やっと
去年、亡くした娘のブログ、『うたうたい「のえ」こえあるかぎり♪ 』を
実は、管理者として引継ぎ、ゆっくりだけど書いてきました。
その隣には、彼女の、叫びや、夢や苦しみや楽しみや辛さが書き綴られていて
携帯で良くここまで書き綴ったものだと、その命の言葉をそっと振り返っています。
だから、私がそこに言葉を書く事がいいのかよく悩みます。
だが、掲示板やのえの友人と知る人々を意識するにつけ
のえが立ち上げたページを、引き継ぐことを、私の仕事に課していた。
のえのつながりをどこまで大切にできるのかと。
もうひとつ私に課していたことがあった。
私は、のえの母であるが、世間的な言い方をすれば
ママ母である。
私のパートナーケイコが生んだ子どもで、
パートナーの悲しみは
私ヒデコとは質の違う悲しみで
私の思いとは、重さの違うものです。
私は、このパートナーの思いの深さを受け止めることも
私の課題にしていた。
1年近くの日々のその課題は、
大阪に、『のえルーム』を構え
のえの周囲の人々に来ていただき
のえと語らってもらい
のえの生きていた時間の
続きみたいな事を、その部屋で
ケイコ母と共に過ごすことであった。
課していたというと、義務にしていたと思われるかもしてないが
自分がいるところがトンネルのような場所で
どうやって、私の思いを自分で認知することができるか
判らなかったので、
まず、パートナーの苦しみや
のえの友人たちの苦しみに
関わることから始めれば、自分の行く方向が分かってくると思ったからだ。
私はよく、自分を直接助けるより、他者の思いに関わることがやがて自分を救うと考える道を選ぶ。
9月20日に『一年目の、のえと語る会』というのを計画した。
実は、6月15日に、乳ガンの手術を受けた私は、術後、自分が大丈夫だと確認できてから
その計画を立てた。
パートナーの容態は、5月から7月までの2ヶ月ぐらいずいぶん良くなっていたが
その前と、そのあと、一緒にいるのが大変なくらい辛そうで、なんとしても
9月20日を、のえの友人と共に越えなくてはならなかった。
準備は思ったより大変だった。
始めは、誰が来ても構わない、のえを偲びたい気持がある人なら誰でも
よいと思っていた。
だが、『のえルーム』にとんでもないやさしさのない人がきてしまい、
ケイコが思い切り傷ついて、
春にはケイコの姉や東京の娘夫婦や友人たちが来て、
皆でずいぶんケイコと過ごす時間を持ちやっと回復していたのに
そのオトコの訪問以来、ケイコは再び、具合を悪くしてしまった。
そんな時、また、思い切りエネルギーを使う。
招待と予約の二本立ての方法で、
その一周忌のような集まりを持つことに変更した。
ケイコは、一生懸命、のえの友人たちに手紙を書いた。
私は、一生懸命、のえの友人たちから届いた
手紙やメール、問い合わせや、時に来るSOSにまで答え続けた。
急に分けありで参加できなくなったという、重要人物と前日の深夜までメールでやり取り。
司会の依頼。各担当者の役割分担。
こんな人選をどうして私がするのか?
のえの友人にこんなに関わっていいのだろうか。
とにかく、いい会ができれば、この9月の末から
のえの亡くなった10月5日までの時間が
越せる。
友人たちの苦しみも和らぐ会をなんとかできないか、
ケイコと話し合った。
とにかく、生みの母の苦しみを少しでも和らげる会話や言葉や
のえの存在の意味づけが欲しかった。
こればっかりは、想像を絶するものがある。
パートナーの私にさえ助けられるかどうか判らない。
私は、自分のことがまだトンネルの中のままだった。
沢山の友人とキョウダイやキョウダイの連れ合いも来てくれて
後の報告は、恵子が書いたとおりだ。
私は、パートナーとのえの友人たちにできることはした。
のえルームも、うたうたいのえのブログも、のえと語る会も
私には、終わった。
当日、支えてくれた、のえルームに関わるっている人たち
本当にありがとう。
トンネルを出られそうだ。
私が、意識していたのえの一番身近な友人の多くは、会に来てくれなかったが、
私には、のえとのかかわりで動くことはすべて終わった。
これからは、私が、のえの友人にではなく
直接、あの人たちと関われるなら関わる。
やっと、・・。やっとだ。
泣いた。泣けた。私の思いを抱いている。
これから、私は、心置きなくのえを偲ぶことができるだろう。
やっと、始まる。
これから、のえが亡くなった事実に向き合えるだろう。
こういう区切りってほんとに必要だ。
その、思いを泥人形にして、焼いて、
あさってからの私の個展に出そうと
焼けたばかりの泥人形を、ダンボールの箱に詰めようとして
破損した・・・!!^。^。^。
フクゲン~~^。
ヒデコ
実は、管理者として引継ぎ、ゆっくりだけど書いてきました。
その隣には、彼女の、叫びや、夢や苦しみや楽しみや辛さが書き綴られていて
携帯で良くここまで書き綴ったものだと、その命の言葉をそっと振り返っています。
だから、私がそこに言葉を書く事がいいのかよく悩みます。
だが、掲示板やのえの友人と知る人々を意識するにつけ
のえが立ち上げたページを、引き継ぐことを、私の仕事に課していた。
のえのつながりをどこまで大切にできるのかと。
もうひとつ私に課していたことがあった。
私は、のえの母であるが、世間的な言い方をすれば
ママ母である。
私のパートナーケイコが生んだ子どもで、
パートナーの悲しみは
私ヒデコとは質の違う悲しみで
私の思いとは、重さの違うものです。
私は、このパートナーの思いの深さを受け止めることも
私の課題にしていた。
1年近くの日々のその課題は、
大阪に、『のえルーム』を構え
のえの周囲の人々に来ていただき
のえと語らってもらい
のえの生きていた時間の
続きみたいな事を、その部屋で
ケイコ母と共に過ごすことであった。
課していたというと、義務にしていたと思われるかもしてないが
自分がいるところがトンネルのような場所で
どうやって、私の思いを自分で認知することができるか
判らなかったので、
まず、パートナーの苦しみや
のえの友人たちの苦しみに
関わることから始めれば、自分の行く方向が分かってくると思ったからだ。
私はよく、自分を直接助けるより、他者の思いに関わることがやがて自分を救うと考える道を選ぶ。
9月20日に『一年目の、のえと語る会』というのを計画した。
実は、6月15日に、乳ガンの手術を受けた私は、術後、自分が大丈夫だと確認できてから
その計画を立てた。
パートナーの容態は、5月から7月までの2ヶ月ぐらいずいぶん良くなっていたが
その前と、そのあと、一緒にいるのが大変なくらい辛そうで、なんとしても
9月20日を、のえの友人と共に越えなくてはならなかった。
準備は思ったより大変だった。
始めは、誰が来ても構わない、のえを偲びたい気持がある人なら誰でも
よいと思っていた。
だが、『のえルーム』にとんでもないやさしさのない人がきてしまい、
ケイコが思い切り傷ついて、
春にはケイコの姉や東京の娘夫婦や友人たちが来て、
皆でずいぶんケイコと過ごす時間を持ちやっと回復していたのに
そのオトコの訪問以来、ケイコは再び、具合を悪くしてしまった。
そんな時、また、思い切りエネルギーを使う。
招待と予約の二本立ての方法で、
その一周忌のような集まりを持つことに変更した。
ケイコは、一生懸命、のえの友人たちに手紙を書いた。
私は、一生懸命、のえの友人たちから届いた
手紙やメール、問い合わせや、時に来るSOSにまで答え続けた。
急に分けありで参加できなくなったという、重要人物と前日の深夜までメールでやり取り。
司会の依頼。各担当者の役割分担。
こんな人選をどうして私がするのか?
のえの友人にこんなに関わっていいのだろうか。
とにかく、いい会ができれば、この9月の末から
のえの亡くなった10月5日までの時間が
越せる。
友人たちの苦しみも和らぐ会をなんとかできないか、
ケイコと話し合った。
とにかく、生みの母の苦しみを少しでも和らげる会話や言葉や
のえの存在の意味づけが欲しかった。
こればっかりは、想像を絶するものがある。
パートナーの私にさえ助けられるかどうか判らない。
私は、自分のことがまだトンネルの中のままだった。
沢山の友人とキョウダイやキョウダイの連れ合いも来てくれて
後の報告は、恵子が書いたとおりだ。
私は、パートナーとのえの友人たちにできることはした。
のえルームも、うたうたいのえのブログも、のえと語る会も
私には、終わった。
当日、支えてくれた、のえルームに関わるっている人たち
本当にありがとう。
トンネルを出られそうだ。
私が、意識していたのえの一番身近な友人の多くは、会に来てくれなかったが、
私には、のえとのかかわりで動くことはすべて終わった。
これからは、私が、のえの友人にではなく
直接、あの人たちと関われるなら関わる。
やっと、・・。やっとだ。
泣いた。泣けた。私の思いを抱いている。
これから、私は、心置きなくのえを偲ぶことができるだろう。
やっと、始まる。
これから、のえが亡くなった事実に向き合えるだろう。
こういう区切りってほんとに必要だ。
その、思いを泥人形にして、焼いて、
あさってからの私の個展に出そうと
焼けたばかりの泥人形を、ダンボールの箱に詰めようとして
破損した・・・!!^。^。^。
フクゲン~~^。
ヒデコ
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