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11月13日のある全国的な催しに向けたフクイの集まりでの、やりきれない、実に信じがたい体験をいま。【超長文ご容赦・重要な報告でーす】

【超長文ご容赦・重要な報告でーす】
去る1月15日こそ、海外からの移住者を支援するある全国的な団体の、この夏のフクイでの催しに向け、ややこしいことになってる報告をしてしまわねば、と考えていた。
だって悩み抜いて電話した関西の、アジアの女性たちの支援をしてきた女友達は言ったのだった。「その11月の第1回目の実行委員会で何が起きたかは、皆で全国の皆で共有すべきことだもの、ちゃんと書けばいい」と。
あるいは、別のずっとその団体に関わってきたアジアの国に通いづめの女友達も書いてきた。「夏に会えるの楽しみにしてるわよー」。
おっとー、その前に、このフクイってとこのベロ亭にとっての困り感めちゃ高―い実態をたんと知っていただかなきゃねえ。
ということで11月13日まで遡ります。それから、一つ前に投稿を3カ月寝かして挙げた、その前日12日に胸痛めながらつらくドキドキしながら書いた文面も目を通してね。
えいっ、知るカー。何も悪いことなんかしていないのに、ここまで私をベロ亭を、平気のヘイザで無視するフクイってなんなんだー。これ書いて、ともかく肩の荷おろそっと。

さて、1月半ばから遡るは、ほぼ2カ月前のこと、私はその実行委員会とやらに出向きました。ひとりでね。その決心と覚悟たるや、そう、あの電通でパワハラや過労で自殺した高橋まつりさんのことやら、毎日ひどい男たちに囲まれてフルタイムで働いている東京の女友達のことを思って、このくらいのこと、私だって持ちこたえなきゃー、って悲壮な思いをかみしめかみしめ、冷静に穏やかにって祈りながら、運転していったのです。はい。
あった、あった、フクイの生協マーケットの会議室ってこんなとこにあったんだ。入りまーす、とは言わなかったけど、それなり態勢を一瞬にして整える。ああっ。
あら、どうも私が誰だかは誰もわかんないみたいで良かったあ。あっ、あの若い人、前日に聞いていたHくんかなあ。「あのう、Hくんですかあ。はじめまして」と言いながら、きわめて自然に互いにハグ。たしか神戸出身って聞いていたし、あの界隈は外国人多いから自然だなあ。あとからそうかそうか、このグループ「ハグ」だったって納得したけど、「剥ぐ」じゃあないのよね。その前だか後に、この日の告知をしてくれた、ある喫茶店でまえーに会った女性ともハグ。「よく来てくれました」だってえ、私はここに来なきゃあならないことをしてきたからなんだけどね、とは言わなかったけれど。
それからもう少し若い女性もいて、おのずと受付っぽい用紙に名前と住所を書くことになって、その瞬間、それは来ました。ぐああーん、胸痛です。心臓がぎゅっと締めつけられて、どわあんと胸が凝縮してちぢみあがっていく、やばーい、死ぬかな。こんなとこで死ぬわけにいかん、持ちこたえろー、ええい、あれあれ、やばいやばい。
「大丈夫ですかー」という声が耳元。ええい、見たら判るだろ。
それでも約一分半くらいに渡った心臓収縮は、深呼吸したかしなかったか忘れたけど、不思議とおさまる。胸をおさえながら、教訓その1、こんな実行委員会で死ねるかー。
ありゃあ、ミスター困った氏、あんなに歳くったんだ。あの隣りの人は団体中央の人??
全国レベル??というのがありとして、いやあ、どうなんだろ。あっ、あんなに私たちのこと、80年代から困らせる噂ばらまいた困った氏、私のこと判らないのはよーしだ。
会議の段取りのできかけた椅子と机の一角から、台所のある広い空間に移って深呼吸、こういうときは距離が大事。遠くから、はてさてどうなるのかなってなものでー。
最初は、困った氏が団体中央からの堂々氏を紹介して、パワーポイントでこの団体の歴史とか、まあ、困った氏が持ち込んだフクイフォーラムですから、困った氏が実は中国人なんかの実習生というか研修生に実力行使して、どれほどお役にたちはったかの実写の静止画なんかも含めた「啓蒙教育」です。はいはい、知ってますよ。組合関連とか、労使の交渉とかはお手並み拝見ってくらいお強いオン方なのは、雇い主の回し者の「自称警官」との空港なんかでの丁丁発止なんか映してオルグしなくたって、それなり知っとりますって。いやあ、それでも偏りすぎてないかなあ。困った氏の活躍のみ、この団体の歴史が終わったらパワボで駄目押しなんて、ちと、やりすぎと違いますかあ。まっ、今日は多めに見とこっと。
私ゃそれでもメモ取りましたで。堂々氏のレクチャーで知らなかったこと、意表を突くことなんかはね。いやはや、誰もメモ取らなかったけど、全部知ってたり暗記できるんだ。すごい人たちですねえ。

しばし休憩。外に出て深呼吸。リラックスリラックス。ここでは死にたくはない。お茶お茶、それからお菓子―っと。ああそう、Hくん、必死だねえ。若い人こまみたいによく動くよね。いや、こまになりきってるぞ、いいのかないいのかな。大丈夫―? はこっちの事か。
それから、自己紹介から意見交換と入りましたー。困った氏、まさにこの瞬間は「困った感」をすぐにでも解消したかった感ありでした。そこの人からまずー、と自己紹介の最初に指さされたのはワタクシでございました。そのこころは…あの見たことないオナゴは誰かいな…でしょうねえ。いやあ、ワタクシ恥ずかしいのでご遠慮しました。
「あとにしてください。いちばん最初なんて恥ずかしいですから」。「そうですよねえ」とはマイクを回しているHくん。素直でいい子だねえ。ああ、良かった、ほっ。
10数人の自己紹介は、どこから来たか、と名前ばっかーで、なんでこの集まりに来たのかなんて、誰も言わないのよねー。妙な感じだけれど、まあフクイでは毎度でございだから、まあそんなもんかなって。ひとりだけ、子育て支援の現場で外国籍のママさんたちと接点があるって、さっきハグした女性が言ったくらいかな。
ここまでのホーコクは1月の半ばまでに書いたんですわ。しかしです。このあとを書こうとして力尽きた。だってここから私の自己紹介という枠づけの語りが「少し時間をいただきます」と念押しして始まり、まあ、このときはマイクを回していたHくんに「恵子さん、あとで十分話す時間はありますから、そろそろこの辺で」と促されるまで、ともあれ、ペルーのクスコでの、そして住んでるわが市内の街中での日本の外と内での、「外国人」との主に日本語を教えることを通したふれあいを淡々と穏やかに冷静に話したのです。
すでに2月11日の3回目のこの集まりを経験した私は、もはや違うところまで歩いてきていて、この1回目の記憶を克明に語れなくなったけど、ともあれ私は切り出したわけです。
「フクイではあまり知られていないでしょうけれど」全国に200人余りの支援者がいて、毎年カンパを集めてクスコに行っていたことやら、日本のわが市内で、どんなふうに日本語を伝えることを通して、日系ブラジル人と接していたか、ともかく、かいつまんで判りやすく、なーんにも知らない、心がなかなか動かないようなフクイ人でも少しは伝わるように、かなり心を決めてさらさらと語ったのです。
それから、ふっと、ホワイトボードに書いてあった、この集まりの三大原則なんかが眼にとまって、「秘密は守られる、とあるので言いますけど」ってなもんで、性的マイノリティとしての自分のことを語りかけたのでした。
その時なんですよ。Hくんが「そろそろ」なんて言ったのは…。深ーい自意識が、「えっ、このタイミングで遮られるの??」と作動。というのも、自分のことを語るのが主眼なんかである訳がないではないですか。つまりです、私は英語圏の英語教師のALTの面々のみならず、日系ブラジル人であれ、私たちと同じ性的マイノリティの友人もいたりで、いかに彼らが、そのことをフクイで隠し通すのに腐心しているかを知りぬいていたからです。
ところがだよー。まるで自分のことを吹聴したかのようなタイミングで、痛―い遮られかた…。Hくんのマイク持ちとしての困り具合も判ったので、やむなく切り上げました。かれこれ私が話したのは12分くらいだと思いますけどね。Hくんの、「あとで十分に語り合う時間はありますから」を一旦信じるしかなかったもんね。しかし、自分の核心的なマイノリティ性のみ語ったまま、中断させられる苦痛って奥深くで疼くんだよね。疼きましたぜ。どうして疼くのか、とあとで考えて、そうだ、外国人のこのマイノリティ性こそ語りたかったんだわ、とついに思いだしたくらいに、場に寄り添う気持ちのほうがまだ働いていたときでした。はい。それに、この日はF市の国際交流協会の人なんかもいたので、ますます通じるわけないかあ、というロボットさん眼前感覚を払いのけて話さなきゃならなかった。県の国際交流会館の外国人支援のベンゴシっていう人も堅そうだし、まいったな、と思いつつも、来た以上はめげなかったしね。それにしても、私の話すことにビビッドに興味をもって反応する人がひとりもいないってのは、正直きつかった。でも、まああとがあるんだし。

後半の話し合い?って、私には話し合いには思えなかったけど、フクイ流儀はいたしかたないなあ、と、連絡先を医者の女性にとりつけたり、ともかく六月の催しの当日二日間のプログラムをどしどし決めていく困った氏の話をある程度は棚にあげて聞いたり、メモしたりはしましたぜ。はい、まっさらなこころで対応しなきゃあねえ。という覚悟維持。
どういうタイミングだったかは忘れましたが、また途中から私は話すときが来たと心を決めて、語り始めようとあいなりました。
その時です。怒鳴られたのは…。
「手短かにさっさと済ませて。」
「はっ」「4時までだから」
時計は3時40分を指している。念を押すようにそのことを言い、
「4時半までではないんですか」と毅然としながらも穏やかに言う。
「早く帰る人がいるんで、さっさと話して」。
語気のつよさに蹴倒されないよう気力を維持。
「いえ、4時半までと聞いてます」。
誰か一人、帰らなくてはならない人がいる、ということを説明される。こちらは片道一時間、車を運転して最大限、このために時間を使おうとして来ているのに、どういう態度だ。
それに、そもそも始まりだって遅くなったではないか。1時半からというから15分には着いていたけど、始まったのはこの市内在住の近場の人の遅れで、なんと2時近く…。
困った氏のうしろのホワイトボードには、三つの約束事が書かれている。
秘密を守ることに加えて、人の話は最後まできちんと聞く、そして、互いの意見を尊重し合って語り合う。これを率先?して、たたきわり、破りぬいているのが、この集まりのすべてを取り仕切っている困った氏であるのが、なんと、もはやだねー、とはあとからつくづく思ったもの。それにしても、だからこそ困った氏なんだけどね。
こうやって書いているからって、傷つかなかったなんて思わないでくだされ。この頭ごなしの、手短かに!!さっさと!!というのは、実に堪える。なにはともあれ、天涯孤独、孤立無援のその集まりで、なんとか私と英子の外国人支援の蓄積を伝えたいと、そして、そのことをもって、六月の全国的な催しに連なっていきたいと、少なくともこの時点では真摯に真剣にこころから思っていたからね。きつかった。胸に食い込んだね。ぐさっ。
それでも、持ちこたえて話す。しかし、「手短かに、さっさと」脅迫を受けたあととあっては、中身を整えるのはそれなりできても、心の余裕はどこかでそがれつつあるのは間違いない。
お前なんかいないことになっているのに、うるせえなあ、さっさと要らんこと終わらせよ、というのが、事実上、発せられているメッセージというより恫喝なんだから。
そんなときも、他のフクイのメンバーは誰一人として、「聞きたいですよ、ちゃんとに」とかの意志表示はなし。これはきつい。パワーハラスメントってこういう見て見ぬふりの人たちの暗黙の加担をもって完成するのだわ、という体験。

ともあれ、わが市内の日本語教室で、二交代の労働に疲れ果てているぼろぼろの日系ブラジル人たちに教える苦労を話す。深夜勤務を強いているその大工場の名前を叫んで、罵倒するとすっきりして、穏やかに授業ができるんですよね、みたいな話に、遅れて来て、隣に座った、F市の北部の地域から来た国際交流員の、やはり日系ブラジル人の女性が深―く頷くのが嬉しい、お初のポジティブ反応。この日本語のセンセー、苛酷な労働の続く日々をぬってブラジル人に日本語を教える工夫がどんなもんか判ってるんだ、っていう頷き。むろん、彼女が遅れて入ってきたときには、ボアタルジって、まあコンニチハ相当のポルトガル語であいさつを交わして、名刺も渡したのですうっと私の話が入ったのね。しかし、他の日本人の反応の乏しさったら。
このときだったか、私が話しているときに、行政の国際交流協会の人が平気のヘイザで話を中断させて、かなりの長話を困った氏とする。すべて困った氏が取り仕切っている以上、こういう展開になるのであるのであるのである。
私、上を向いて宙を見たなあ。切なかったけど、非暴力直接沈黙行動。私、やっと話し出したのに、またも遮られたーって、暗黙の意思の開示。こういう一人芝居ってけっこうつらい。蝕まれる。
それからもう少しあとになって、
「彼らブラジル人は日本社会に溶け込むのに必死で、なかなかこういう催しにやってくるまでにはならないかなあ。ともかく必死だから…」。
と静かな声でふりしぼる私。すると困った氏、ここぞとばかりにありえない展開。
「ブラジル人コミュニティにどかどか入り込んで、今すぐどうかしようなんて思わん。」
そんなこと言っていないでしょ。彼らがいかに必死に溶け込もうとしているか、それだけ言っているんでしょ。まるで、私がずかずか入り込んでやろうとしているとでも言いたげ。というより、あとで聞いたら、英子ちゃんは、この団体の各地の催しに今までも何度か出て、たまたま困った氏と同席するたびに、その偶然の遭遇で英子が発言するたび、「早く」「さっさと」と言ったというのだから驚きだ。なにか私たち二人のことを、この人は害虫か毒物かなにかと勘違いしているとしか思えない対応。対応とは言えない暴挙。
そこにある外国人のため息とか、声なき声とか、そういったものを語ろうとしている私の声だって、そのときは彼は聞こうともせず、なにか強迫観念で暴言を吐くのみ。ありえない。
ともあれ、プログラムや連絡先やらの確認も進んでいく。やりきれない。ほとんど誰も口をきかない。黙ったちゃんばっかー。フクイ人ってムーブメントってこういうふうに作るって思いこんでいるのかなあ。メンツも、国際交流協会とか会館の相談担当の弁護士以外は、反原発の運動のメンツとまったく同じ顔ぶれで成り立っている不思議、奇妙、おかしくない???
だいいち、外国人支援に直接、行政のオスミツキなんかなしで、関わってきたのが困った氏と私のみ、というのに、やたら私を無視するってどうかしている。パワーハラスメント以外のなにものでもない、とじわじわと思ったのはその晩、一切眠れないなかで。

はっ、突如思い出しましたわ。この後半、6月の催しのサブタイトルを決めるのに多少、四苦八苦。私も四つくらいの案がホワイトボードに出ているのにしたがって、決まったメンツがあれこれ言うのに加わって、口をつくのは弁護士とか交流協会関係者だけだったけど、どうも「外国人」がご法度用語で、ありゃりゃって感じで、とはいえ、このときだけは、困った氏、私の言う「とにかくこのタイトルは仮題ということにしたら。すぐには決めないほうがいいですよ」には割に素直。どうやら「仮題」がお気に召したようでした。はい。
それにしても、そのあたりで耳にした、若い「ハグ」の連中がこの1回目の集まりのチラシだかなんだか作って、「外国人」と使って「中央」に責められたらしい、という話には、やばーって思わされました。そうでしょ。これが放送禁止用語ならぬこの団体禁止用語になっているなら、その論理性、背景明らかにしなくっちゃだめですもん。それ、不透明だった。で、この点については、日本語教師的には外人よりは外国人が良しって頭があるから、今度ちゃんとに訊いてみなきゃ、なんてその後、三日間は思ってました。
(タイトルも外国人がどうご法度かも、実に2月11日に波乱持ちこし。そういうことなのです。)
あと、最初の基調講演をどうするみたいな話のとき、私がシンポジウムとかは?と尋ねると、それもまあ、まだまだ案の段階だったからか、とりあえずは聞く耳あり。
それでも、やっぱり話すのは、話した者勝ちって雰囲気満々で、やりきれない。
とうとうまたもシーンと静まる場に向けて、私はごくごく自然と口にしたのでありました。
「ここに「ともに」がなければ、外国人と「ともに」だって作れないでしょう。そうじゃないんですか。ここに「ともに」がなければ…。」
つとに自然と穏やかに語る。
見たぞー。見ちゃいました。約三名、小さく小さく身を縮めていく人が約三名。いずれのお三かたも内気で無口で、そしてこの場で身の置き所がないと感じているのは間違いない人たち。だけど、私の言うことに同意したり、「ともに」を探しましょうよ、なんてシャレたことは言えない人たち。身がみるみるうちに縮まっていくのです。
ひとりは前日、「私がんばって話しますから、よろしく」って私が伝えた、少なくとも信頼はしている友人。あとひとりは、どうして来ていたのか知らないけど、ある無口なお坊さん。それからHくんなのです。彼は私が言っている意味は判ったのよね。判るはずです。「後で十分時間はあるので、一旦切り上げて…」とマイク回したんだもの。それに素直で純粋な若者だしね。まあ、ちょいと弱い以上にかなり弱いけどさ。
それから提案させていただきましたのよ。というのも、ペルーのクスコ市の日本語学習グループの活動に生かす資金作りに制作した、英子撮影の絵葉書がごまんと残部あり、なので、これをこの催しに向けて、どんな形でもいいから生かしてほしいってね。早めに切りだして、反応ないからもう一回、この団体と関係の深いある別の団体からの助成も受けていたクスコの活動だから、この絵葉書をこういう形で生かすのは嬉しいんですと繰り返す。それでも、誰もうんともすんとも言わないのよね。その団体から、はるばるこの日のために遠路おいであそばした堂々氏が面倒そうに、「助成を受けたっていうそのユニオンはペルー人が労働問題、解決するたびに、ペルーのストリートチルドレンの活動のためにその一部を置いていって」なぞとさあっと説明。いかにもフクイのもんには判らねえだろってな感じ満々。
「はい、その一部を生かさせていただいたクスコの活動でした」と私、一応ね。
しかし、どうして誰もかも、この「提案」にも、なーんも言わねえんだ。またも…。またも。(そこで、3回目の先日、2月11日には準備して持っていきましたけどね。うんともすんとも言わないのは少なくとも拒否ではないですよね、って)

結局、この1回目の集まり、4時半まででしたね。前夜、英子ちゃんは次回から知らせて、とじきじき困った氏に毅然と電話したから、私の名前とアドレスは塗りつぶして、英子ちゃんの連絡先を新たに書き加えるという動作を、受付の紙でしなおす。しなおしました。
もうだめだー。こんなところで自分を保っていられない。ことごとく否定され、ことごとく遮られ、ことごとく沈黙をもってパワーハラスメントを見て見ぬふりをされて受けるようなところで、自分を使い捨てるような真似はできませぬ。
しかしだよー。集まっている人、みんな本当に人間なのかな。人間が集まって考えたり、互いを知りあったりしながら、この全国的な集まりで何が必要なのか、どんなこの地域の需要があるのか、とか知りあわなかったら、意味ないじゃん。ないじゃんたらないじゃん。
この夜以降、私がはたと「あれは紛れもなく衆目の無関心のなかで敢行されたパワーハラスメント」と眠れぬなか、はたと確信的に自覚した以降の日々の、めくるめく移ろいについては、ここではあえて触れませぬ。
Hくん、大変だったね。弱くて純粋で真面目なHくんは、全身全霊でこの催しをやろうなんて言っていたから、倒れちゃったんだね、少なくともそのあとの2回目の集まりは私たちには知らされず、3回目の2月11日には参加していなかった「ハグ」の面々。そしてHくん。無理しなくていいよ。必然性がないんだったら、困った氏にますます困らされる筋合いなんかないんだからさ、というのがたった今のHくんに寄せる正直な思い。
しかしねえ、2回目の12月の会、私たちに知らされず、知らせなかったこともシラバクレテ、まったくもう、だけどさ。
まあ、このあとの展開も、読んだら目をむくような展開だけれど、これは既成事実をもってして、この全国的な団体と困った氏の連携のもとに私たちの締め出しがあったんだとしたら…。いやはや、どう考えたらいいのやら…。
ははーん、もうやってらんないけど、私はやることにしたんですけどね。
や・る・こ・と・に。

 2017年2月19日  Matta虹主宰・米谷恵子(文責)
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| プエンテの会から | 20:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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今日2017年2月18日深夜、2016年11月12日に書いたままアップしなかった原稿を、満を持して投稿!

あえて、今日2017年2月18日深夜、2016年11月12日に書いたままアップしなかった原稿を、満を持して投稿!

結局、片腹痛し…ちゃんちゃらおかしい、身の程知らずーって笑い飛ばしたいのに、本当に片腹が痛いのです。文字通り。まだ10年と住んでいなかった1980年代に、私が『80年代』という雑誌に「北陸トンネルはタイムトンネルか」と題して寄稿した文面のなかの、「この土地」という表現に、「まだ、この県になじまずに、こんな事言っているんだ」と非難していたと確かな人づてに聞かされた人が、奇妙なことに外国人支援をずっとしているのです。
そして、その人とは一度たりとも話したこともないのに、なんだか先入観をもって噂にされてきたという確たる歴史があるのです。
なのに、その人もいる集まりに、明日はどうでも行かなきゃならない。

なぜなら、私は外国人支援に孤軍奮闘してきた時期がかなりあるから。英子ちゃんとともに、やれることはやりつくしましたから…。
でも、県内ではそれが通じる人はいないと思ってきたから、ほとんど言わずにきました。そして、今日その想いをあるかたに話しました。明日の集まりに、誰も私たちを誘わなかったように、このかたも誘ってはくれなかったけれど。
おとといある人が告知を、いつもどんな告知も流すように流していなかったら知り得なかっただろう、私たちにとても関係の深いある全国的な団体が、来年6月にこの県の県庁所在地でひらく外国人移住労働者のための大きな催しに向けての最初の集まり…。
≪Matta虹≫がマイノリティとして挙げているなかに、ちゃんとに「外国籍住民」と入れているのは、そういう背景あってのことです。
ペルーのクスコ市で私たちは「ふたりNGO」を足かけ10年続けた。週一回生徒たちと徹底的に話し合いの機会を持ちながら、日本語学習グループの結束を固めていった…。
たった千円の月ごとの会費のうちの50円分を、一週間待つこともあった。払えない人は申告制だった。帰国すれば、日本全国の支援者に報告のニュースレターを送った。毎年、それなりの額の支援のためのお金を集めた。

そして、日本のこの市内の市街地では…。私は2年、そのあとぼちぼち続けたのも含めると5年、主にこの市内の日系ブラジル人たち150人あまりと、日本語を教えることを通して向き合ってきた。仕事としては最低限の月謝で、日本語教室を安い家賃で借りて…。
二交代制の夜勤もある仕事にへとへとの彼らを励まし、彼らのシフトに合わせながら。
飛び込んできた技能研修生とは名ばかりの、ありえない薄給にあえぐスリランカ人の女性を、日系人女性二人のクラスに月500円で参加できるように…招いた…こともあった。
多くのブラジル人が、話されている日本語を理解できていても発信、発語できずに、工場で会社で、バカにされがちなことを、なんとか補うべく、その人一人一人に合った教えかたを徹底したりもした。
ああ、私のほぼ12年の人生を捧げたこの営み…。
この県内では知らせるべくもなく、ほぼ誰も知らないに等しいこの営み…。
いえいえ、実は当時はフクイ人の応援もそれなりありましたよ。国際交流会館なんかも出入りしていたし、感じてくれる人は感じたからカンパも集められたときもあった。

そのおもみが明日、本当に伝わるのだろうか。
その奥行きが明日、本当に意味を持つ始まりとなるのだろうか。
少しでも、少しずつでも…。
不安でいっぱい。どうして???
どうして、どうして、どうして???

なぜなら、今でも私たちは、ここでは「外国人」だからなのです。ヨソモノだからなのです。こういうふうに外国人支援をしている人たちからも疎外されているからです。
否、日本人の少数派が、女が、ヨソモノが孤立している状況のほうが、時には深刻かもしれない。誰からも、この県ではこの地域では、見えない孤立だから。誰も見ようとは、けっしてしない孤絶だから…。
悔しさを通り越して、片腹痛し、本当に疼いてくる。
ちゃんちゃらおかしい。身の程知らずーって叫びたい、笑い飛ばしたいというのに…。
さびしい、悲しい。

ええいっ、ブラジル人やメキシコ人、ペルー人のこの県内の友達にも声かけてみようかな。
みんな、本気でこの状況を変えなければなんて、なかなか思えないんだろうけどな。
必死で日本に、この県に、この空気に慣れよう、まぎれようとしているんだけどな。
サルサを踊るときだけは別よ。そうそう、あの赤ちゃんの誕生パーティでは、あの二人は一体誰って言っていたペルー人が何人かいたって聞いたっけな。
知らないの!って応えたって聞いたっけな。
はい、それは私たち二人ですよん。
そんな二人の一人、恵子が、外国人支援の催しを、少なくとも私たちとつながっていないという点では身の程知らずにしようとしている、この県のある人も含む、その集まりの初回に明日、やはり行くことにしたのです。
英子はもうひとつ、大事な先役ありだし…。
「センセーの日本語教室だから来てるのよー」って言ったブラジル人たち、今もこの市内にいるのかな。どうなんだろう。3000人も今だって住んでいるんだもの。
「センセーにぜひともまた、始めてほしいんだけどなあ」って数カ月前に言っていたあのブラジル人女性に連絡取らないままなんだけど、どうしているのかな。
私は身一つ。できることのキャパもある。
それでも、私は多くのことを、日本の外の外国に暮らす外国人の日本への思いからも、日本のなかに暮らす外国人の幸せと苦悩、その数々からも余りにも知り過ぎている。
知り過ぎたおもみを手放さずにいられようか。
その苦悩も、そのボーダーをもまたいだ豊かな経験も手放さずにいられようか。

ああ、悩ましい話だ。どうして、その集まりに楽しみな気持ちを抱いて行かれないのか。
そして、なぜ、そういう集まりに私たちは忘れられるのか。
あたかもウェルカムではないかのように…。どうして???
だからこそ皮肉にも、外国人の気持ちがまるごと判ってしまうというのに…。
いつも日本語を教えているうちに、「センセー、日本人じゃない、ガイコクジンよー」って言われるというのに。
それとも、そう言われるからこそなのか。
そう言われるような日本人だから、日本で外国人支援をする、ある種の人たちからは疎んじられるというのか。
だったらどうだっていうのか。
これこそ、本来の「経済度外視」のグロバリゼーションではないのか。

Matta虹主催・主筆 米谷恵子
2016年11月12日午前2時半


追記★この日の翌13日から2月の今日17日にまで至る、おそるべき展開を明らかにするのは保留とします。この一回目の会、そして三回目の2月11日の会に出て、明らかになったこと、困り果てていることなどは、準を追って明らかにすべきことのみしていきたいと思っています。どこまで歩けばいいのだろう。どこまでこんなんに巻き込まれなあかんのやろね。
それでも、やるべきことはやることにした、という、その日に、この3か月も前の11月12日に「予感に震えていた」その文面を今日こそアップします。
よっしゃあ。誰とも敵になんか、なりたくはないんだもの。
ただ、いろんなこと分かち合いながら進みたいだけ。
それが阻まれるなんて、ありえない。少しだけ風穴があいてきたから、そんな可能性を幻想を伴わずに穏やかに冷静に見つめつつ…。

| プエンテの会から | 20:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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次世代移住労働者

昨年秋、年末くらいから派遣切りで
ケイコのやっている、ひびき日本語教室も
ポツリポツリと生徒がいなくなって淋しかった。

だが、ちょうどと言うか、のえがなくなり
私たち二人とも、教室の維持がやっとで
ここのところは開店休業に近かった。

昨日、ブラジル人のある家族が、
日本語を勉強したいとやってきた。

若夫婦と3ヶ月の赤ん坊、
40代後半のおばあちゃんで面接に来てくれた。

この地元では、国際交流協会なるところが
派遣切りにあわせ、無料で日本語教室を6月までやっていた。

ひびき日本語教室を、プエンテの会が応援することも何度も考えたが
無料にすることは、考えられないし
ケイコもちょうど休んでいるほうがいいと、
手をこまねいていた。

ところが、いっぺんに3人の生徒が現れて、
失業中のおばあちゃんも含め何とか応援したい。
驚くことに、赤ちゃんのお母さんは、
小学校5年生の時にはじめて日本に来て、
この地の学校に通い始めて、
日本人と共に定時制高校にいたるまで学び続けていたのだ。

越前市の小学校を卒業した人が
もう、子どもを生み、ひびき日本語教室の門をたたき
自分の、日本語の不足を補おうとしている。

派遣切りりのこの時代、ケイコもぎりぎりのところまで料金体系を下げて
日本語支援をしようとしている。
もう一人の生徒も、休業保険を使って、
ともかく1ヶ月だけ学びたいと同じく昨日から始めた。
とてもやる気のある、生き生きとした頭の良い生徒とのことだ。

プエンテの会のペルーの支援の資金もまだ、かなりの額で残してある。
当分、ペルーにいくことができない中で
地元の支援を少し考えようかと思う。

ヒデコ

| プエンテの会から | 21:17 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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「壱の市」に参加

itinoiti

久しぶりのフリーマーケットへ参加。
越前市の蔵の辻で毎月第一日曜日にある「壱の市」に、
パンではなく、ペルーの民芸品を並べた。

昨年、10月5日に、パンとわずかなペルーの民芸品を並べていたとき
娘ののえの危篤の知らせが、大阪の友人からあって、
片付けもそこそこに、雷鳥に飛び乗り、電車の中で訃報を聞いた。
その苦しい知らせから、7ヶ月。

今年に入ってからは、ケイコは、うつ状態。
私は癌と、なかなか人のいるところにいけなかった。

やっと、春の到来と共に、友人や家族が訪ねてきてくれ、
病みからも這い上がれるようになってきた。

壱の市で、ペルーの民芸品が、
結構売れて、ケイコはうれしそう。
うつから、癌から、前にいけそうだ。
久しぶりの収入とあって、

| プエンテの会から | 00:46 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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市内在住日系ブラジル人の多様さ

とうとう日曜日のクラスを始めて三週間目となった。

日曜日の午後一時から三時まで、ブラジル人一家三人を教えている。
一番しっかり者の、息子に言わせれば、「うちの王様」というお母さん。

それから、恥ずかしがりやで内気で、
日本人らしい顔だちだから日本語がおかしかったらまずい、という抑圧ゆえに、
日本語を余りにも長い間しゃべる機会を逸してきて、
日本語の一言一言を発するのがやっとのお父さん。

なんのなんの、それがロバート・デニーロなみの美男子で、
外国人だと開き直ったら、日本語もどんどんうまくなれただろうと思うくらいだ。

それから、中学一年のカタカナ表記の日本名を持つ、屈託のない少年。
彼には、ブラジルに帰っていた数年間、ブランクになってしまった漢字学習をしている。

少年に訊いた。
君と同じくらいの年で、初めて日本に来るブラジル人の友達はいるの?
いるよ。最初は先生が少し教えてくれるけど、それでは全然足りない。
友達が教えてやったりするけど、同じブラジル人だって、
日本に長いこといれば、今度はポルトガル語を忘れているから役に立たない。

授業は全部わかるの?
だいたいわかればいいと思っている。完璧にわかることなんてないよ。
じゃあ、本当に分かったことにならないね。
そうだね。

レベルの違うこの子のお母さんとお父さんを教えるのは大変だ。
二人が満足できるように様々な工夫を凝らす。
お父さんがスムーズに口を開くようになった今日、
彼女は目をつぶってかみしめるようにしていた。

うれしいのね。彼が話したから。
そう言うと、
そう、ほんとうにうれしい、
と返ってくる。

こうやって新しく入ってくる家族もいれば、
派遣社員という危うい立場の中、
次々と解雇になり、やむなくクラスを去っていく、
二ヶ月、三か月の蓄積ですっかり信頼関係のできた生徒もいる。

一級の日本語能力試験を受けたいと入ってきた四十代の男性もいる。
彼は一人暮らし。休日は各地を旅したり、日本の文化を吸収するのを堪能。
浜崎あゆみのファンでもあり、その歌詞カード持参で私に質問をしてくる。

ゼロ入門コースというグループのレッスンも、
わずかだが去っていく人もいれば、また入ってくる人もいる。
これまた、家族で友達同士で、という例が増えている。

若い頭も柔らかい、見るからにビビッドなカップルも満足げに学習に励む。

そして、夏休みを前にした季節。
四人の十代半ばから十代前半の子どもたちが日本に到着するのを待っている、
長い間日本で働きに働いてきた女性もいる。

子どもたちがもうすぐ来ます。うれしい、とってもうれしいです。
先生、教えます。だから大丈夫。

ずきーん。

責任の重さだけではなく、もしかしてこの教室があるからこそ、
彼女が決断を早められたのではないか、
そう思うとくらくらっとするものがあつた。

日本語を覚える、という「需要」と言っても、
限りなく裾野は広い。
その全てに私が応じられるかどうかもわからない。

ただ、中一の少年に漢字を教え始めて、
日本語、というか、教科で言うなら「国語」というか、
そんな枠組みの中でも、
読解力のようなものをつける必要性すら感じ始めている。

ポルトガル語でも日本語でも、
自分の本当の気持ちを確かめたり、
自分の考えを深めたり、
そんなことができない子どもたちを増やしている、
日本の受け皿の貧しさをあらためてひしと思う。

そろそろ、「国語」の教科書は「日本語」となるべきではないか。

この少年は言った。

ええっ、15歳から12歳の4人が、日本語をなんも知らんで来るの?
それって、めちゃ大変。めちゃめちゃ大変だよ。

さあ、どうしたものかな。




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