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死なれる…受身とさとらせない日本語の奥に潜む哲学の妙

カテゴリーは「のえと共に」でも良かったのですが、敢えて「自死のタブーを見抜く」にしました。
このカテゴリーには、やや気負いがある感じがして、
なかなか使い勝手がいいとは言いにくい、そんな感じがあります。

と共に、あの番組で描かれた、のえのことや「のえルーム」のこと、
皆さんの語りにくさ、語らなさの奥にあったものというものは、一体なんなのか、
ということが、
これから書き上げる本の最終テーマとすら言えるかもしれない段階に来ているので、
やはり、このカテゴリーを選ぶ私をよしとしました。

これは、人生の超上級編とも言えるテーマなだけに、
昨年一年間、
様々なやむにやまれぬ反応にまみれたのは、
避けられないことだったのかもれません。

それにしても、あれはなかなか酷なものでしたよ。
もっと、やさしく寄り添いながら、生と死の哲学を語れるような、
そんな成熟した方は、日本にはそんなにはいらっしゃらないのかもしれません。

いえ、案外、隣りのおばあちゃんだったりするのかもしれません。

そうなんです。

東方からの帰路、拝聴した鷲田清一氏の講演「死なれるということ」のはじめのほうで、
先生ご自身が緊張していらっしゃること、
いつもは「哲学者」はふつうのことを奇をてらって言ったりですむけれど、
今日はそうはいかない、なんて、言ってらして、不思議と印象に残りました。
鷲田先生、「自死」については、今まで書いていらっしゃらないような気がしました。
そのことを意識していらしていたのではないでしょうか。

私はさすが!!日本語教師だけに、職業的に、この「死なれる」という、
自動詞の受身形の持つ、日本語独特の含み、響きを、
鷲田さんがどう料理されるのかは、うすうす楽しみにしているところはありました。
楽しみ、というと語弊があるのでしょうか。
その含みの奥行きにこそ、秘められた日本語と日本人の知恵があるように思われたのです。

まだ、自死がここまで多くはなかった時代、
唐木順三は自死者は、「時代を典型的に苦悩した人間」として位置づけたといいます。
その人、一人に典型としての苦悩を感受したとも言える表現です。

また、四十九日の習慣のあり方として、遺体から「死者として生まれる」ことを通して、
やっと「いない」ことを納得するプロセスとしてあったのではないか、という指摘も頷けました。

そのあとの展開は、おおよそこんなところでした。
「死者として生まれる」という心の手続きのあとに、「死者を育てる」ということが始まるのだと。

どれもこれも覚えのあることなのに、ほっと胸をなでおろしました。

私はかつて、「のえが生まれようとしている」というふくよかな実感に、
ふところ深く慰められる感覚を覚えたことがあります。
その日、私はこのブログの日記にそのことをしたため、
皆さんには信じられないかもしれないけれど、
それはそうとしか言いようがないこと、と伝えました。

先生はこういう表現も語りました。
「自分の意識の宛先の人に死なれる」。
すなわち、意識の宛先であるような関係を生きていたはずの人が「死ぬ」ということが、
「わたし」にとってどんな関係で起たのかを明らかにする表現として、
「わたしはその人に死なれた」という表現が、
創出することを明らかにします。
私にとって、その死がどういう関係性の中であるのか、という時に、
初めて「死なれる」という表現が有効になるのです。

その抜き差しならない関係性においてこそ、「死なれる」という、
微妙にして、いわくいいがたい 表現がたち現れるという訳です。

さて、ここで、文法用語である「迷惑の受身」という言い回しを、
先生が使われてしまったことから、
聴衆に混乱が起きてしまったのを感じました。
私だって、自死は「最大の親不孝」、
という身内の直後の語りにぞっとした覚えがあります。
まして、迷惑、という言葉は、
やりばのない怒りややりきれなさを生み出しかねません。

文法用語であることをこえて、言葉の含蓄するところを聞く余裕があったりなかったりする、
様々な当事者ないしは、その周辺の人々にとっては、
「迷惑」の一言が容易につきささってきてしまうということは、想像に難くない実感がありました。

それよりも何よりも、「死ぬ」という自動詞を受身にするところに含まれる、
よんどころない日本の文化社会の中に位置づけられた生き死に、
そんなところを先生は語りたいだろうに、やや講演がつまずきかけている事を感じ、
僭越ながら、それは「文法用語」にすぎないことを念押ししたほうがいいのでは、
と私は挙手して言い添えました。

すでに、心の中でつまずいてしまわれた聴衆の何人が考え直せたかどうかは判りません。
私がふっと出した例文、「雨に降られる」に、先生はとても救われたようでした。
雨は勝手に降る、自然に降る、代表のようなものですから、
そういう意味でとてもわかりやすくもあるので、それを受身にする文化背景が、
より見える人には見えたかもしれません。

以下、講演中のメモからアトランダムに抽出します。

「悔恨とは自己救済である」
「悔いることができなければ、被害者意識ではなく、思い出す事ができない事を思い出し、
見えていなかったものが見えてくることはない」
「他の人の生活ぶりも見えてくるものがある、視野に入ってくる」
「愛と受け止めて愛しなおす」

すなわち、「死者を育てる」とは、自分自身を育てることであり、
愛し返すことであり、
「あなたのことを誰かに話したい」「かつてあなたがいた」と語る人となることである、と。

それは、私の受け止め方で言うならば、
思いの吐露だけではなく、
どう受け止めているか、より一歩意味を広げていく、
そこのところで、現代の生と死の典型として、外側へと『語り継ぐ」「語り部」となる、
ということが現出するのではないか、ということ、でした。

それは、けっして「へこむ」ことではなく、おのずと一歩前に出る事だろう、ということ。

それこそが、「死の孤立」を招かないことではないか、ということ。

孤立させない、ひとつの典型へと育てていく、
その人だけの死ではなく、
他の人にも、自分でも、そう感じ、業、運命を育てていく。

まあ、そんな感じの語りでした。

先生、なんだか、少し大変そうでした。居並ぶ自死遺族の方々を、
きっと誠実な先生は、つよく意識されていたのだと思います。

既視感のある語りだったり、うむ、判る、知ってる、やってる、
という内容だったり、それはそれで私にはとても有意義でした。
特に、この時機に聴けたということは。

でも、聴衆の中から、「頭がまっしろ」という反応が出てきたのは、
やむないことだったかもしれません。

日本では、死はまだまだ孤立している、
ましてや、自死は、いやおうない孤立のただなかにいる。

様々な分かち合いの会で、分かち合われていることは、
けっして当事者でしか判らないことがあるという、
前提の中で語られることがあるからですが、
すでにその限界すら感じている私としては、
時期を得た、鷲田先生の語りでした。

しかしながら、孤立をきわめて、分かち合いにかけつけた方々にとっては、
それはきわめて困難な、
現実離れした「頭がまっしろ」な講演だったかもしれません。

前回のブログのコメントに、
けろたんさんが、のえがそれ相応の年をして確かにそばにいるみたいな、
そんな印象を受けた、と書かれたことが、
少し嬉しい私はそんな先生の語りに連なってもいました。

「死者を育てる」。
それは、いまだ日本では、最も親しい身内のみに、ようやく許され始めている、
ささやかで大切で微妙で、きわどくも切ない営為のようにも思われます。

でも、私は、なんとかここまで、3年と数ヶ月の間、「育てて」きたものがあるのも事実です。
それは、かなり孤独な営為であると共に、
時には、他者にも拠ってたつことによって深まる側面もあるのはあるのです。

そして、毎朝、おきては語りかける意識の宛先、
それが何も変わってはいないことをここに記しておきたいと思います。

そうして、
他動詞である「生む」の、
受身とすら意識されずに、おのずと使われる「生まれる」という言葉。
それが、本当はとことん、受身であることを、
今一度、皆さんに芯から意識していただけたらこの上ないことです。

私は、のえを産みました。
そして、のえは生まれました。

のえは37年と288日を生きました。
そして、みずから死にました。
私は、のえに死なれました。

それが、きわめて深く生と死の哲学を知らしめる出来事であることを、
私はけっして手放したくありません。

たとえ神様に今何を手放したい?と問われても、
私はこの悲嘆をけっしてなくなればよいものとも、
消えればよいものとも思いません。

死なれるということ、
それが、
生まれるということ、
とセットで、人の生を輝かす言葉として、
人と人の関係性をてらす言葉としてあることを、
ひととき、鷲田清一先生の
語りは鮮やかにさりげなく示してくれたように思います。

ケイコ
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| 自死へのタブーを見抜く | 15:51 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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