自殺総合対策大綱見直し素案に対する意見募集に出した二つの意見…「自死を語るタブー」に直面した日々より
自殺総合対策大綱見直し素案に対する意見募集 に出した二つの意見
「のえのCDブック」の私の原稿のところは、まさに一番、社会的な影響力のある問題点の記述に入っています。おととい、そのかたまりについて、あともう少しというところで、切り上げて少々考える時間をとっています。早い話が、おとといから昨日の朝にかけて、前の晩、久々遅めに飲んでしまったコーヒーのせいもあるだろうけれど、まさに書いている核心部分がつきつける深層を流れるリアルな現実が鋭く私に踏み込んでくるかのようで、2時間、また起きてしばらく読書して、また2時間という感じで、あわせて5時間くらいしか眠れなかったから、昨日は、鍼灸院行きも含めて、少し心身の養生につとめたという次第ですが。
折しも、今日は「内閣府」の出している「自殺総合対策大綱見直し素案』に対する意見募集の提出期限。どんなに、のえの本の原稿が急がれていても、この提出もまた、私の人生ではけっして抜きにできない緊急の課題である事は変わりありません。
おとといから、二階のわが書斎に入ったエアコンをつけて、「これぞ本当の冷房ね」という実感をかみしめながら、私のノートパソコンに向かって、二つの意見を書かせてもらいました。
以下の二つがそれです。いずれも1000字限定だったので、ポイントのみおさえています。ただ、字数制限があるというのは、本当に言わなければならない点がなんなのかが、よりいっそう明確に浮かびあがる面が、書きながらあった気がします。今、のえの本の原稿の後半戦の山場にいたっているからこそ、これが書けたという気もします。意見として出したものを、ブログにわざわざ出すのも、やや気が引ける面もあるのですが、9月には、新宿二丁目のコミュニティセンターacta で、こりずに『生きづらさを、あるがままの豊かさへ』と題して、二人のライブトークを、acta 主催、『子を持つ・持ちたいLGBTの思いに寄り添い、生と死を思う辺境の森』構想の協力ということで、させてもらうことも決定。
ここに、私自身の現在の「到達点」をあえて明らかにする事で、こころあるブログの読者に、私がこの4年…10月が来ると、のえが亡くなって4年です…、あるいは、番組前から番組以降のこの2年余り、何に向き合い、何を見つめ、今どこまで来ているか、伝わっていくなら、という祈りをこめて、転載する事にしました。
意見の募集要項には、タイトルはありません。どの大綱の内容と一致する問題点かを選ぶ欄があり、前者は「遺された者の対策」だったかな、後者は「精神医療関係の対策」だったかな、正確な選択肢の言葉は再現できませんが、そんな辺りにポイントをおさえて書いてみたという事をお断りして、またまた、長い前おきをそろそろ終わりにします。
★マスメディアに登場する自死遺族のリスクを軽減するガイドライン作りを
私たち家族は、NHK教育『ハートをつなごうセレクション・レズビアンマザー・家族の自死を見つめて』に家族全員顔を出して出演、性的少数派のみならず、娘の自死の事実、それで互いがちりぢりになるのではなく、つながりなおす悼みの場として娘の部屋を再現、そこで娘の音楽仲間や友人と、私たち母親二人が語り合う営みをもカメラに映しました。それは、社会で「自死を語る」タブーが重くある現実に、天命のように一石を投じられればと、痛みに満ちながらも、ごく自然にできた営為でした。
しかしそれが、多くの視聴者から「見たくないものを見せられたための無視」ないし「どう語っていいか判らない沈黙」にさらされるという痛烈な体験となったのです。娘の部屋を再現して語り合う一年間の試みを、現在の日本では稀有なありえないものとして、その上それを映像として全国に流す選択を、私たちの並々ならぬ覚悟として受け止めた人はわずかでした。事前から恐れてはいましたが、ここまで「自死を語るタブー」の壁が頑と立ちはだかっているというのは脅威的な発見でした。しかも、娘の尊厳に満ちた映像に敬意すら払えない人々の反応に、精神をズタズタにするところまで追いつめられました。
自死遺族ないしは、自死で遺された友人、恋人、級友などは、すでにマイノリティですらない。日本人全員は、無意識のうちに偶然自死で遺されているだけの、「物言わぬ」マジョリティに過ぎないというのが、私が行き着いた実感です。「自死の事実を語り、心静かに耳を傾け、実情にきちんと向き合う」ためには、「自死を痛みと共にひらき語る」社会の実現も不可欠です。
そのためには社会に影響力を持つマスメディアが、自死遺族がさらされている現実をきちんと把握する事を始めなければなりません。自死遺族の自殺率が20倍程度という、彼らのおかれた悲嘆と葛藤の度しがたさ、それをまずフォローされることなく、ますます追いつめられる現実を直視しなければいけない。また、それをマスメディアが公けにする場合は、ありとあらゆるリスクを極力避ける工夫がなされなければいけない。
そのためのガイドライン作りが何よりも必須です。そうやって、きわめて丁寧に「自死をデリカシーをもって語れる」日本になるよう、まずマスメディアに意識してもらいたいと思います。
大津のイジメ自死関連報道では、自死遺族から新たな犠牲者が出ない努力がなされているか、常に気にかけています。
★「隠れ発達障害」への無理解と「性的少数派」の生きがたさと共に
4年前の秋、37歳の娘を「隠れ発達障害」の二次障害である、○○○依存と○○○依存による「自死」で亡くしました。亡くなる二か月前に、「自閉症」の診断を受けています。知的障害を伴わない、自閉度の高い著しい生き難さを抱える、未発見の成人した発達障害者の「消えてしまいたい」余りの悲劇は見えない所で頻発しています。そこには精神科医療における、発達障害へのいまだ克服できない無理解が背景にあります。
自閉症スペクトラムの二次障害は誰も避けられないものの、福祉や医療の側面で適切な受け皿があれば軽減、ないしは解決の道作りもありえます。
ただ一旦、二次障害の悪循環に陥ると、特性の症状化から情緒不安定の内在化、自己評価の著しい低下、努力すればするほど「心の芯が根っこから傷んでいく」という、進行と拡大に歯止めが利かない恐れがあり、その実態は極めて深刻、かつ複雑です。他の精神疾患も様々に併発し、肯定的な自己イメージの形成障害から、不利益を軽減するすべを学ぶ事もできません。
私は幾つかの自死遺族の分かち合いの会に参加して、何人もの発達特性を持つ娘や息子を自死で亡くした親御さんと会いました。娘の遺した宿題として「隠れ発達障害」に特化した自死で遺された人々のネットワーク作りに着手しつつあり、そこからその実態が可視化できるよう鋭意できる事から手をつけたいと考えています。
また、性的少数派と発達障害がその生きがたさのみならず、その特性が重なる人々が何割かある事実も見過ごされています。私自身、性的少数派としても、多くの当事者のみならず、その子ども、その親、婚約者など、周辺の自死の複雑な事実も把握、こちらも深刻極まりない現実です。
が、性的少数派と発達障害が重なる部分への啓蒙活動から着手して、複雑に絡む生き難さをひも解く一助に、私自身の経験が生かされればと講演でも話しています。
その一方で、明石書店から、ミュージシャンだった娘の唄4曲と亡くなる前日まで書ききったブログの日記、娘への様々な人々の思いとその発達特性などを物書きとしてまとめた私の文章、紛れもなく娘が「隠れ発達障害」の凄まじい生き難さを唄いきって逝った事実を、その唄で確認された自閉症専門の野村東助先生の文章と共に、年度内にはCDブックを発刊予定です。
これらを手がかりに、発達障害、及び性的少数派の周辺の自死から可視化できた事柄を「自殺対策」への有機的な提言にしていこうと思っています。
2012年8月17日
1000字を意識して、やむなく縮めたところを、今、少し手直ししました。
人生を一歩進めるたびに、宿題がこれでもか、これでもか、と、まるで神様に見こまれたみたいに増えてきた気がします。だから、今があるのだとと思います。
だから、のえの本の原稿の手をとめて、まさにその歩みとかさねて、この意見を二つ、今日という日に、書いたのだという気がします。
ヒデコはこれを読んで言いました。
「ケイコチャンって、自分のことを徹底的に書いて、こういう意見さえ、まとめる人なんだね。」
それは、一人の人間に起きた複雑な事態の中にも、社会の深刻な問題が様々に反映されて、まるで鏡に乱反射するようにリアルな現実が息づいているのだ、という、20代前半から身に付けた、私の世界観、かつ人生観でもあるのだ、と思います。
ケイコ
★追記★ 最初のマスメディアにおける問題点についての意見は、1000字という限定の中で、細かい経緯を省いています。実は、2011年2月の段階の番組のタイトルが「ゲイ・レズビアン特別編」となっていた事から端を発して、「自死」が描かれているという心構えがない視聴者が巻き起こした、私たちにとっての耐えがたい反応だった面を、あえて飛ばして書かざるをえませんでした。
2012年のアンコール放送の時点で、「レズビアンマザー・家族の自死を見つめて」というタイトルにするためにも、相当のやりとりがありました。そして、このタイトルになった事で、視聴者の反応が基本的には変わった面もあります。ある程度、心構えのある人が視聴者となった面があるのだと思います。
が、それでも、まだまだ「自死を語る」事が、この日本で信じられないほどのタブーである空気を覆すような、映像表現には至っていない面はやむなくあったと言えます。
最初と最後の、それぞれ数分ずつのリメイクだけでも、視聴者の反応がある程度変わった事を大切に、第一歩を刻んだとも考えています。
「のえのCDブック」の私の原稿のところは、まさに一番、社会的な影響力のある問題点の記述に入っています。おととい、そのかたまりについて、あともう少しというところで、切り上げて少々考える時間をとっています。早い話が、おとといから昨日の朝にかけて、前の晩、久々遅めに飲んでしまったコーヒーのせいもあるだろうけれど、まさに書いている核心部分がつきつける深層を流れるリアルな現実が鋭く私に踏み込んでくるかのようで、2時間、また起きてしばらく読書して、また2時間という感じで、あわせて5時間くらいしか眠れなかったから、昨日は、鍼灸院行きも含めて、少し心身の養生につとめたという次第ですが。
折しも、今日は「内閣府」の出している「自殺総合対策大綱見直し素案』に対する意見募集の提出期限。どんなに、のえの本の原稿が急がれていても、この提出もまた、私の人生ではけっして抜きにできない緊急の課題である事は変わりありません。
おとといから、二階のわが書斎に入ったエアコンをつけて、「これぞ本当の冷房ね」という実感をかみしめながら、私のノートパソコンに向かって、二つの意見を書かせてもらいました。
以下の二つがそれです。いずれも1000字限定だったので、ポイントのみおさえています。ただ、字数制限があるというのは、本当に言わなければならない点がなんなのかが、よりいっそう明確に浮かびあがる面が、書きながらあった気がします。今、のえの本の原稿の後半戦の山場にいたっているからこそ、これが書けたという気もします。意見として出したものを、ブログにわざわざ出すのも、やや気が引ける面もあるのですが、9月には、新宿二丁目のコミュニティセンターacta で、こりずに『生きづらさを、あるがままの豊かさへ』と題して、二人のライブトークを、acta 主催、『子を持つ・持ちたいLGBTの思いに寄り添い、生と死を思う辺境の森』構想の協力ということで、させてもらうことも決定。
ここに、私自身の現在の「到達点」をあえて明らかにする事で、こころあるブログの読者に、私がこの4年…10月が来ると、のえが亡くなって4年です…、あるいは、番組前から番組以降のこの2年余り、何に向き合い、何を見つめ、今どこまで来ているか、伝わっていくなら、という祈りをこめて、転載する事にしました。
意見の募集要項には、タイトルはありません。どの大綱の内容と一致する問題点かを選ぶ欄があり、前者は「遺された者の対策」だったかな、後者は「精神医療関係の対策」だったかな、正確な選択肢の言葉は再現できませんが、そんな辺りにポイントをおさえて書いてみたという事をお断りして、またまた、長い前おきをそろそろ終わりにします。
★マスメディアに登場する自死遺族のリスクを軽減するガイドライン作りを
私たち家族は、NHK教育『ハートをつなごうセレクション・レズビアンマザー・家族の自死を見つめて』に家族全員顔を出して出演、性的少数派のみならず、娘の自死の事実、それで互いがちりぢりになるのではなく、つながりなおす悼みの場として娘の部屋を再現、そこで娘の音楽仲間や友人と、私たち母親二人が語り合う営みをもカメラに映しました。それは、社会で「自死を語る」タブーが重くある現実に、天命のように一石を投じられればと、痛みに満ちながらも、ごく自然にできた営為でした。
しかしそれが、多くの視聴者から「見たくないものを見せられたための無視」ないし「どう語っていいか判らない沈黙」にさらされるという痛烈な体験となったのです。娘の部屋を再現して語り合う一年間の試みを、現在の日本では稀有なありえないものとして、その上それを映像として全国に流す選択を、私たちの並々ならぬ覚悟として受け止めた人はわずかでした。事前から恐れてはいましたが、ここまで「自死を語るタブー」の壁が頑と立ちはだかっているというのは脅威的な発見でした。しかも、娘の尊厳に満ちた映像に敬意すら払えない人々の反応に、精神をズタズタにするところまで追いつめられました。
自死遺族ないしは、自死で遺された友人、恋人、級友などは、すでにマイノリティですらない。日本人全員は、無意識のうちに偶然自死で遺されているだけの、「物言わぬ」マジョリティに過ぎないというのが、私が行き着いた実感です。「自死の事実を語り、心静かに耳を傾け、実情にきちんと向き合う」ためには、「自死を痛みと共にひらき語る」社会の実現も不可欠です。
そのためには社会に影響力を持つマスメディアが、自死遺族がさらされている現実をきちんと把握する事を始めなければなりません。自死遺族の自殺率が20倍程度という、彼らのおかれた悲嘆と葛藤の度しがたさ、それをまずフォローされることなく、ますます追いつめられる現実を直視しなければいけない。また、それをマスメディアが公けにする場合は、ありとあらゆるリスクを極力避ける工夫がなされなければいけない。
そのためのガイドライン作りが何よりも必須です。そうやって、きわめて丁寧に「自死をデリカシーをもって語れる」日本になるよう、まずマスメディアに意識してもらいたいと思います。
大津のイジメ自死関連報道では、自死遺族から新たな犠牲者が出ない努力がなされているか、常に気にかけています。
★「隠れ発達障害」への無理解と「性的少数派」の生きがたさと共に
4年前の秋、37歳の娘を「隠れ発達障害」の二次障害である、○○○依存と○○○依存による「自死」で亡くしました。亡くなる二か月前に、「自閉症」の診断を受けています。知的障害を伴わない、自閉度の高い著しい生き難さを抱える、未発見の成人した発達障害者の「消えてしまいたい」余りの悲劇は見えない所で頻発しています。そこには精神科医療における、発達障害へのいまだ克服できない無理解が背景にあります。
自閉症スペクトラムの二次障害は誰も避けられないものの、福祉や医療の側面で適切な受け皿があれば軽減、ないしは解決の道作りもありえます。
ただ一旦、二次障害の悪循環に陥ると、特性の症状化から情緒不安定の内在化、自己評価の著しい低下、努力すればするほど「心の芯が根っこから傷んでいく」という、進行と拡大に歯止めが利かない恐れがあり、その実態は極めて深刻、かつ複雑です。他の精神疾患も様々に併発し、肯定的な自己イメージの形成障害から、不利益を軽減するすべを学ぶ事もできません。
私は幾つかの自死遺族の分かち合いの会に参加して、何人もの発達特性を持つ娘や息子を自死で亡くした親御さんと会いました。娘の遺した宿題として「隠れ発達障害」に特化した自死で遺された人々のネットワーク作りに着手しつつあり、そこからその実態が可視化できるよう鋭意できる事から手をつけたいと考えています。
また、性的少数派と発達障害がその生きがたさのみならず、その特性が重なる人々が何割かある事実も見過ごされています。私自身、性的少数派としても、多くの当事者のみならず、その子ども、その親、婚約者など、周辺の自死の複雑な事実も把握、こちらも深刻極まりない現実です。
が、性的少数派と発達障害が重なる部分への啓蒙活動から着手して、複雑に絡む生き難さをひも解く一助に、私自身の経験が生かされればと講演でも話しています。
その一方で、明石書店から、ミュージシャンだった娘の唄4曲と亡くなる前日まで書ききったブログの日記、娘への様々な人々の思いとその発達特性などを物書きとしてまとめた私の文章、紛れもなく娘が「隠れ発達障害」の凄まじい生き難さを唄いきって逝った事実を、その唄で確認された自閉症専門の野村東助先生の文章と共に、年度内にはCDブックを発刊予定です。
これらを手がかりに、発達障害、及び性的少数派の周辺の自死から可視化できた事柄を「自殺対策」への有機的な提言にしていこうと思っています。
2012年8月17日
1000字を意識して、やむなく縮めたところを、今、少し手直ししました。
人生を一歩進めるたびに、宿題がこれでもか、これでもか、と、まるで神様に見こまれたみたいに増えてきた気がします。だから、今があるのだとと思います。
だから、のえの本の原稿の手をとめて、まさにその歩みとかさねて、この意見を二つ、今日という日に、書いたのだという気がします。
ヒデコはこれを読んで言いました。
「ケイコチャンって、自分のことを徹底的に書いて、こういう意見さえ、まとめる人なんだね。」
それは、一人の人間に起きた複雑な事態の中にも、社会の深刻な問題が様々に反映されて、まるで鏡に乱反射するようにリアルな現実が息づいているのだ、という、20代前半から身に付けた、私の世界観、かつ人生観でもあるのだ、と思います。
ケイコ
★追記★ 最初のマスメディアにおける問題点についての意見は、1000字という限定の中で、細かい経緯を省いています。実は、2011年2月の段階の番組のタイトルが「ゲイ・レズビアン特別編」となっていた事から端を発して、「自死」が描かれているという心構えがない視聴者が巻き起こした、私たちにとっての耐えがたい反応だった面を、あえて飛ばして書かざるをえませんでした。
2012年のアンコール放送の時点で、「レズビアンマザー・家族の自死を見つめて」というタイトルにするためにも、相当のやりとりがありました。そして、このタイトルになった事で、視聴者の反応が基本的には変わった面もあります。ある程度、心構えのある人が視聴者となった面があるのだと思います。
が、それでも、まだまだ「自死を語る」事が、この日本で信じられないほどのタブーである空気を覆すような、映像表現には至っていない面はやむなくあったと言えます。
最初と最後の、それぞれ数分ずつのリメイクだけでも、視聴者の反応がある程度変わった事を大切に、第一歩を刻んだとも考えています。
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