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「ローカル」という言葉の周囲で

最近、ある芸術家とある俳優が対談している番組で、前者が後半の結びに近い部分で、「それにしても、今や『ローカル』なところから見た作品こそ大切だ」といったことを言っているのを聞いた。その番組としては、「世界を股にかける」男性二人の対談という結びの部分で、あえてその言葉だけ語られるのに、やや違和感を感じた。

それとは違うけれど、26日の越前市、元武生市でのライブトークで、「世界へ世界へ、と出た後に、武生というローカルで生ききる」といったことを語ってくれた方がいた。その方はまさにそういう人生をたどってきた方だから、それはそれでその方のことではあった。

ただ、しかし、武生に住んで30年以上たって、武生で生き切れない自分自身を感じている私には、やはり相当距離のある物言いではあった。

私たちの人生において、武生に『ベロ亭』としてい続けることがいかなる重みと痛みと、喜怒哀楽に満ちていることか、のなにがしかを、一時間余り語ったあとであっただけに、
その瞬間、私の体内信号は、ガイガーカウンターのように警報を発した。

某芸術家が「世界を股に」かけていながら、「ローカル」を語る違和感とは違うけれど、それならそれで、私たち「ベロ亭」にとっての「ローカル」とはなんなのか、という思いが、私にも、そして共にトークをしていたヒデコにも、めきめきと沸いてきたのは事実だった。

そのあとの語りについては今書かない。

その後、二日間くらい、あらためて「女三界に家なし」という言葉を思っていた。それは私たちにとっても同じなんだな、と妙に思い入った。自分たちの居場所が風通しがよく、周囲にも誤解も偏見も、早とちりも思い込みもなく、必要以上でもなく以下でもなく認知されていることがあって、はじめて居場所は居場所としての意味を光らせることができるのではないか。そんなことも思っていた。思っていたからこそ、持った地元での、それなりの潔さで臨んだトークではあった。

「ローカル」というとき、そんな落とし穴におちいっていないか、私たちは耳を研ぎ澄ましていかなくちゃならないんだろうな。

声なき声。
目を光らせながら、自分という局地的な居場所で、やわらかく傷つきやすく、しかしおおいなる声の源でもある、自分の弱さと向き合っている声。

弱者とか少数者とか女とか。

弱さとか見えない差異とか。

そんなものをあらためて思わせられた、私にはややたやすく聞こえる「ローカル」への警鐘ではあった。

ケイコ

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