アイデンティティと暴力…この17日間の空白の底から
ずっと以前に、朝日新聞の日曜日の書評欄で読んで、どうしても手に取りたいと願っていた本に、おととい、またまた私にはありがたい鯖江図書館でお目にかかった。まだ、誰にも読まれていない、新しい書物。ここは、各紙の書評に従って、地道に本を購入している、前向きな図書館と思われる。読みたいな、と思っていた本がなかったことが、最近はないからだ。
さて、手に取ったのは、『アイデンティティと暴力…運命は幻想である』アマルティア・セン著。ハーバード大学で、経済学と哲学を接合させる独特のアプローチで、アジア人として初めて、ノーベル経済学賞を受賞した、インド人の、経済学・哲学教授。
私が最近、ぶつかっている大きな課題を、この書物にはその深い考察で、解くカギが潜んでいるような、何か揺るがぬ予感のようなものがあった。
今日は、ようやくのこと、『こよせへの森』構想の賛同者の名簿を作ったり、5日に向けて準備したり。だが、それとても、私には、私の現生での姿形、すなわち様々なアイデンティティを模索する上での、ひとつのスタイルに過ぎないという、確固とした思考が自分の中に潜在していることが見逃せない。9月18日に大阪でカイ? を持ってから、はてしない怒涛の日々が続いた。特にこの3週間余りはきわめつけで、とてもその事ごとを具体的に語る気持ちにもなれないし、その具体性、直接性に、価値を見出す愚かさのほうが大きく私の思考を埋めていると言ったほうがいい。
具体性直接性は、時間と共に醸成されるべきなのだろう。豊饒なぶどう酒に生まれ変わるために。でなければ、事ごとの醜さに、ほとんどの人は目を奪われてしまうだろうから。
人生は度し難く、一人一人は小さく、しかし、一旦、何かが起これば、そこから様々に複雑に絡みついた事ごとが、際限なく、小さな私という個人にまとわりつき、離さない。
いったい何人の人と、電話にかじりつき、話したことか。どれだけの難問を、解決しようとして身を砕いたことか。誰もそこまではできないだろうと言うほど、私は私に課されてしまった課題に、ある種、身を呈して、刻一刻を生きるしかなかった。
恐ろしいのは、ただただ来月の電話代の金額だ。
傲然と話した。勢いづいても話した。冷静沈着にも話した。声が一瞬にして枯れるほどの叫びもあげた。二時間、記憶をなくしもした。甦ってからは、間もなく冷静な自分がいた。
一人で家にいて、おのずと立ちあがれないまま、這って階段を上り、自室のベッドで氷のように冷たく固まって眠ったこともあった。6時間、この家を離れて、選んで一人になった時間もあった。選び方が唐突だったから、「心配という抑圧」に「敗北」もした。
あるいは、どれだけのパソコンメールと携帯メールを打ち続けたか、
間断なく続いたキーボードの、あきらめることを知らない刻一刻もまた、すでに彼方だ。
証拠のように並ぶ、着信履歴と発信履歴だけが、モノも言わずに私を突き放している。
それでも、けっして、自分を見失わなかった。あの二時間の空白の時、以外は。
そして、今日、夜遅く手に取ったこの本のプロローグから、私のこの間の暗中模索というには醒めていて、試行錯誤というには意識的にすぎる、様々な「たたかい」の日々を言い当ててくれるような言葉を引用することを許されたい。
以下、この本のプロローグより。
実際、単なる悪意だけではなく、概念上の混乱が、われわれをとりまく騒動や野蛮な行為を引き起こす大きな原因になっている。運命という幻想が、なんらかの単一基準のアイデンティティ(およびそれが意味するとされるもの)が醸しだす幻想であった場合はとくに、「見て見ぬふりをする」怠慢だけでなく、「自ら手を下す」遂行を通じて、世界中の暴力を助長することになる。人には多くの異なった帰属関係があり、お互いさまざまな方法で交流しうることを「扇動者や、その言葉に動揺した相手側がなにを言おうと」明確に認識しなければならない。われわれには自らの優先事項を決める余地があるのだ。
帰属関係が複数あることを無視し、選択と論理的思考の必要性をないがしろにすることが、われわれの住む世界を不透明なものにする。そうした趨勢こそ、マシュー・アーノルドが「ドーバー海岸」で表現した恐ろしい前途へと、われわれを押しやる。
そして、われわれはいま暗い平原に立つ
闘争か逃走か、錯綜する思いに駆られながら
夜になれば、ここで無知な軍勢がぶつかり合うのだ。
われわれにはそうならないための、別の道もある。
以上、上記の書物のプロローグの結びからの引用である。
私はこの7月半ばから持ち越した課題を、特にこの20日間近い間に、まさに凝縮するように、「見て見ぬふりする」怠慢だけでなく、「自ら手を下す」遂行を目の当たりに見ながら、
あたかも「正義」の顔をした、小さくて、実にささいに見えて、それでいて、大きく恐ろしい結果をもたらすであろう「暴力」とたたかいえた自分に、このプロローグと呼応する「明確な認識」を持ちえた自身の誇りを刻みなおす。
私もまた、暗い平原に立ちながら、
けっして、この世界を不透明なものにはさせまい。
逃走するものたちを、逃走する世界を、
闘争するものたちを、闘争する世界を、
無知な扇動者や、動揺した相手にあけわたさないために。
私は私の「別の道」を森の中で見分ける力をつけるのだ。
2011/11/01 2:30am ケイコ
さて、手に取ったのは、『アイデンティティと暴力…運命は幻想である』アマルティア・セン著。ハーバード大学で、経済学と哲学を接合させる独特のアプローチで、アジア人として初めて、ノーベル経済学賞を受賞した、インド人の、経済学・哲学教授。
私が最近、ぶつかっている大きな課題を、この書物にはその深い考察で、解くカギが潜んでいるような、何か揺るがぬ予感のようなものがあった。
今日は、ようやくのこと、『こよせへの森』構想の賛同者の名簿を作ったり、5日に向けて準備したり。だが、それとても、私には、私の現生での姿形、すなわち様々なアイデンティティを模索する上での、ひとつのスタイルに過ぎないという、確固とした思考が自分の中に潜在していることが見逃せない。9月18日に大阪でカイ? を持ってから、はてしない怒涛の日々が続いた。特にこの3週間余りはきわめつけで、とてもその事ごとを具体的に語る気持ちにもなれないし、その具体性、直接性に、価値を見出す愚かさのほうが大きく私の思考を埋めていると言ったほうがいい。
具体性直接性は、時間と共に醸成されるべきなのだろう。豊饒なぶどう酒に生まれ変わるために。でなければ、事ごとの醜さに、ほとんどの人は目を奪われてしまうだろうから。
人生は度し難く、一人一人は小さく、しかし、一旦、何かが起これば、そこから様々に複雑に絡みついた事ごとが、際限なく、小さな私という個人にまとわりつき、離さない。
いったい何人の人と、電話にかじりつき、話したことか。どれだけの難問を、解決しようとして身を砕いたことか。誰もそこまではできないだろうと言うほど、私は私に課されてしまった課題に、ある種、身を呈して、刻一刻を生きるしかなかった。
恐ろしいのは、ただただ来月の電話代の金額だ。
傲然と話した。勢いづいても話した。冷静沈着にも話した。声が一瞬にして枯れるほどの叫びもあげた。二時間、記憶をなくしもした。甦ってからは、間もなく冷静な自分がいた。
一人で家にいて、おのずと立ちあがれないまま、這って階段を上り、自室のベッドで氷のように冷たく固まって眠ったこともあった。6時間、この家を離れて、選んで一人になった時間もあった。選び方が唐突だったから、「心配という抑圧」に「敗北」もした。
あるいは、どれだけのパソコンメールと携帯メールを打ち続けたか、
間断なく続いたキーボードの、あきらめることを知らない刻一刻もまた、すでに彼方だ。
証拠のように並ぶ、着信履歴と発信履歴だけが、モノも言わずに私を突き放している。
それでも、けっして、自分を見失わなかった。あの二時間の空白の時、以外は。
そして、今日、夜遅く手に取ったこの本のプロローグから、私のこの間の暗中模索というには醒めていて、試行錯誤というには意識的にすぎる、様々な「たたかい」の日々を言い当ててくれるような言葉を引用することを許されたい。
以下、この本のプロローグより。
実際、単なる悪意だけではなく、概念上の混乱が、われわれをとりまく騒動や野蛮な行為を引き起こす大きな原因になっている。運命という幻想が、なんらかの単一基準のアイデンティティ(およびそれが意味するとされるもの)が醸しだす幻想であった場合はとくに、「見て見ぬふりをする」怠慢だけでなく、「自ら手を下す」遂行を通じて、世界中の暴力を助長することになる。人には多くの異なった帰属関係があり、お互いさまざまな方法で交流しうることを「扇動者や、その言葉に動揺した相手側がなにを言おうと」明確に認識しなければならない。われわれには自らの優先事項を決める余地があるのだ。
帰属関係が複数あることを無視し、選択と論理的思考の必要性をないがしろにすることが、われわれの住む世界を不透明なものにする。そうした趨勢こそ、マシュー・アーノルドが「ドーバー海岸」で表現した恐ろしい前途へと、われわれを押しやる。
そして、われわれはいま暗い平原に立つ
闘争か逃走か、錯綜する思いに駆られながら
夜になれば、ここで無知な軍勢がぶつかり合うのだ。
われわれにはそうならないための、別の道もある。
以上、上記の書物のプロローグの結びからの引用である。
私はこの7月半ばから持ち越した課題を、特にこの20日間近い間に、まさに凝縮するように、「見て見ぬふりする」怠慢だけでなく、「自ら手を下す」遂行を目の当たりに見ながら、
あたかも「正義」の顔をした、小さくて、実にささいに見えて、それでいて、大きく恐ろしい結果をもたらすであろう「暴力」とたたかいえた自分に、このプロローグと呼応する「明確な認識」を持ちえた自身の誇りを刻みなおす。
私もまた、暗い平原に立ちながら、
けっして、この世界を不透明なものにはさせまい。
逃走するものたちを、逃走する世界を、
闘争するものたちを、闘争する世界を、
無知な扇動者や、動揺した相手にあけわたさないために。
私は私の「別の道」を森の中で見分ける力をつけるのだ。
2011/11/01 2:30am ケイコ
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