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悼む権利・悼む自由・悼む使命・悼む義務

悼む権利・悼む自由・悼む使命・悼む義務
……長文です。時間のあるときにでも。

「お盆」の季節をはさみ、色々な体験もし、色々な思考がらせん状に私を行き来した。だからここになかなか書けなかった。SOTTO虹、の営みのありかたも根本から考える時機が来ているという、最初は切迫していたけれど、やがてこれはやむないことで、ゆっくりやりかたを探ろうと変化していって、今はじいっと思っていることが多い。
庭の草花の水やりも少し控えめでもいい日が増えてきて、心身ともにまだまだ疲れやすい日々には少しありがたい。そして、ふと佇んでもいる。

「お盆」を前にて亡くなられた、知人がいた。ひとときは友人といえるつきあいがあった。危うい状態のなか、闘病中だということは知っていた。英子は一度、ネット上で交信していたが、私はそれすらしなかった。
英子には、そのことが突然やってきた。いつもそう。それなり親しかった人の、そういう瞬間って彼女には判るのだ。少したって確かめてそうだと判った。
北海道に行っている間には、町内のおじいさんが亡くなられたのを知った。年末の展示室開きに、この町内で二人だけやってきて、展示室に上がってくれたその一人。ちゃんとにお別れをしたかった人でもあった。
このおじいさんとは、不思議な交流が最近になって芽生えていた。集落いちばんの働き者で、黙々と動き続ける姿がいつもそこにはあった。最近は彼に似合わぬ小さな洋犬を、連れて歩くようになっていた。おつれあいが大変なことになって、そんな小さな動物との触れ合いをいかにも慈しんでいるというふうに私には感じられて、いつしかほんの二三言だけれど、話をするようになっていた。犬の名前を聞いたこともある。嬉しそうに答えてくれたっけ。以前は、緘黙で、無表情で、黙々となすべきことをはいつくばるようにしていたその人の姿は、どこか威厳に満ちていて、誰も寄せ付けないかのようでもあった。そんな人が、避けられず孤独になって、こんなふうに変わっていた。それにはそれで、私の側のことも、彼なりに垣間見たということがあった気がするけれど、それは割愛する。

私は、せめてお線香を上げにいきたいという衝動にしばらくかられた。そのおじいさんにも、その親しかったアーティストの知人のところにも。
でも、やめた。そこには、私の感覚や体験のうちにはない、いかめしい仏壇なんかがあって、私はそこに行っただけで、一気に白けてしまいそうな気もした。いや、悼みたい気持ちは明確にあるから、そんなことはなんでもないかもしれない。でも…としばらく思っていた。思う必要があった。

アーティスト氏は、娘の「うたうたい のえ」のライブのきっかけを作った人でもある。と同時に、衝撃と憔悴のなかから、のえの悲報を知らせたとき、耳を疑う質問をどかんと英子の耳に、電話戦ごしにぶつけた人でもある。
屈託ないと言えば言える。
でもね。でもね。屈託ないですむ、そんな時ばかりではないんだよ。
生きていれば色々なことがあるんだから。

そんなことは彼は、この闘病生活でいやというほど知ったことだろう。
それでも、私にはどこかで判っていた。私たちと彼とのあいだで、のえの死をめぐって起きた出来事の意味合いを、彼はけつして判るまいということを。あっけないほど、「判る」、とこちらが言ってしまえば、彼は言ったかもしれないけれど、それは判ったということではないことを私はどこかで悟っていたとしか言いようがない。
これについて詳細を書く気はない。彼には感謝している。最初で最後の、地元でのライブを実現させてくれたことにおいて。
と同時に、呆れてもいた。それはどうにもならないほどの「屈託のなさ」という名の「無神経さ」だった。それは、私には「単なるおおいなる屈託のなさ」とは、言い換えられないものとしてあり続け、そして、そのままこの世に残っている私の胸のうちに残っている。
「誰も傷つけることのけっしてない、大きな心をもった子どものような心の人」と誰かが弔辞を書いている、と英子が言っていた。

私はそういう彼をも知っている。キャラバンをやるたびに、地元なら必ずかけつけて、ペルーの凝ったアクセサリーなどすすんで購入してくれる時の嬉しそうな様子ったらなかったもの。彼には、私たちはおそらく「同類」で、ただ、私があるスペースで、人の弱さに触れるトークをした時は、英子をして「眠っている人が三人もいたら話せませんよ」と言わせた一人に違いなかった。

人の弱さ、家族観、人間観、そんなものが大切な事柄では、本質的な違いがちらちらと見え隠れしていた。それでも、同じ地に住むアーティストとして私たちは、そして、とりわけ英子は大事にしようとした時期もある。
のえ亡きあと、彼からは、最初の「屈託のない質問」意外に、悼むことばを一度も聞いてはいない。むろん、彼は、ベロ亭に「お参り」に来ることもなかった。ぜひ、来てほしい、と言って、行くよ、と確かに行ったけれど…。

いや、そもそも、地元で本気で、のえへの思いを告げられたことがあるか。この集落の人がその事実を知ったのだって、つい数ヶ月前。信頼する二人のおばあさんには、わりに直後に伝えたのは例外的で、彼女たちは口が堅いから、誰も知らなかったという訳だ。

私は不意に衝動にかられる。この集落のおじいさんのところに、お線香のひとつも上げに行こうかと。しかし、そこにはもはや代の変わった息子さんやお嫁さんがいて、全く自分の思いとは違うことが進行してしまうかもしれない。
私はふっと行ってみたいとも思う。のえが世話になったのは間違いないけれど、同じくらい、のえ亡き後、そのことのおもみを汲めなかった人のところに、お参りにいくってどういうことかと思いつつ。

そして、おそらく今のところは行かないだろうと思っている。
私は私なりの悼みかたを、胸の奥深くでしているのを感じている。

ところで、のえのお別れ…世で言う通夜と葬儀相当…に行こうとする友人を、「なぜ、どうして行くの」と問うた人がいたと、あとで知った。問うたというより、詰め寄った、と言ったほうが近い余韻が残った。これは、今もカタがつかない衝撃として残っている。詰め寄った側は、キョウダイを自死で亡くしていることが、今も私のこころを痛めている。

人の死。それはアプリオリなもので、誰かが誰かを悼むことを止めたりはできない性質のものではないか、と思う。
上記のような、近所の、あるいは近隣つながりのなかで、そんな悼みかたは違うでしょ、という人はいないけれど、それとは全く異質な出来事なのだ。あるいは…。
西成で一年間、のえの部屋を再現して、集まり続けた「のえルーム」に行こうとした人をすごい勢いで止めたひとがいる、という話も三年後に知った。
のえの始めたブログが、ブログ会社の都合で閉じられるとき、「この際だから、もうやめたら」と進言する人が何人かいた。そういうことを強いるって、どういう意味があるのかと不可思議な、誠に不可思議な出来事だった。ブログは引っ越した。



のえの「お別れ」も、「のえルーム」も、のえの作ったブログも、靖国なんかではありはしない。人が人を悼むという機会、しかも、それが最後のホントのホントのお別れだったり、たとえば、ようやく機が熟して、何かを心から発しようとするそのときに、その息の根を止めるようなことをしてもいいものかと思う。あるいは、ブログという大切な悼みの場をそろそろやめたほうがいいのでは、とどこから言えるのかと思う。

靖国神社参拝を擁護する気はないけれど、そこにだって行く人それぞれの思いはある。
なにも、神になった、と信じて行く人ばかりではなかろう。
ただ、日本の党首ともいう人が、どういう目的で行くのかは明確に語られなければならないのは当然だ。

最近、FBを控えめにして、新聞を1ヶ月分読み続けていて、つくづく「悼む」ことの意味合いを考えさせられる。

きわめて個人的でいて、社会的な意味あいをも帯びる、この種の行為をとことん考える。

8月15日は、焼肉のあとの炭があげる炎とともに、のえのトーキングブルースが夜闇をついて鳴り響いた。
「こういうの本当は苦手なんだけど、全く違う入り方をして聞き入った。くっきりとぜーんぶ自然と入ってきたよ」と次世代の友が言った。

お盆なんて、「初盆だから、送るね」とメロンが送られたあの日から、ようやく私のものになった習慣にすぎないのに、どこかに根づき始めている。ただし、仏壇もなければ、お墓も、何もない。そう、のえの立派な喉仏のおコツはあるけれど…。
それから、メモリアルフラワーはもう五個は咲いてもいるけれど。

私は、なにも返さない。あの時、この集落のあのおじいさんと奇跡のように、心がかわせた記憶を大事にしまう。
私は、なにも動かない。あの時、嬉しそうにアクセサリーを身につけたあの人の笑顔とともに、最後までどうやらあのアクセサリーを気に入ってしていたみたいな話に頷きながら。

そして、芯から「悔やむ」「悼む」という営みを、進行させる。
いない、人たちをかみしめながら。いない、そのことを思いながら。
いた、ということをかみしめながら。いた、そのことを思いながら。

悼むという営みは、どんな習慣にも集約されない。
悼むという営みは、どんな義務にも阻止にも強いられはしない。
悼むという営みは、きわめて自由に人の胸のなかでこそ進行する。

それは、人知れない使命。
その人とともにいた、という私の使命。
その人といない、という今の私の息使いとともにある祈りのようなもの…。
きっと、そう。

2015年8月20日  米谷恵子
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