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「死」を安易に描くなかれ¨¨今朝のひらめきから(翌日マチガイ訂正しました。赤字です。)

実は内緒の話だけれど、私は、朝の最初のめざめから、次の寝入りまでの間に、
多くの大事な気づきに深く触れる事が多い。いや、毎日かな。
だけど、その最初の目覚めがまだベッドに入って5時間くらいだと、
このまま起きる訳にはいかないから、だいたいは軽い眠剤マイスリー君5ミリの力を借りて、
頭脳の覚醒を、たたきつぶしてしまうから、そのひらめきは、
次にホントの目覚めの時には、ぼんやりしたものになっている。

だけど。
だけどね。今朝みたいに、7時間ぶっつづけで眠れる「奇跡」が起きると、
その朝のひらめきと気づきが、マイガーデンでの一人の朝ごはんの時に、
次々とやってきて、これをそのまま書いたら一冊のエッセイ集か、詩集になるんだけどなあ、
というところを、まあ、ブログにざざっと書きとどめているのが、たった今の私。

6時間一気に眠れたら、うれしい今。
7時間以上は、まだまだ「奇跡」の部類の今。
これ、2年前の薬害の名残りですからね。ここまで引っ張るのよ。
ドクターのさじ加減ひとつで、患者さまは、ここまで引っ張るんですよ。

まず、ひらめきは、ひとつのキーワードみたいな感じで訪れる。
こういった、ひらめきを、最近はコマーシャルの一言に消費している、
そんな、本当は詩人たるべきコピーライターって多いんだろうな。
だって、優れたコマーシャルの名文句、多いよなあ。

今朝の、警句。
いつも警句って訳ではなくて、詩の一節のようだったり色々なのよ。
今朝は警句だったの。
「『死』を簡単に描くなー!!」。
朝ごはん食べながら推敲。
簡単に、は良くないな。安易に、のほうが適切だな。
実際にブログを書き出したら、「描くなー」ではなく「描くなかれ」となりました。

とりあえず、思い浮かんだのは、ここ数年に観たテレビドラマで観た「死」でした。

けっこう感動もさせられちゃった『ラストフレンズ』だったけれど、
あのDV男が、真情に満ちた若者の一団に自分がけっして入れないと悟って、
白いウェディングドレスをかけて、真っ赤な鮮血を浴びて自ら死を選んだシーン。
めっちゃ、嘘くさくて、つくりものくさくって、やらせっぽくて、
こういうDV男は死んでもらうしかないのですー、
と言わんばかりで、とってもいやでした。
嘘、嘘、嘘って、心のどこかで叫んでいたワイ。

こういう、いやな奴こそ、
たまりにたまった孤独感をああいう形でしか、
ああいう歪んだ形でしか表せない
¨¨それをまあまあ、子ども時代を彷彿とさせて描いていたけど、
死なせちゃあ、あきませんですね。
生きて、生きて、葛藤して、じたばたして、それでも生き延びさせる。

安易なドラマの構成というものに、視聴者は慣れがちですが、
ここは脚本家が踏みとどまらなければ、
ストーカーになりがちな人も、
実際DVしてたり、
その寸前でとどまっている人たちも浮かばれませんよネエ。

それから、もう少しあとに放送された『白い春』。
育ての父、対、実際は娘のことをそんなに知らないDNA上の父。
かつて人を殺して刑務所から、誰も信じられない思いで出所した男。
彼が、実の娘の存在を知り、だんだん「まっとう」に目覚めていくプロセス、
まあドラマはドラマって思いながら、どこか割り切って観ていたけれど、
最後に殺された側の仕返しみたいな感じであっけなく殺されてしまう。

これも反則ー!!って、私の中でイエローカードが上がりました。
いえ、あってはならない反則だから、レッドカードかな。

たとえ、ドラマだって、安易に殺すなよなーってのが、
最近、特にきわだってきた私の中の確信です。
これは、ドラマの脚本を書いたり、脚本家に要請したりする側の、
視聴率も含めた、なにが受けるかをねらうときの境目のような気がします。

そういう意味では、『八日目の蝉』は偉かった。
誰も死んでません。誰も殺しません。
そもそもの原作者は、誰をも生かそうと必死で筆を運びます。
否、パソコンを打ちつづけます。

朝のマイガーデンでは、思いは、LGB映画へと遡っていきました。

古いとこから、『噂の二人』。
シャーリー・マックレーンは、なんであんなに簡単に自ら命を絶っちゃうんだ。
あの前に、重要なシーンが『セルロイド・クローゼット」入りしたと聞いていますから、
きっと本来は、安易ではないのかもしれません。
ハリウッドの当時の策謀で、「安易に」なってしまった。
女友達への「愛」に悩む女は、簡単に死なせていいって訳でしょう。
許さなーい!!

ハンガリー映画『アナザーウェイ』。
これLの人は観なきゃーだめよ。傑作中の傑作。
ソ連が介入した不自由な時代。
だけど、どこにだってLもGもいるのよね。

この映画の結末。
愛された側の女は夫に銃で撃たれ半身不随の身に。
愛した側のL確信犯の女は、鉄条網のある国境へと近づき、
あっけなく国境警備隊の銃声に倒れる。
その瞬間、ぱたぱたと国境を越えていく、大きな鳥の姿。
鳥の姿に、彼女の中の「希望」を託した訳だろうけどさ。

これ、けっして安易なんかじゃないの、判っています。
だって、ロシアでは、今、
まさに性的少数派が「死刑」を執行されているのですから。
その画像を観たヒデコから聞きました。
「吐き気がして、めまいがする」って。
翌日、ヒデコからクレームが。この画像は、パロディだそうです。
まさかね。ロシアともあろう国が、
もうすでに、そこまでやってる訳ないよな、って思ったのは確か。
言論の自由は、奪う構えですけどね。
でも、パロディって、誰がどういう立場で描いたパロデイ??
たとえ、パロディだとしても怖いなあ。どういうことだろうか。

『テルマ&ルイーズ』。
やっぱりラスト。
彼女たちが飛んでいくのは、まだ見ぬ空のはてだとも言うわけー!?
ありえないよー。
車で跳躍したら、車は確実にその重力で落下する。
そこに待っているのは死じゃないか。
だけど、映像の魔力は、そこで観る者の思考をも跳躍させたいかのようにも映る。

私が挙げる映画が古いのは知っています。
東京や大阪や各地の映画祭で、けっして安易に死なせないで、
のうのうと、こそこそと、しゅくしゅくと、淡々と、生きていく一人一人の姿を見せている、
そんな映画も沢山あることでしょう!!

でもなあ、映画祭でもやっぱりぎりぎり殺す殺されるを描いて、
家族が和解していくプロセスを真摯に描いていたり、いろいろですなあ。
あれはドイツ映画だったかな。『サーシャ』。
性的少数派が堂々と生きているドイツの町で、
異なる価値観を持った移民一家を軸に、
父と息子の、生と死を賭けた和解劇は思いのほか深かった。
会場中に響く声で?号泣してた。

少し新しいところでは、『ブロークバックマウンテン』。
ゲイの二人の不倫劇でしょ、と思いつつ、
20年という長さがうれしかった。
でも、最後に死んじゃうものね。
これは殺されるほどの現実が描かれているのだけれど。

『ボーイズドーントクライ』。
これはちょっとつらい。ノンフィクション的な素材だと判っているだけに。
やっぱ、死んじゃうもの。死ななければ描かれないって訳かい。



古い映画から、新しいドラマまで、私がなんで、
今朝のキーワードとして、
「『死」を安易に描くなー」って思ったかと言うと、
私たちは、先駆的な存在だったから、
なーんもモデルなんかなかったって事です。
みんな、死んじゃっちゃ困るだろー!!ってのが、
その当時、すでに10年以上のヒデコとのパートナーシップの只中で、
5人の子どもをも生かしながら、
生きんがために奮闘していた私には、何もかもが不満だったからでした。


どうして、みんな、一冊の本の「プロローグ」だけで、終わっちゃうの。
私たちは、すでに100頁も200頁も書き進んでいるのに、
なんで、誰もそういう現実を描かないのー??




さて、ここからが、この一文の真意に入っていく事になるかも。

あの、私たちの「ハート」がらみの番組で、
私たちの娘の「のえ」の死は、丁寧に描かれていましたか。
あのカフェで、私が皆の前で、娘の事実を言うのが、
不意打ちのように、映った人、手を挙げてください。
あれあれ、見えないなあ。
誰が手を挙げているか。

あのシーンが二回、放送が二日に別れた結果、映像になって、
私は観るたび、体中をつきぬける痛みを意識しました。
たとえ一瞬でも。

だとしたら、観ている人はどうだったんだろう。
最近、そう思いいたりました。
いや、さっき、そう思いいたりました。

その一方で、昨年、きしくも、
私たちの番組の後に、
ロードショー公開された『キッズオールライト』。

今朝のひらめきは、こんなふうにドラマや映画や、
時には現実の人を描いたドキュメントまで、
ヒトゴトのように観賞する、
「手前勝手な」観る人を巡って、こんな順序で展開しました。

『キッズオールライト』が、アカデミーねらいで、
脚本まで二年がかりくらいで吟味され、
女同士の愛の独特のあり方を捨てて、
「普遍性」なんかねらわずに、
Lの子の生きがたさをとことん描いて、
その子を死なせる展開になっていたら、なんて。

私は、まるで、あらぬ事を思い巡らす女神のように想っていました。
想う、という事は、一つの批評の始まりでもある訳で。

それは、私だから、私だから、許される想像でもあります。
まあ、他の人がそんな想像をするのももちろん自由。
そこに建設的な批評眼があるとしたらね。

おそらく、現実にある「死」は、この日本でも、もしかしたら海外でも、
そんなには描かれてはきていない、そんな気がします。
何十年もたってから描かれる、戦争の現実とか、
犯罪の背景にある加害者側の真実とか。

まして、そんなにきちんと掘り下げてなんて事、
機が熟さないうちは、取材される側がまずほとんどの場合、許しませんからね。

でも、私は両手を広げて許していた。
両手を広げて許していたんだよー!!
その事をどれだけの人が意識できているのかなー!



そこで、本末転倒現象が起きたような気がします。

もう1年をすぎたイベントの謳い文句だったから、時効かもね。

「僕達の人生の可能性、広がったよねー!!
『ゲイ・レズビアン特別編』でも、『キッズオールライト』でも¨¨」

あるLGBTの若者を中心に持たれた、
東京でのイベントの呼びかけに使われた言葉です。

このおかしさが判る人は、人間として生きている人でしょう。

このおかしさが今だに判らない人は、おそらくLGBTという枠しか考えられない、
いたって、せまーい、人間としての成長の途上の人々でしょう。
その一人一人が自分の成長に賭けている事を祈るばかりですが¨¨。


ここには、私の悼みと痛みが、
ある種、パラドックスと皮肉に満ちて、こめられています。


だから、「死」はハリウッドのアカデミーねらいの『キッズオールライト』のほうに、
あったほうが判りやすかったし、問題がなかったかもしれません。
まあ、最大公約数的勝利を狙った映画ですから、
結局、アカデミーすらはずしたのは当然ですが。

前回、このブログで書いた、
朝日新聞の小説連載を終えた作家先生の言を待たずとも、
とおに、私たちの現実は、
映画すら通りすぎ、映画すらこえて、つきすすんでいたのです。

そこに、プラスがありますか。
そこに、マイナスがありますか。

ええっ。
そこには、プラスもマイナスもありません!!
そこには、ブラスもマイナスもないのです!!
ないのですよー!

「ポジティブで明るい」のがお好きな人々よ。
まあ、年をとれば、そんなのじゃあ、すまない事は誰の目にも明らかだけど、
単にお年の問題にしたい訳じゃあありません。

「ポジティブで明るい」のがお好きな人は、怖い事がたっぷりおありなのです。
それに向き合いたくないのです。
逃げて、逃げて、避けて、避けて、よけて、よけて、
ぐるーりと回って、やっぱりそこには、自身の死にたいほどの現実がある。

あるんじゃありませんかあ??
まさか、ディズニーランドで結婚式はできても、
人生のお別れ会、できますかあ。
まあ、そんな事はどっちでもいいんだけどさ。

だから、どーなのさ、だけどさあ。



あるがままの現実の中で、「死」を描いた当事者の一人として、
ただならぬ現実の中で、一人の娘の「生と死」を描いている一人として、
すべてのフィクションもドラマもこえて、
あまりある現実の中で、私たちがあの番組の中ですら、
届けようとした事、
まあ、今さらながらだけれど、
思い至れる人は至ってくだされ。
思い至れる人はね。

「ポジティブに明るく」が好きな人は勝手にしてくだされ。
「生も死も」見ないで、自らの不安も恐怖もないふりをして、
カラ笑いをして生きてくだされ。
カラ笑いだなんて、意識もできないほど、
麻痺してるだろうけれど。

「ポジティブ明るく教」を信仰していてくだされ。



ただし、ここだけは、おさえます。

「のえルーム」は生きるための営みだったという事を。

それにすら気づかず、大切な映像をスルーした愚かな人々に、
今日は「愚かな」という形容詞をつける事を、
神様、もし私のそばにいたら許したまえ。
私もかつては、そうだったかもしれない、
その事も含めて許したまえ。



昨日は暑かったね。この福井の、森の中のベロ亭すら。

庭の仕事と、食事作りとをぬって、
晩年の、のえの3年に執筆は及んでいます。

そして、突如、見えるのです。
透き通るように。
ささやくように、
ふってくるように、
私の今日のキーワードがつぶやくのです。


「死」を安易に描くなかれ。



うたうたいの娘の死に向き合いながら、
むしろ、その人生にどおんと耳傾けるのは、
この暑さの中、なかなかのものです。

うだる暑さの私の二階の書斎には、今や、のえの資料で溢れています。

物を書く「まじめな」親に先立って、死んじゃったらだめだからねえ。
あなたの生の片鱗をつかまんと、真摯にまっすぐに、
心の中で紆余曲折をへながらも、その人は、やっぱり探しつづけるから。


そうなった以上は、後に引けません。

食事作り、食事、
資料を読んで頭を整理して、
その合間に、
夜は涼むためにマイガーデンのベンチにヨコになる。
ベンチの鉄の部分がひやっこくて、ああ気持ちいい。

しかし、二階に上がると、むんむんむんむん。
夜でも温度計は30度を越えている。
だって、この部屋、大屋根のすぐ下。
日本中で一番安かったろう、クーラーが効いても、
せいぜい30度を維持するだけ。

今日は少し涼しいので、窓を全開して、風をいっぱい入れています。

普段から、クーラーをかけていても、
同じ部屋の反対側の窓はあけていますよ。風、入るしね。
これって、クーラーって言えるのかしら。


熱中症で死なないようにしなくちゃ。
それこそ、安易に、
「福井でも60歳の女性、熱中症で死亡」
なんて、書かれたくないからね。
その時、それぞれがどんな夢を見ていたか、
どんなに暑くて苦しんでいたか、
それでもなんとか、生きようとしていたかなんて、
ニュースには何一つ出てこないものね。
ただの数字だものね。

ひらめきから端を発して、長くなった。

すごくさびしくて、すごくゆたか。
すごくゆたかで、すごくなんでもない。

落ち着いていて、静かで、
ふと、どうでもよくなりそうで、よくならない。
だから、見ている。
物事を、人の生と死を。


あの番組をぼーんと放り投げると、
そこに巣くった人々の、あしき夢も希望も、
簡単に、とろとろにとろけそうな暑さだ。
とろけるなら、とろけてしまえ、番組くん。

ありゃりょ、織田信長調だなあ。


それよりも、いっそ、宇宙人らしく、
こんな番組放り投げようぜ。
槍投げみたいに、限りない宇宙空間に。
どこぞと、好きなところに行ってクレー!!

ばいばい。
多くの課題を乱反射させてくれた。

ばいばい。
確かであるべきある場所に、確かであるべき人々に、
大きな課題を投げかけさせてくれた。

多大なエネルギーを注いだ。
まるで、遠い昔話みたいだ。
まだ、なにも終わっちゃいないというのに。

ばいばい。

安易に描かれそうになった「死」よ。
安易に映像をスルーし、ひと一人の死すら消費したカラッポのまなざしよ。

それは、生をも安易に映してしまうというのに。
それは、人生を見るものに、
深く考えさせる突破口でもあるはずだというのに。

人生の終わりではなく、始まりだというのに。


ケイコ
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