退職し、ある商店経営に着手したのである。
世田谷の商店街は狭々と幾つもの店がたてこんでいた。その一軒の二階が我が家の住まいとなった。おばあちゃんは始まっていた認知症を、住まいが変わって一気に悪化させた。

あの日々、私は東京の空の狭さにうなった。もっと空が見たかった。もっと海が見たかった。もっと赤い夕陽に染まりたかった。
雪が降ると、中学までの道の途中にある空き地がうっすらと白くなった。足跡をつけて遊んだ。ぽこぽことはまるほどの北陸の雪なんかではなく、淡いはかない、今にも消えそうなうっすら白い空き地を、そうっと踏みしめた。
中学への通学路には今度こそ、本当のお屋敷があって、そこはうっそうとした森に囲まれていて、大邸宅などとても見えない。なんとか背伸びをすると、少しは見えたような記憶がよみがえる。

習志野から世田谷へ。
それは田んぼと田んぼに張る水とそこが波立つ風の仕業を知る格好の場所から、狭い空の、ちょっとした空き地だけが救いみたいな場所への、家族揃っての移住でもあった。
私は千葉県のまだ田舎だった野原が、刻々と住宅街になっていく様子を目の当たりにしながら育った。
家の前には畑が広がり、母は野菜が足りなくなると、そこからひと房くらいは失敬して、料理にいろを添えた。この人、すごいなあ、やるなあって子ども心に思っていた。
そんな母は都心に早朝のバスに乗って通勤していた。
父は国家公務員として東京に通っていた頃もあったし、東北に単身赴任していた時期もあった。そういう時は母は、えらく開放されたようで生き生きとした。台風なんてなんのそのっというように、雨戸をとんとんと打ちつけて、なんでもできるのよーってうそぶいていた。

そうなんだ。私は田んぼを、畦道を駆け抜け、走り、歩き、いつくしみ、遊んで暮らしていたのだ。
あの小学校時代。あの習志野市花咲町の、今や昔の建売にすぎない木造の一戸建てに、母の夢をこめて住み…父は母に押し切られてここを購入したとあとで聞いた…未舗装の通学路を歩いて登校した。
その日々、空は果てしなく広かった。
入道雲は、むくむくと夏の空にせりあがった。
夕焼けは目にしみるほど赤く、時に紫にそまり、時に藍色に目に焼きついた。

私は畦道を歩いて、歩いて、広い空をぼんやりといつまでも仰ぎみながら、気づけば中学生になっていた。そこには「偏差値」という名の、人間評価が待っていた。
空の広さなど忘れなさいと脅かす、東京の街が待っていた。

2016年6月5日 昼前  恵子 
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| 人生の深遠から煌めく | 09:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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