あれから1ヶ月、彼と相対したその時の、誰もしなかった射貫くような凝視を忘れない
あれから1ヶ月、彼と相対したその時の、誰もしなかった射貫くような凝視を忘れない
その方は、ノンフィクションの大家で、めったなことがなければ、お会いすることなどかなわなかったかもしれないかった。が、私は主催された方たちとも面識があり、Sotto虹を通しても話し合ったり、リーフレットの設置をお願いしていたから、率直にお願いする道筋作りは、こちらの覚悟と決心次第だった。
その主催者のIさんとお話したのは、たしかその1週間ほど前。なかなか時間のない方との約束なので、車に乗ったのはきっかり1時間前。ああ、それで、あんな峠道で、慣れないナビに翻弄された私が、初めての前方不注意で、反対車線の側溝に右側の前後の車輪までつっこんでしまうことになろうとは。気がついたら、落ち葉に乗り上げるように車は停車した。
慌ててはいるが、こういう時はかえって冷静に対応する。近くの友人の助けを求める。待つうちに、初老の男性と若者の二人連れが、本当に心配そうに声をかけてくる。この二人が最後まで見守ってくれたのはありがたい。JAFにも連絡したけれど、友達も来てくれて、いつもの小型ではなく中型トラックで、そして待機していたお二人に押すのを助けてもらって、ついに我ジムニーくんは脱出。JAFも断ることに。
その間の慌てようは、なかなかない時間の方との久々のアポだったことは大きい。
走り出す。悪寒が走る。もしも対向車線に車がいたら、正面衝突だった。
スピードはナビに気を取られてあまり出ていなかったし、
大きなカーブだから死ぬか重症か、どちらかだったろう。
いや、反対車線ではなく、左側に引っ張られたら、谷底だった。
転落事故で間違いなく、あの世ゆき。
そこは、なんと「嫁転ばし」といういわくある俗称の、
市内から隣の町内に抜ける峠道だ。
車で駆けつけて助けてくれた友人は後で、
お礼にゆくと言ったものだった。
「お嫁さんたちが恵子さんを助けてくれたんだ」。
そうそこには、あの峠から突き落とされた、
もしかしたら何人かの女たちの魂がいたりもするのかもしれない。
ぞくっとしながら、彼でしか言えないよなあと、唾を飲み込む。
ともあれ、九死に一生を得て、私の腹はどかんと座った。
お会いし、長いこと渡せなかった冊子を出し、
新しいリーフレットをどさっとゆだねる。
単刀直入に、かの先生の講演の前後の日程やら、
こちらの差し迫った事情など話す。
二転三転して、かくして講演当日、
私たちは、一旦は彼が泊まっているホテルに行きかけたり、
車中でのやむない話し合いを覚悟したりはしたけれど、
結局は、彼自身の意志も含めて、
講演後の小さめの部屋での、彼とのかけがえのない、
そして厳粛で真摯で、きびしい邂逅の時間を得た。
まず、彼は、隣りに座ろうとした私と英子を、
彼の真向かいの席に座るように促した。
「車中でお話するようなことではないですから、
そうお伝えしました」とのこと。
出版状況のきびしさを、商業主義の限界として、
今の現状として、彼はやむない助言をあえてする。
黙って聞く私。時に「承知しております」ともこたえる。
私の腹の座りかたゆえか、時折はさむ言葉に動かされたのか、
話は意外に進展していった。
「ドストエフスキーだってありゃ、ノンフィクションですよ。
フィクションじゃあない。「カラマーゾフの兄弟」などそうですよ。
フィクションである訳がない。」
彼がこうやって時間をつくってくださったのは、
彼も私も「自死」で、息子を娘を亡くしている立場で、
彼はすでに本を出版し、私はこれから出版しようとしているなかでの、
誰にも届くはずもない苦境を聞いていただく必要があったからだ。
そのうち思いがけない展開で話は進む。
いや、単に思いがけない訳ではない。
あの『犠牲…わが息子脳死の11日』において、
どれだけ書かないままのことがあったかまで語り出す。
私はすでにこの席の冒頭で、
「娘の人生の、生涯のすべてに、何一つ目を背けず向き合った」
と告げてあった。
私の口を突いたのは、いつも自分の書かれた原稿のある種の傾向として、
全部ではないけれど、特に最期の刻一刻を描いた筆致において、
思っていることだった。
「『死の棘』のようなものかと思っております。
けっして全てではないですが、そういう部分ははずせません。」
彼のなかで大きく音を立てて、魂が揺れていくのを感じた、
と言ったら許されることだろうか。
その後だったか、それからもう少し話した後だったか、
彼と私は、ありえないほど相手の目の奥の奥まで見入った。
真っ正面から、何ものからも目を背けず、私たちは向き合っていた。
厳粛にして真剣、そして、1日4時間睡眠で、
執筆に講演に79歳の心身を酷使している作家先生は、
まちがいなく、私の側にもある、ある種「対等な」気迫も、
底の底から汲み取っとくださったのだと思う。
「僕にはこれだけのことしか言えません。
それでも、あなたのことは尊重したい。チャレンジしてほしい。
そのチャレンジは、もう僕の眼差しなど通りこしてすらいるかもしれない」
ひそかにその眼差しは、そんなことをも語っていたような気がする。
私は私の眼差しに何をこめたろう。
「ええ、先生のおっしゃることは全てよく理解できます。
先生がぎりぎりで人生最後かもしれない活動と執筆をしているのも、
心から理解し敬意を表します。
それでも、私はやるべきことから逃げません。
どんな形であれ逃げません。
あなたは男性作家、息子さんを亡くされた大御所。
私は女性で、母親で、ノンフィクションを書いている無名の立場。
それでも、私は引きません。引きようがありません。
何もかも見てしまっているのですから」
無言の凝視は2分か3分か。
意外な長さで続いた。
先生は、そこにある『地獄と天国』を知っている方だった。
なぜなら、息子さんをあのような形で亡くされて、
しかも、様々な限界の中でも本にされた方だから。
書かざるを得なかった方だから。
そして、それ以前の著作と違う域にいかれた方だから。
私はふっと切り替えた。
「わかりました。
先生にご負担はおかけしたくありません。
このプロローグはもう、朗読などで発表していますし、
家族も友達も何人も読んでいるものです。
差し上げますけど、なにか講評していただくなど、
全く必要ありません。」
彼は少し、いや少し以上に嬉しげだった。
「いただけるんですね。」
そばにいた英子にすれば、彼はもっと草稿を見たかったのではないか、
とも言う。そんなふうにすでに心が動いていたのではないか、と言う。
彼は私の潔さに目を見張ったかもしれない。
だけど、私は80歳間近い老大家になにかを求めるのはやめた。
これで十分。
彼は何一つ私を傷つけることなく、
1点の凝視に全てをこめて、
許しを愛を厳しさを、厳粛さをこめて、
書き手としての性根を確認するように、
いや確認するまでもなく、見届けていたのだ。
これでいいのですか。
僕はここまでしかできません。
それでもいいのですか。
私は今、ぐるりと経巡ってここにいる。
最後の仕上げのここにいる。
あの時のあの凝視に支えられ、肩を押されてここにいる。
ここにいて、のえ亡き後の日々を書き継ぐ。
もっとも厳しい第8章を書き継ぐ。
点検する。確認する。推敲する。
この一字一句でどんな齟齬が起きないかを見る。
柳田先生。
言いそびれたこともある気がするけれど、
何一つない、そちらのほうが正真正銘の実感として残っているのです。
むろん、私は「母親」だから、
全てを書くしかない、というだけではありません。
でも、先生に抗弁するよりも大事なことがあったから。
そして、先生もまたそれを察してくださっていたから。
この現代における絵本の大切さを語るご講演のあとの、
あの30分余り、いや40分。
一期一会か、またお会いできるかは判りません。
でも、必ずや、私は先生のもとにできあがった本をお届けします。
先生の貴重な、きわめて重要な助言を忘れません。
それでも、私はチャレンジします。
「どうかチャレンジをやめないでください。」
その言葉を忘れません。
そして、物書き同士として向き合っていたとき、
そこに娘の「うたうたい のえ」がいることを、
そして、「のえさん」と語ってくれたことを、
私は忘れません。
そんな作家先生、他にはいません。
今のところ、他にはいませんから。
厳粛で真剣で、
真摯で、誠実で、けっして手を抜かないで、私の率直なお願いに、
相対してくださった時間を大切に、
私は前に進みます。
迷うことなく、進みます。
私のノコサレタ人生の時間を書くことに賭けます。
そして、きっと、
何気ないお便りなど、もしかしたらするかもしれません。
どうかお元気で。
最近倒れられたこともあると聞きました。
そして、あの三人で向き合った緊迫もし、
ゆるんだ瞬間もあったあの時間に、
どんな講演でも見せなかった先生のお顔の表情を忘れません。
それは商業主義の出版の側にいつもいる訳ではない、
事実を「星座のように散りばめる」ノンフィクション作家であり、
あるいは、ジャンルをこえて表現者である、
その深奥からこそ見せてくださった表情。
揺るぎなくも、厳しくも、同時に悲しい表情。
私はここから逃げません。
貴重な邂逅から丁度一ヶ月後に記す。
米谷恵子 2015年5月29日
その方は、ノンフィクションの大家で、めったなことがなければ、お会いすることなどかなわなかったかもしれないかった。が、私は主催された方たちとも面識があり、Sotto虹を通しても話し合ったり、リーフレットの設置をお願いしていたから、率直にお願いする道筋作りは、こちらの覚悟と決心次第だった。
その主催者のIさんとお話したのは、たしかその1週間ほど前。なかなか時間のない方との約束なので、車に乗ったのはきっかり1時間前。ああ、それで、あんな峠道で、慣れないナビに翻弄された私が、初めての前方不注意で、反対車線の側溝に右側の前後の車輪までつっこんでしまうことになろうとは。気がついたら、落ち葉に乗り上げるように車は停車した。
慌ててはいるが、こういう時はかえって冷静に対応する。近くの友人の助けを求める。待つうちに、初老の男性と若者の二人連れが、本当に心配そうに声をかけてくる。この二人が最後まで見守ってくれたのはありがたい。JAFにも連絡したけれど、友達も来てくれて、いつもの小型ではなく中型トラックで、そして待機していたお二人に押すのを助けてもらって、ついに我ジムニーくんは脱出。JAFも断ることに。
その間の慌てようは、なかなかない時間の方との久々のアポだったことは大きい。
走り出す。悪寒が走る。もしも対向車線に車がいたら、正面衝突だった。
スピードはナビに気を取られてあまり出ていなかったし、
大きなカーブだから死ぬか重症か、どちらかだったろう。
いや、反対車線ではなく、左側に引っ張られたら、谷底だった。
転落事故で間違いなく、あの世ゆき。
そこは、なんと「嫁転ばし」といういわくある俗称の、
市内から隣の町内に抜ける峠道だ。
車で駆けつけて助けてくれた友人は後で、
お礼にゆくと言ったものだった。
「お嫁さんたちが恵子さんを助けてくれたんだ」。
そうそこには、あの峠から突き落とされた、
もしかしたら何人かの女たちの魂がいたりもするのかもしれない。
ぞくっとしながら、彼でしか言えないよなあと、唾を飲み込む。
ともあれ、九死に一生を得て、私の腹はどかんと座った。
お会いし、長いこと渡せなかった冊子を出し、
新しいリーフレットをどさっとゆだねる。
単刀直入に、かの先生の講演の前後の日程やら、
こちらの差し迫った事情など話す。
二転三転して、かくして講演当日、
私たちは、一旦は彼が泊まっているホテルに行きかけたり、
車中でのやむない話し合いを覚悟したりはしたけれど、
結局は、彼自身の意志も含めて、
講演後の小さめの部屋での、彼とのかけがえのない、
そして厳粛で真摯で、きびしい邂逅の時間を得た。
まず、彼は、隣りに座ろうとした私と英子を、
彼の真向かいの席に座るように促した。
「車中でお話するようなことではないですから、
そうお伝えしました」とのこと。
出版状況のきびしさを、商業主義の限界として、
今の現状として、彼はやむない助言をあえてする。
黙って聞く私。時に「承知しております」ともこたえる。
私の腹の座りかたゆえか、時折はさむ言葉に動かされたのか、
話は意外に進展していった。
「ドストエフスキーだってありゃ、ノンフィクションですよ。
フィクションじゃあない。「カラマーゾフの兄弟」などそうですよ。
フィクションである訳がない。」
彼がこうやって時間をつくってくださったのは、
彼も私も「自死」で、息子を娘を亡くしている立場で、
彼はすでに本を出版し、私はこれから出版しようとしているなかでの、
誰にも届くはずもない苦境を聞いていただく必要があったからだ。
そのうち思いがけない展開で話は進む。
いや、単に思いがけない訳ではない。
あの『犠牲…わが息子脳死の11日』において、
どれだけ書かないままのことがあったかまで語り出す。
私はすでにこの席の冒頭で、
「娘の人生の、生涯のすべてに、何一つ目を背けず向き合った」
と告げてあった。
私の口を突いたのは、いつも自分の書かれた原稿のある種の傾向として、
全部ではないけれど、特に最期の刻一刻を描いた筆致において、
思っていることだった。
「『死の棘』のようなものかと思っております。
けっして全てではないですが、そういう部分ははずせません。」
彼のなかで大きく音を立てて、魂が揺れていくのを感じた、
と言ったら許されることだろうか。
その後だったか、それからもう少し話した後だったか、
彼と私は、ありえないほど相手の目の奥の奥まで見入った。
真っ正面から、何ものからも目を背けず、私たちは向き合っていた。
厳粛にして真剣、そして、1日4時間睡眠で、
執筆に講演に79歳の心身を酷使している作家先生は、
まちがいなく、私の側にもある、ある種「対等な」気迫も、
底の底から汲み取っとくださったのだと思う。
「僕にはこれだけのことしか言えません。
それでも、あなたのことは尊重したい。チャレンジしてほしい。
そのチャレンジは、もう僕の眼差しなど通りこしてすらいるかもしれない」
ひそかにその眼差しは、そんなことをも語っていたような気がする。
私は私の眼差しに何をこめたろう。
「ええ、先生のおっしゃることは全てよく理解できます。
先生がぎりぎりで人生最後かもしれない活動と執筆をしているのも、
心から理解し敬意を表します。
それでも、私はやるべきことから逃げません。
どんな形であれ逃げません。
あなたは男性作家、息子さんを亡くされた大御所。
私は女性で、母親で、ノンフィクションを書いている無名の立場。
それでも、私は引きません。引きようがありません。
何もかも見てしまっているのですから」
無言の凝視は2分か3分か。
意外な長さで続いた。
先生は、そこにある『地獄と天国』を知っている方だった。
なぜなら、息子さんをあのような形で亡くされて、
しかも、様々な限界の中でも本にされた方だから。
書かざるを得なかった方だから。
そして、それ以前の著作と違う域にいかれた方だから。
私はふっと切り替えた。
「わかりました。
先生にご負担はおかけしたくありません。
このプロローグはもう、朗読などで発表していますし、
家族も友達も何人も読んでいるものです。
差し上げますけど、なにか講評していただくなど、
全く必要ありません。」
彼は少し、いや少し以上に嬉しげだった。
「いただけるんですね。」
そばにいた英子にすれば、彼はもっと草稿を見たかったのではないか、
とも言う。そんなふうにすでに心が動いていたのではないか、と言う。
彼は私の潔さに目を見張ったかもしれない。
だけど、私は80歳間近い老大家になにかを求めるのはやめた。
これで十分。
彼は何一つ私を傷つけることなく、
1点の凝視に全てをこめて、
許しを愛を厳しさを、厳粛さをこめて、
書き手としての性根を確認するように、
いや確認するまでもなく、見届けていたのだ。
これでいいのですか。
僕はここまでしかできません。
それでもいいのですか。
私は今、ぐるりと経巡ってここにいる。
最後の仕上げのここにいる。
あの時のあの凝視に支えられ、肩を押されてここにいる。
ここにいて、のえ亡き後の日々を書き継ぐ。
もっとも厳しい第8章を書き継ぐ。
点検する。確認する。推敲する。
この一字一句でどんな齟齬が起きないかを見る。
柳田先生。
言いそびれたこともある気がするけれど、
何一つない、そちらのほうが正真正銘の実感として残っているのです。
むろん、私は「母親」だから、
全てを書くしかない、というだけではありません。
でも、先生に抗弁するよりも大事なことがあったから。
そして、先生もまたそれを察してくださっていたから。
この現代における絵本の大切さを語るご講演のあとの、
あの30分余り、いや40分。
一期一会か、またお会いできるかは判りません。
でも、必ずや、私は先生のもとにできあがった本をお届けします。
先生の貴重な、きわめて重要な助言を忘れません。
それでも、私はチャレンジします。
「どうかチャレンジをやめないでください。」
その言葉を忘れません。
そして、物書き同士として向き合っていたとき、
そこに娘の「うたうたい のえ」がいることを、
そして、「のえさん」と語ってくれたことを、
私は忘れません。
そんな作家先生、他にはいません。
今のところ、他にはいませんから。
厳粛で真剣で、
真摯で、誠実で、けっして手を抜かないで、私の率直なお願いに、
相対してくださった時間を大切に、
私は前に進みます。
迷うことなく、進みます。
私のノコサレタ人生の時間を書くことに賭けます。
そして、きっと、
何気ないお便りなど、もしかしたらするかもしれません。
どうかお元気で。
最近倒れられたこともあると聞きました。
そして、あの三人で向き合った緊迫もし、
ゆるんだ瞬間もあったあの時間に、
どんな講演でも見せなかった先生のお顔の表情を忘れません。
それは商業主義の出版の側にいつもいる訳ではない、
事実を「星座のように散りばめる」ノンフィクション作家であり、
あるいは、ジャンルをこえて表現者である、
その深奥からこそ見せてくださった表情。
揺るぎなくも、厳しくも、同時に悲しい表情。
私はここから逃げません。
貴重な邂逅から丁度一ヶ月後に記す。
米谷恵子 2015年5月29日
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