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せっかく取り寄せ読み始めたけど『沈黙の町で』はダメだった。微妙なニュアンスが、はるかどこかへ向かっていかないのだ。

せっかく取り寄せ読み始めたけど『沈黙の町で』はダメだった。
重松清の『十字架』のほうがよほどいい、文章が「赴いて」いかないのだ。
微妙なニュアンスが、はるかどこかへ向かっていかないのだ。
というより、例えばこのような叙述に私はまいってしまう。
「ニュースを知ったこの町の、中学生の子供を持つ母親たちは、全員眠れないだろう。」

中学校内の在学生の死亡事件。事件とも事故とも自殺ともつかない…。
そういう始まりは、まあいいのだ。しかし、眠れないのが「親」なら判る。
なぜ、ここに「母親たち」と来るのだ。まったく解せない。父親は眠れるのか。
というより、眠れる母親も父親も、眠れない母親も父親いるとしか思えない。
確かに群像劇だから、絶えず人称が変わる。その人物に託された世界観かもしれない。
それにしても、そんなに簡単にそうゆだねてしまってもいいものなのか。

刑事たちの眼差しで書かれているところ。
「コンビニの前で、不良中学生がたばこを吸って溜まっていた。」
うむ、「不良中学生」と断じることができるのは煙草をすっていたからか。
しかし、この名詞の使い方は私にはとてもできないというか、許せない。
むろん、刑事だから許される人物観とも思えない。ニュアンスがまったくない。

今度は、教師の側の叙述。
「恐る恐る記事を読むと、昨夜時点で自分が知っている以上の情報はなかった。
それどころか、屋根のトタンに着いていた複数の足跡についてはまるで書かれてはいない。
警察が発表を控えたのだろうか。初めてのことなので、判断の仕方も判らないのだが。」
最後の一文、陳腐にすぎる。初めてのこと、それは当然のことだろうから。
またも別の教師についての段落。
「普段はのんびり屋の後藤が、あられもなく動揺していた。学校を襲った初めての危機のせいで、教師たちがいろんな一面を見せる。」
「あられもなく」という副詞が「あられもなく」使われているよねえ。なんかしっくりこない副詞句である。これは感覚の問題もあるかもしれないけれど、他の表現がいかにもステレオタイプなところに、急にこういう表現がくると言語感覚をいよいよ疑う。
「ひどく動揺していた」くらいでちょうどいいんじゃないか。似つかわしくなく、女性の「あられもない」姿をつい想像してしまいそうな表現を使わなくともなあ、とすら思う。

亡くなった中学生と親しい子どもの母親の述懐。
「それを考え出したら、内臓がぞわぞわと蠢く感覚があり、百合は気が気でなくなった。もしも自殺だったとして、遺書に名指しでもされたら、うちの息子の一生はだいなしだ。いじめられっ子はそういう復讐をしがちだ。」
いくら、群像劇の一人をになう、ある母親の思いとして書かれてあるとしても、これは駄目だ。ここで私は読むのをやめた。時間もエネルギーも、心身の消耗ももったいない。
『アルネの遺品』を続けて読んだほうが、精神衛生にも創作の継続にもよほどいい。

この作品の中には、ヒーローも悪人もいない、というのは、それはそれでいい。
しかしだ。これは書き手の側の限界をむしろ露呈していると言えまいか。
何が言いたいのか、判然としないことで、浮かび上がるリアリティをねらっているとしても、これではあんまりだと私は思う。
きわめて浅い。心が動かない。新聞記事を肉づけしたかのような記述。
小説が小説である理由が不明だ。不明であるならあるで、深めようもあるはずのものを。

アマゾンの古本で送料込で340円で購入した本はこうしてお蔵入り。
「不明解国語辞典」の最初の言葉というものの定義にあるように、
言葉にはおもむきがあるのだ。それは言葉が赴き、赴かせるなにものかだ。
それが言葉が立ち上がっていくときにこの小説にはない、と感じる。
まったくないと感じる。

こういう本がけっこうあるのは知っている。
大昔、面白いよと言われて読んだ探偵小説がそうだった。
何が面白くて読んでるのって思った。
むろん、めちゃくちゃ面白い探偵小説だってあるんだよ。

重松清の『十字架』にはまだ緊迫感や、祈りのようなものがあった。
なければならないかどうかは知らない。
ただ、読書という行為を引っ張っていく根拠が確かにあると感じた。
まあ、重松さんのだって、後半はこんなもんかいな、ってな物足りなさ、
この人、結局当事者ではないんだものなって思いが浮かんだんだった。

ただ、この『十字架』では、親というものがどういう存在か、
それも自殺した子どもの親とはどういう存在なのか、
それは掘り下げられていた。
それは思いがけない私へのエールともなった。

そろそろおしまい。
読みきっていない本のことを、これ以上とやかく言うのはやめよう。

ただ、朝日新聞のこの小説の連載が終わるころ、
著者が新聞連載というものに初めて挑戦した意気込み、
その他、ご時世がご時世だから、生半可に書けない、と言っていた
そんな記憶が鮮明だったから購入した、それだけは確かだ。

しかし、すでに私は裏切られている。
群像劇だって掘り下げかたはある。
群像劇だからこその広がりや深まりだってあるはずだ。

そう思いつつ、今日の投稿を閉じる。

2016年3月28日  恵子
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