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薄氷の上のグループがんばろう

九月十四日で丁度七年の歴史を持つに至った「グループがんばろう」の名前の由来は、たまたま私が百円ショップで見つけたイラスト入りハンコウでした。そもそも、がんばろうは、富国強兵と共に浮上した日本語だと最近、詳しく調べて知りました。だいたい、日本でも「がんばるのはやめましょう」というのが、いまや主流ですよね。

さて、そんな名を持つこのグループ、いまや最大の危機を迎えています。

彼らは「自由」を知りません。「民主主義」を知りません。もちろん、これに関しては日本でも、まさにそこのところを本当に体の底から知っている人はいまや少数派になりつつあるのは、否定できません。
しかししかし、ここでは横のつながりというものが、まずありえません。上下関係しか人間関係を知らないのです。
いつか今では問題のここのリーダーが言ったことがありました。「僕には友達は一人もいません。」その底深い恐ろしさがいまや、露呈したというべきでしょうか。

さて、今年のクスコでの活動中にリーダーとしての最低限の責任も自覚も放棄した年長のその人について話し合った末に、彼らはこともなげに、まさになにもなかったかのようにその人を「許容」しようという結論に達します。一人ひとりの見方は微妙に異なるとは思いますが、その限界を乗り越えるべく、日本への報告さえなかった日々を省みたり、どうしてそうなったかを分析することは、まるでなされないのです。わずかでもなされたとしても、それは余りに浅く、互いに甘えあう以外のなにものでもありません。

最近、私たちはこの国で再三、悪の限りを尽くした大統領が再選される理由が、ほぼ完璧にわかったように思いました。彼らは自分も省みないように、他の限界、問題点を指摘することもしません。しないというより、してはいけないと思っている。

だから、私があらゆる手を尽くし、心を砕いた末に、私たちがボリビアに旅行中に彼らは話し合った末に、帰宅した私たちにを披露されたのは、緘口令でもしかれたかのような「グループ活動ですから」という硬直しきった雰囲気でした。一人でも抜けたら話すべきことは何もない、話してはいけない、そう皆が言い切るのです。一見一人ひとりを大事にしているかのようでいて、私たちへの拒否とも言える雰囲気です。

皆、とにかく帰りたがります。毎日話し合いで遅くなっているから迷惑している、とかなんとか。ところが遅く来た、あの問題のリーダーが、自分個人の意見だと語りだせば、黙って聞き入るではありませんか。この矛盾にはあいた口がふさがりませんでした。

リーダーは、自らの過ちを一切振り返ることなく、グループの未来像を語りました。そこには私たちもグループの「ハーモニー」の一環として位置づけられていました。「僕は先生たちを切らないよ。先生たちにどんなに問題があっても、僕は立派な人間だから、先生たちもハーモニーの中に入れてあげているんだ」と言外に語られているのは、みえみえです。彼は特に「ハーモニー」という言葉が好きなようです。ある日、ヒデコは言ったものでした。「一人ひとりが自分の本当の音を出し切らない限り、本物のハーモニーなんてありえない。」私もすぐに引き継ぎました。「一人ひとりの自分自身の音は一人ひとりが自分で、自分の意思で探すのよ。それには長い時間がかかることもある」と。彼らは何を言われているか、わかりかねるようにぽかんとしていました。

自由がない、ということは、自分自身を探す、なんてユメのまた夢なのでしょうか。

上から押し付けられた「ハーモニー」とは、すなわち全体主義を意味します。日本では「美しい国」を標榜していた首相候補が落ちましたが、ずばりそんな言葉で語らなくても、じわじわと進行している国の危機は、血が凍る恐ろしさでもあります。

今日、おそらく最後になるであろう、話し合いが持たれます。自らの痛みを隠し、自らの過ちを省みず、弱さを甘えにすり替え、日本との架け橋、という大きな課題に対して、もうほとんど意思も自覚ももてなくなった、グループという化け物には、これからの私たちの希望を託して支援することは、おそらく不可能なのではないか、と思われます。

一人ひとりの若者には、愛着もいとしさも思いも、かけがえのない信頼も、失っていないところもあります。それすら、社会性に乏しい若者に至っては、身の毛がよだつ発言をして私たちの血を凍らせます。たとえば、重要なメンバーだったエレーナがこのグループを去ったのには、それなりの経過があります。会の会報の読者ならすでにご存知の通りです。彼女は彼女の人生のたたかいの途上で、このグループと自分の人生との折り合いがつかなくなり、自ら退いた、それが厳然たる事実です。それにはグループの無責任体制も大きくかかわっています。

それを、余りにも簡単に「サムライが切腹させるのに似ている。同じだ。」とのたまうのです。エレーナを切ったのは先生たちだ、それはもはや彼にとって変えようのないことのようです。驚きました。悲しみというものは極限にいくと、無感覚になるものです。ましてや、それが去年の活動で毎日数時間を費やして教えた若者だとなると、もはや。

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| プエンテの会から | 01:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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